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篆額と自虐

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大分県国東市安岐町両子の歳(とし)神社ノボリについて

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令和四年、つまり2年前の202... 令和四年、つまり2年前の2022年に、3名の方(あえて★★で匿名)が出資してノボリ旗を新調されたのですね。その前は「平成十三年/十一月吉日」が右の「其誠」の下。「維明」とあるほうの下に「氏子中」との墨書あり、です。それにつけても、「維明」のすぐ上「淑慝」とある文字、はたして意味なり字体なりをきっちり把握して揮毫されておられるのか、ちょっと気になってます。
 大分県の国東半島は、山でいえば中心にある両子山(ふたごさん)が標高710メートルで最高峰なのです。山頂からだと南に、天台宗の両子寺があり、江戸時代からはこの地区の寺院と僧侶、いわゆる六郷満山(ろくごうまんざん)で中心的な役割をつとめています。
     
 そうした名刹から南へ約5キロ下ると、小ぶりな仁王様1対が西を向いて立つ、安岐町両子の歳神社があります。夏と冬の祭礼日には、県道をはさんだ両子川よりに、8文字ずつの聯句を墨書したノボリが1対かかげられます。2023年は7月28日午後に立て、30日に撤収。冬の例祭は12月10日に掲げられました。
 聯句は左が「禍福在己天顧其誠」、
    右が「日監在上淑慝維明」です。

 だれも教えてくれなかったので、気づかなかったのですが実はこの対句、豊後聖人とも呼ばれる、三浦梅園(1723-1789)の撰、つまり考えアレンジし公表した作品、なのです! そしてその、江戸時代でもっとも独創的な取り組みで天地自然の条理を解き明かそうとしたと評される学者が生涯を暮らした村は、両子の歳神社から南に約3キロ。かぞえどし67で没した旧宅も残っていて国指定史跡(昭和34年指定)となっています。

 さらに書き残した自筆稿本類も200冊を超えた30タイトルが、国の重要文化財として昭和44年に指定。所有者は三浦梅園のご子孫ですが、国東市が管理、公設の三浦梅園資料館で保管、一部が展示されています。
 
 梅園60歳代の自作漢詩を清書した「又乙三」と題した冊子は実質、未公開のままなのですが、
 
    題某神祠之聯
  禍福在己、天顧其誠、日監在上、淑慝維明
 
とあること、確認しました。タイトルは「某神祠に題するの聯」と読むはず。句そのものをどう読むかの訓点はなく、大正元年刊『梅園全集』下巻七三〇頁下段でも、そのまま返り点や送り仮名なしの翻字です(天明五年 1785の作)。活字に組まれたのは、国会図書館がデジタル・アーカイブもしている次の『梅園全集』下巻たった一度だけ。
 
 左右の8文字の連なりを、つとめて同じ構文の句とみて
 
禍福は己(おのれ)に在るも、天顧(かへりみ)るは其の誠。
日監し上に在りて、淑慝(シュクトク)(こ)れ明。
 
 と読めば梅園が伝えようとした次の意味に近づくヵも……
 現代での交通安全の標語っぽくすればいい、との方針ですが!

幸も不幸も本人しだい  まことのおこない報われる
おてんとさまが日々見てる 良し悪ししっかり明らかに
 
 ぐらいに訳すべき、かな?
 
「日監」は『詩経』周頌(シュウショウ)「敬之」の
  「日監在茲」 日(ひび)に監(かんが)みて茲(ここ)に在り
「淑慝」は「善悪」と同じ意味で『書経』畢命(ヒツメイ)
  「旌別淑慝、表厥宅里」 淑慝を旌別し、厥(そ)の宅里に表す
と、ともに代表的な経書、つまり儒教の古典の終盤ちかくに用例があります。特に見慣れぬ「淑慝」との語は揮毫された方も、字体を意識できず、伝来の古いノボリに似せて書いたのかも?
 
 三浦梅園はその著作『玄語』で、中国古典を直接引用することがないのですが、頼まれて神社の鳥居銘やノボリに掲げる対句を撰する場合は、儒教古典の一節をふまえるのです。
 
 なお三浦梅園が晩年まとめた和文の著 『愉婉録(ゆえんろく)』でも、巻下「紺屋町はつ」の章に、四国でお遍路さんをした人から「土佐にて孝子の里に孝行柱」が立っていたと聞き、それが「門閭に旌表す」ということなのだな、と記録してます。
  『愉婉録』巻下 原文《紺屋町はつ 第5節》
https://yuenroku.exblog.jp/19408883/
  《y21-5 諸国の孝子顕彰事情》
 
 この『愉婉録』巻下を読んでもらえる上記ブログは、商用の宣伝が、勝手にかぶってくるのですが、こちら「篆額と自虐」の執筆者が、そっちの編集もやっております。

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クサギ「常山」戯示学徒

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李 時珍『本草綱目』毒草類の「... 李 時珍『本草綱目』毒草類の「常山 蜀漆」は、和名「コクサギ」とされてます。その葉、どれほどの悪臭があるか、におわすこと、できませんが……
今回は、石に刻された文字は扱わず、になるとな。それでも、新渡戸稲造が英文で表した《BUSHI DO》第二章に引かれた一節に、かかわるって?

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大分県国東市某地区「天満社」鳥居の「變態」銘

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鳥居の中央上部、【額束】は「天... 鳥居の中央上部、【額束】は「天滿宮」。左右の柱、裏側の刻字は、本文記事の中段を参照。
 あら、じっちゃま、二年ぶり!

 おう、新型コロナウィルスとかで行き来を自粛せにゃならないご時世だったからのう。で、国東に何しにきたの?
 江戸時代、こちらに居た俳人を調べるためよ。文殊仙寺を峨眉山と言い換えて、ゆかりの句集を編んだ、中田一正子、あるいは「一笑子」と名乗った人物。どうも中田村で庄屋をつとめていたみたいなの。

 ほう。で、どこまでつきとめたの?
 じっちゃんが紹介してくれた物知りさんに、先に連絡をしたの。きのう、さっそく国東町中田という村落まで案内してもらって、近世での庄屋は代々、中野姓ということなど、住んでいる方から聞き取ったわ。そして山の中の墓所までいったの。

 ああ、もとの国東市議で、今は歴史小説を執筆しているA君を頼ったんだね。
 で、わかったの?
 それが、山の斜面をかなり登って、墓石が群れを成すところにたどりついたら、通常の形ではないお墓があったの。自然石に「中野億右衛門」って彫ってある俗名は、しっかり読めた。墓石の正面には「一笑」と刻されているのは確かで、「居士」と続いているようだったの。つまり、探しに来たその俳諧師の、お墓をみつけちゃったのよ!

 へぇ、すごいね。
 ただ風化が進んだのか、もともと刻してなかったのか、彫ってありそうな没年は読み取れなかったの!

 ほう。それで関連する情報がないか、ときたわけだ。
 はい。お墓さがしの帰りに、きちんと手入れされた中田村の歳神社に立ち寄ったわ。通りに近いほうは昭和十一年に建立の鳥居、境内に入るところのは江戸中期かなぁと思えた古い鳥居。それぞれの銘も見てきたわ。

 なら、例の郷土史雑誌も、国東の図書館でみて調べたんだろうね。
 もちろん! 1989年刊行「くにさき史談」第6集、特集「国東町の鳥居」ね。
 その21から22ページ「上国東地区」の鳥居、18番と19番として記録された、中田「歳神社」の一ノ鳥居、二ノ鳥居。江戸時代のほうは「当村庄屋 中野増右衛門重宏」の名があるって載ってるんだけど、これ「一笑子」の祖父あたりかな、って思えた。

 じゃあ、同じ雑誌の同じ地区、「17. 天満社 中田」として、次のように記載されてる鳥居は、見たかい?

 **********************
【先行する記述②】「くにさき史談」第6集 
  国東町の鳥居の調査【p21】上国東地区
  から転載 ****************

17. 天満社 中田
 額「天満宮」 稲荷鳥居 高サ三.五〇 柱間二.五〇
變態ヘンタイ一朝之浮雲   中野億右衛門忠義
          由太郎継父志成之
          夫力 村 中
儒雅ジュガ之清風   安永十年辛丑カノトウシ二月吉日
  變態 ―変わったかたち、儒雅 ―儒教の正しい道
 ***********************


 それなの。「中野億右衛門忠義」が、俳人「中田一笑子」に違いない、って思うわ。
 でも、その中田の「天満社」が、どこにあるか不明!

 は~い、はい。そんなことだろうと思って、昨年夏に撮影した鳥居銘の写真を掲げるよ。とっても、ナイスな文字が刻してあるからね。
 あらら、やっぱり「変態」。じっちゃま、よくお調べね!

 そっちじゃなく、ワシを「儒教を学んだ優雅な君子」と見て欲しいゾ。
 無理! できかねますゎ。で、刻された文字の判読、大丈夫なのかしら。

 そう、「先行する記述」では、鳥居の左右、両柱のどっちの裏側に、年号や建立者の名が刻されているか、わからない表記になってた。正しくは次の通りじゃった。以下、二〇二一年八月に実視しての再現だぞ。
 *********************

  【右 柱】變態一朝之浮雲

【額 束】天滿宮

  【左 柱】儒雅千載之清風


 【右柱の裏】
    由太郎継父志成之
       夫力村中

 【左柱の裏の建立者(庄屋)名と年(1781)月日】
   庄屋
    中野億右衞門忠義
  安永十年辛丑二月吉旦

 *********************

 はい、ご苦労様。で場所は、そもそもどこだったの?

 郵便番号から言えば、〒873-0532、大分県国東市国東町中田だけど、番地は伏せておこう。
 現行のどの地図にも神社マークなど、ない。農機具を置いた民家の倉庫の北側斜面の急な石段の中腹に立つ鳥居なんだ。ただし石段を登りきっても現状、木造の社殿はなかった。
 そこって、地図では田深川に沿った県道〔650〕のそばに違いないわね。

 そうじゃょ。田深川の上流へと、もう1キロほど県道を進めば、国東町見地。そこに平家の末裔にちなむとかの「小松神社」があって、そちらはどの地図にも明記あり、だけどね。
 ついでに古~い新聞記事も、紹介してくださるのね。

 約80年前の地元発行の新聞連載の切り抜きだけど、大分県立図書館にそれを貼りこんだ資料があった。記事のなか、この「變態」鳥居銘を考えたり文字を書いた人物についての推測は、そのまま受け取るつもりはないけど、該当箇所を漢字体や改行箇所、そして振られたルビまで忠実に再現しておくぞ。

 *********************
【先行する記述①】河野清實「鳥居巡拜」(6)
   昭和十六年一月「豐州新報」
  【掲載日不詳だが22日前後か】
 *********************


(四一)中田天滿社
  の鳥居

 此宮に小さなとり居がある、高
やく一間五しやく額束がくつかに天滿宮と
書いてれう柱にめい文がある。
△右柱(表)變態一朝之浮雲
△左柱(表)儒雅千載之清風
 變態一朝のうき雲、儒さい
せい風とむ語きわめて簡單かんたんしか
【衍】も菅公の一生を云ひくして
遺憾ゐかんがない、書たい謹嚴きんげんせいしん
しきの楷書である、きう正家中野

あや子氏の話によると其の祖先
の書いてもらつたもので梅園ばいえんの書
と云ひ傳へる、併し書風は梅園ばいえん
のではない、此の建設けんせつは安えい
年、梅園ばいえん五十九さいの時であるが
おそらく梅園ばいえんせん文で其子黄鶴に
書かせたのであらう黄鶴は能書
家で梅園ばいえんでさへわれは書に於ては
黄鶴に及ばずと云ふくらゐである、
 ……


 あら「一笑子」のお墓を発見したAさん、記事に名前があがった「中野あや子」さんのこと、言ってたわ。明治から昭和初年まで衆議院議員に連続当選した、地元選出の政治家、元田はじめに、中田村出身の女性が寄り添ってきてた、とかょ。

 ありゃりゃ、いろんなこと仕入れて、耳年増なお嬢ちゃんになってきたねぇ……
 キャー、近寄ってこないで、この「變態」!

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『詩経』を引いて農をねぎらい ―― 豊後高田市水崎神社の鳥居銘

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神社の名は、地域の名でもある「... 神社の名は、地域の名でもある「水崎」で、地元では「みんさき」と呼ばれることが多いとか。場所は、高田市民グラウンド(そんなに大きくはなく観客席なしの平らな野球場)の、道をはさんだ東側。
『詩経』を引いて農をねぎらい
荼蓼朽止 黍稷茂止 
穫之挃〻 積之栗〻

 ―― 豊後高田市水崎神社の鳥居銘


 大分県の北部は、旧国名でいえば国東半島の豊後高田までが、その名のとおりに「豊後」、その西隣の宇佐市から北が「豊前」。宇佐市では「封戸(ふべ)」という地域が、豊後と接する境い目にあたる。封戸郵便局や封戸小学校の住所は大分県宇佐市苅宇田なのだが、そこから北へ500メートルほどの水崎地区は豊後高田市。ただしこの水崎は、もともと豊前の宇佐郡に含まれていたとのこと(平凡社[日本歴史地名大系]43『大分県の地名』p337「水崎村」参照)。
 そんな区域の話もからめ、明治時代の貴族院議員さんが造らせた、水崎神社の鳥居銘を紹介したい。儒教古典『詩経』から農作業をねぎらう16文字をそのまま引いて刻していること、写真で見てほしい。

 漢文を学んで漢詩を作り、中国古典の教養を身に着けていた、地元の貴族院議員さんが明治28年(1895)に建てたこと、鳥居の左右の柱の裏側に彫ってある(写真は省略)。その名士・水之江 浩((みずのえ ひろし)弘化2年=1845~ 1922=大正11年)は、もと近隣の宇佐郡北馬城(きたまき)地区、日足(ひあし)という村の佐藤家からの養子とのこと。水之江家は、江戸時代から製塩その他で盛業を続けていた素封家。引用した儒教古典は『詩経』で、そのうしろのほう「周頌(しゅうしょう)」に含まれる作品《良耜(りょうし)
   【参考原文】《中國哲學書電子化計劃》
https://ctext.org/book-of-poetry/liang-si/zh
 先秦兩漢 -> 經典文獻 -> 詩經 -> 頌 -> 周頌 -> 閔予小子之什 -> 良耜

 訓読は、江戸後期から明治時代の読み方を、その時代の刊行物によって示したく思ったが、準備が間に合わず。手元にある標準的な「大系」もので代用。
荼蓼朽止 黍稷茂止
  荼蓼(とれう)朽ち 黍稷(しょしょく)(しげ)
穫之挃〻 積之栗〻
  之(これ)を穫(か)ること挃挃(ちつちつ)たり 之(これ)を積(つ)むこと栗栗(りつりつ)たり

 と訓読を示すのが、
高田 眞治 昭和四十三年六月 刊集英社[漢詩大系]第二巻
『詩經 下』六〇〇頁【同社 一九九六年[漢詩選]2『詩經 下』は新装版と銘打った再刊で同じもの】
 で、解釈は次のよう。

苗を害する毒草も取り払われ、朽ち腐れて肥料となり、黍稷百穀の苗が成る。
さくさくと禾(いね)を刈り、禾の束を多く積み重ねる。

 別のスタンダードな解釈書、明治書院[新釈漢文大系]112『詩経 下』三六五頁でも、訓読はほぼ同文。
  荼蓼(とれう)は朽(く)ち 黍稷(しょしょく)は茂(しげ)
  之(これ)を穫(か)ること挃挃(ちつちつ) 之(これ)を積(つ)むこと栗栗(りつりつ)

 現代語訳は、次のように簡明。
  雑草は枯れ、キビが生い茂る。
  これを刈りとって、山のように積む。

 こちら明治書院[新釈漢文大系]の『詩経』を監訳された編著者は、中国文学・唐詩の研究者として名高く、漢詩人でもある石川忠久先生。ただこの「周頌」については原稿の作成は(藪 敏裕)と目次にある。

 最後に、鳥居銘そのものの参考文献を①②として示し、関連部分を引いておく。

①高原 三郎 昭和五十二年三月 (大分市)双林社
 『大分の鳥居 [続 大分の神々]』172頁では
第四編 銘文さまざま「十 中国の古典を出典とする銘文」
 1 詩経(三十三項【その29】)
  年   西暦   社名  所 在
明治二八 一八九五 加 茂 高田市水崎
 と項目を列挙し、左右の柱の裏面の刻字は説明せずに
「銘文」を「荼蓼朽止 黍稷茂止 穫之挃挃 積之栗栗」と1行に表記。
 毒草は刈りとられて腐り、穀物がよく茂り実った。とり入れの声盛んで、多くの人がこれを積みかさねている。
豊年の状況の嘉詞なり。(止は無意味の助詞。)
 と、解説を続けている。

 地域としての、豊後高田の鳥居銘をすべて私家版の活字刊行物で紹介するのが
②岩野 勝(いわの まさる) 昭和五十五年三月『私の郷土探訪』
 その第三章「鳥居銘調査」で、地域別の掲載とする「第二節 各地区の鳥居銘」で、豊後の最西端、宇佐市との市境の「水崎地区」から始めていて、「2 今村・水崎神社」は、次のようにタイプ植字で再現し、「( )背面銘」とも添えている。
    (願主貴族院議員水之江浩)
   とりょうくちたり しょしょくしげれり
 ┌ 荼蓼朽止 黍稷茂止
〔水崎神社〕
 └ 穫之挃〃 積之栗〃
   かることこれをちつちつ つむことこれをりつりつ
    (明治貳拾有八年十一月十日)

 実はこの水崎神社からさほど遠くはない、豊前とされる地域の一神社でも、『詩経』の句をほぼそのまま鳥居銘として刻す事例もある。宇佐の北馬城地区、橋津神社であり、江戸時代・天保十二年(1841)に建てられた石造鳥居の銘は『詩経』大雅「下武」の末尾「受天之祜 四方來賀」と「於萬斯年 不遐有佐」を、左右の柱に8文字ずつ刻す。ただしその右柱の2文字目は『詩経』での「天」を、1文字だけ「神」に換えて刻しているので、ぜひ近い時期に紹介してみたい。

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宇佐市岩崎・戸崎神社の残存鳥居!

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大分県宇佐市岩崎、北馬城小学校... 大分県宇佐市岩崎、北馬城小学校の近くの小高い丘の頂点あたりです。宇佐神宮よりはだいぶJR日豊本線の宇佐駅に近づいたポイント。すでに神社の遺構と化し、近くの岩崎神社に合祀されているとの、黒みかげ石の記念碑も立ってます。
画像は、横におきたいんだ!

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楽庭神社の鳥居(年月が篆書体)――大分県国東市武蔵町 吉弘

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右側の新しい碑にあるとおり、吉... 右側の新しい碑にあるとおり、吉弘楽(よしひろがく)は国の重要無形民俗文化財に指定され、毎年七月の第四日曜日に、午前・午後の2度「楽打ち」の演舞が行われる。
 じっちゃま、ブログが一年、投稿無しョ! まさか放置プレーのつもりで楽しんでらっしゃるの?

 おぃおぃ君には、しばしば古文書の解読をお願いして、そのたびごとに食事はおごっていたろうよ。

 はい、江戸時代の書簡やらなんやら、きっちり読んでさしあげたゎ。それでもう篆書体には興味がないの? って勘ぐってるのょ……

 うーん。国東町興導寺、大正時代の鳥居ね。額に「埊宔神社」ってある右の柱の最後の字、これに違いないとの判定、しかねているんだ。それに、やはりすぐそば国東町で最大の櫻八幡との関連を考慮しなくちゃ、って、このあいだ痛感してね。

 あら、櫻八幡の鳥居なら1989年刊行「くにさき史談」第6集特集「国東町の鳥居」をお調べになれば、疑問はないはずでしょ。

 ほい、その号「旧国東地区」の鳥居、34ページ45.番に記録された「桜八幡社」正面、明治22年に建ったやつ。鳥居銘は左右とも10文字。

 それ、普通に楷書体に近い行書で刻してあって、風化がすすんでるわけでもないでしょ。読めない字はないはずよ。

 そうなんだ、きっちり文字は読める。銘の本文と解釈は、ここではやめておくけど、銘の撰者は「含章 小川 敬書」で、神社の宮司さんの名前も「祠官 興満豊嶠」って彫ってあった。実はこの鳥居から数百メートル、海岸線よりというか国東バスセンターとして知られている大分交通の車庫を越したあたりに、ちょっとした墓地があってね。そこに「小川含章」の墓があるんだ。

 あら、鳥居銘を考えて書いた学者さんのお墓が、実際に銘を彫って建ってる神社の鳥居から近いとこにあるなんて、珍しいわね。で、なにをしくじったわけ。

 神主さんの「興満豊嶠」! ちなみに四字めは「嬌」や「矯」でも、ましては同音の「胸」に作った「豊胸」じゃないょ。君、どう読む?

 やだ、やらしい眼! 「どこ見てんのよ!」 うら若いわたしに音読みさせようたって、その手には乗らないゎよ。

 ははは…… 実は「小川含章」の墓に略伝が刻されていて2ヵ月ほど前、ちょっとしたグループの前でその漢文の解釈を披露してみたんだ。でもまだ実際の墓碑を確かめに行かず、古い郷土研究雑誌と町史に2回、載っていた墓碑の翻刻を元に解釈を進めたもんだから、小川含章先生の長女が「興満豊嶋」に嫁いだ、ってなくだりを正しい文章とみなして解説をこころみてしまってね。櫻八幡の宮司さんや鳥居のことなど調べずにやったもんだから、「興満」が神主さんの苗字だったなんて思いもよらずにやっちまって! その名前も「豊嶠」って、墓碑には実際に刻してあったんだ。姓は「おきみつ」、号なのか名は「ホウキョウ」が正しい読みだったのさ。

 じゃ、そのこと、小川含章の墓碑と鳥居銘を正確に再現することで、このブログをお使いになれば、いいじゃないの。

 そりゃもう疑問は残ってないから、即刻とりかかれるけど。まずは鳥居銘が楷書や行書じゃなくて、より古い漢字の字体で刻されていることの報告をすませた先に、やりたいんだ。それに話題にした国東町興導寺「埊宔神社」の鳥居にも「社掌 興満三郎」って彫ってあったしね。

 あれ櫻八幡の正面の鳥居は「紀元二千五百四十九」と刻してあって「祠官 興満豊嶠」。南に300メートルも離れていない、教育会館そばの地主社鳥居は「紀元二千五百七十九年」ってあるから、そっちの「社掌 興満三郎(おきみつ・サブロー)」さんは「豊嶠」読みは「ホーキョー」さん、の三男なのかしら?

 櫻八幡の鳥居、皇紀2549は明治22年・西暦1889
 地主社の鳥居、皇紀2579は大正9年・西暦1919だからね。

 昭和15年の「紀元は、にせ~んろっぴゃくねん」っていう歌を、じっちゃんの亡くなったお母さまから聞いた、っていうお話しにつなげたいの?

 明治の半ばから大正期、たぶん「興満(おきみつ)」姓の神主さんが意識的に皇紀を鳥居に彫らせた実例としてキモに銘じておきたいだけさ。そしてあえてその西暦1919・大正八年に「埊宔神社」っていう鳥居の額を掲げ、左右の柱の銘文にも古い漢字体を彫った意図を考えたいのさ。

 じゃ「埊宔神社」の鳥居銘、右は「平和定神慮」、左は「享復昂冥助」で決まりね。

 う~ん。刻された篆書ふうの字体は、それぞれちょっとずつ『説文解字』の見出し字と違って、何をお手本にその鳥居銘を彫らせたか、まだ調べがついていないんだ。しかも右の柱の銘の5文字目、よく見ると「虍」の左側の払い「丿」は刻してないようにも見えて『くにさき史談』が文字にするとおりの「意」でいいのかな、って思えてね。「平和 神意を定む」でいいかな、なんだ。

 それで国東町の中心から離れて、同じ国東市内でも別の神社の鳥居銘に話題を変えて、篆書体が彫られた例を持ち出すわけね。

 そう。国東の櫻八幡は今の市役所からすぐの場所なんだけど、そこから南西方向にかなり離れていて、13年前までは行政区画も「武蔵町」で別の地域だった、吉弘地区の楽庭神社。その寶暦四年(1754)の鳥居さ。

 上にその写真を掲げたわけね。えんえんと「興満」姓の神官さんのお話をつづけておいて、ようやく国東市武蔵町吉弘の神社が本日の話題、ってわけなのね。

 江戸時代のちょうど中ごろの鳥居で、宝暦四年は西暦で1754。
  右 柱 寶暦 甲 戌 四年
額 束   八幡宮
(2行)   山神社
  左 柱 仲 春 日

 篆書体で刻されたのはここまで、額と年月日だけ。建立にかかわった役職・人名も刻されているけど再現を略すよ。字体は隷書ふうの楷書だからね。

 わたし、ここの吉弘楽、七月下旬に見に行こうと思って国東に来てたことあるんだけど、じっちゃま始め、誰も案内してくれなかったじゃない!

 ははは、首から吊り下げ、おなかの前で抱えた太鼓を打っての、虫封じ踊りみたいなイメージだょ。今年の夏に見に行ってみたら。国東市観光協会によるサイトや、PDF化されているパンフレット
http://www.city.kunisaki.oita.jp/uploaded/attachment/6437.pdf
 がいい案内になってるよ。
http://visit-kunisaki.com/event_info/%E5%90%89%E5%BC%98%E6%A5%BD%EF%BC%88%E3%82%88%E3%81%97%E3%81%B2%E3%82%8D%E3%81%8C%E3%81%8F%EF%BC%89/

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埊宔神社(額束)――大分県国東市国東町興導寺

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上の地図は、2006年3月末に... 上の地図は、2006年3月末に近隣四町合併で誕生した国東市になる前の古い時代。縦に走る国道213号線および東側に路線バス停留所の名でもある「国東警察署」があることは同じでも、現在は地図の中心西側に総合ホール「アストくにさき」と国東市の新庁舎がそびえている。
 あら、じっちゃま、お久しぶりね。

 そうとも、九州で仕事があって住み込みで働き続けていたからね。そうしたおり君から、大分県のある神社で則天文字「埊」が使われている、って一報をうけたんだよね。

 そう、大分空港がある国東半島でよ。母がその国東町で高校卒業まで暮らしていたの。わたしにとっては縁遠くなっていた場所だけど、空港にも「大分←→国東」のあいだの路線バスが停まるんで、ちょっと時間を取って一人で終点「国東」バスセンターまで乗って散策してきたの。

 それなら国東町で一番大きな「櫻八幡」っていう神社に違いない、って勘ぐったわけ。なにしろ、ほかの地域とはちがって、大分県の北東部は、石でできた鳥居の左右の柱に、文字が刻されている地域だからね。で、仕事休みの日に櫻八幡まで調べに行って、境内社を含めたくさんある鳥居をしらみつぶしに観察したんだけど、天地の地に該当する「埊」なんて発見できず!

 あら、その「櫻八幡」社じゃなくて、そこから数分、南のほうに歩いた別の小ぶりの神社で発見したのよ。言ってなかったっけ。

 ちゃんと聞いてなかった。というより、君から写真でもメールに添えて送信してくれりゃあ、すぐわかったのに。

 残念でした。物知りのじっちゃまだから、すぐわかると思ったけどねぇ。

「櫻八幡」のそば、親不孝どおりとか言われた飲み屋街が、さびれてしまったことぐらいは、見回って実感してたけど、近くの神社すべてを注意深く見て回ってはいなかったからねぇ。そこで、やたら歩き回って探すよりは、得意の文献調査で、あたりをつけ直そうとしたんだ。地元の同人誌のような、B5判での不定期刊行物なんだけど、1998年に出た
 「くにさき史談」第6集に「国東町の鳥居」
という特集が、多くのページを割いて載っているんだ。

 雑誌そのものを手に入れたの?

 いや10数年前にコピーして、綴じずにどこかに重ねてただけ。あらためて「国東地域」で52を数える、鳥居の報告を確かめたぞ。

 最後のほう、45から52までが鶴川というところの「桜八幡」の鳥居ね。

 そう。その前、41から44が興導寺というアザナだけど「地主社」の鳥居を報告していた。

 それよ! 私が見てきたのは。

 だろうね。「くにさき史談」第6集34ページ、国東地域の「42.地主社」だと、あたりをつけて再度、探訪!

 その時、コピーした文献の一部分と、ようやくたどりついて写してきたのを組み合わせたのを、このブログの記事に掲げたわけね。

 ということ。鳥居の上部の「額」の部分、「埊宔神社」とあるのが、君による大発見、ってわけね。

 地主だけじゃなくって、続く「神社」のほうも篆書風の隷書なのか、異体字なのか、すごいでしょ。

「くにさき史談」では、通常の字体に直してあるけどね。大正八年(一九一九)に、そこそこ漢字の字体について見識を有していたかたが、これを作らせたんだろうね。

 ついでに、鳥居の左右の柱に彫られた銘文にも注目してょ。

 それは記事を別にして考えようょ。地元の史談会によるご労作も、きっちり判読しているとも思えないんだ。

 あら、返り点まで添えて、そこそこわかりやすいんじゃない。

 元の鳥居、というより石造物に刻されることなんかない「一・二」点、加わってるよね。漢文というものには返り点が添えられなきゃならない、っていう固定観念に縛られた世代の方々の「ご労作」かなぁ。

 そこより漢字の判読に、イチャモンつけたいんでしょ。

 そう。特に「神意」とされた箇所! 右下も「神慮」と読んだほうが、左の柱の「冥助」と韻を踏みそうなんだ。

 じゃあ、鳥居銘に刻された漢字は、もう少し字体のお手本を調べてくださる、ってことで、またよろしくね。

ワオ!と言っているユーザー

則天文字の「埊」……三鷹市牟礼の石橋供養の碑

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左が平成8年3月刊『みたかの石... 左が平成8年3月刊『みたかの石造物』該当ページへの文字訂正
右が実際の碑の右側面(2017年2月3日撮影)
 江戸時代半ばの石碑に、則天文字の「地」が刻されていること、発見したんだって!

 そうなの、1700年代半ばの、石橋供養碑、右側面に、くっきりと「埊久」とあって、その下にも、ちょっと変な字体が続いてたの。

 で、その写真をデジカメでパチリして来たわけね。そもそも、どうやって「埊」の字なんかの、ちょっと読めない字に気づいたわけ?

 ほら三鷹の禅林寺にある森鷗外や太宰治のお墓に行ってみたい、って言ってらしたわょね。ご案内する前に図書館で下調べしておこうと思って手に取ったのが『みたかの石造物』。平成8年発行のA4サイズの刊行物で、それを三鷹市立図書館の2階、地域資料室でめくってみたら 
  埊久𠙁𠑶
 みたいに組まれた活字が目に飛びこんできたのよ

 ほう。で、それ三鷹のどこにある碑だったの。

 三鷹市の東はじ、もう杉並区の久我山に近い、牟礼(むれ)という地区。玉川上水にかかっている「牟礼橋」とか「どんどん橋」って呼ばれるところに建ってる石碑のようだったの。すぐ三鷹駅の南口まで戻って、バス1番乗り場から久我山駅ゆきに乗車。速攻で確認してきたわよ。

 やったね! その写真どおりに、できるだけ字体を正確に再現しながら、碑の右サイドにどんな漢字が刻されているか、大きく入力してみよう。

  維此辜月 新考石梁 不騫不朽
  千載有常 行人坦坦 河水湯湯
  太平餘澤 埊久𠀡𠑿
   寚厤丁丑  景山平忠充題


 こう読み取ったわけね。終わりの行の年号は「宝暦丁丑」でいいの。

 うん。「丁丑」は、しっかり刻されてる。宝暦の丑どしは七年。西暦1757年。碑の正面「石橋建立供羪之碑」の右と左に「寳暦七丁丑歳」「十一月大吉日」と刻されているのと、ぴったり合致。

 刻されている字体「寚厤」は、「寶」から貝を除き、「曆」から曰を除いた漢字、っていうわけね。

 そう「寚」も「厤」も、字書にどう載っているか調べたょ。と言っても江戸時代のなかごろ、もっとも使われていた明・梅膺祚『字彙』にあたってみたんだけど。

 『康煕字典』じゃなくて?

 1700年代なかばの我が国に、康熙55年(1716)に完成したという『康煕字典』が舶載されたとしても稀覯本だったろうね。『康煕字典』の和刻版行は安永7年(1778)だからね。よって1600年代の中頃、寛永年間から和刻がある部首別・画引きの『字彙』に拠ったのさ。
   『字彙』寅集・宀部【十】画の最後に「寳正字」うんぬん、
   同じく子集・厂部【十】画の最初に「與歴同 經渉也 又與暦同 又治也 理也」と載ってた。

 レキと音読みすべき「厤」のほうを、訓読みが「あさ」の「麻」に間違えちゃいけないわよね。

 図書館で見た『みたかの石造物』でのミスだね。石に刻されたとおりの文字を活字で再現しようとしたんだろうけど常用漢字で、もっとも字体が似ているってだけで「麻」にしちゃ、音も「マ」で別字になるからダメだよね。

 そして最後の人名「景山」なんとかさん、って誰?

 残念なことに不明。「景山」が号で、平家を姓のルーツにする「忠充」さん、とふんで調べてみたけど。刻された四言の銘は、おいおい説明するように儒教経典での用例をふまえてるから、そこそこ力のある学者先生だったはず。京都に堀景山っていう儒者がいて、のちに国学者として大成する若き本居宣長を教えていたことで名高く時代はぴったり合うんだけど、地域的に違うだろうな。

 いよいよその銘、特に「埊久𠀡𠑿」と解読した部分、『字彙』という字書にどうあったわけ。

 ちょっと待ってね。四言の銘×8句の計32字すべてをみていこう。偶数句の末(四字目)で押韻のはず。まずは、じっちゃま渾身でこさえた、gg訳を披露すべぃ!
   [銘]    【gg訳(ほぼ七五調~ゥ)】
  維此辜月  これこの 霜月
  新考石梁  新たに成った 石の橋梁(ャ~ゥ)
  不騫不朽  欠けず 朽ちずに
  千載有常  千とせ たもつぞ恒常(ャ~ゥ)
  行人坦坦  行く人 平坦タンタンと 
  河水湯湯  上水 盛んにショウショ(ャ)(~ゥ)
  太平餘澤  平和の 余沢
  埊久𠀡𠑿  地久に 天長(ャ~ゥ)


 ふざけないで、まともに読み下してよ。

 そんなこと、お嬢さん、君を含め誰でもそこそこできるだろうて。むしろ銘の作者「景山」先生が、どんな儒教古典での用例をふまえ、韻をどう踏んだか考え抜いて、260年たった今ようやく「理解しましたょ」って胸を張って訳出したのが、この「迷」訳だぞ。

 はいはい。「維れ此の辜月」の「辜月(コガツ)」は11月の異称。儒教経典に使われた語句を分野別に配列した中国古代の辞書『爾雅(じが)』釋天に
  正月為陬,二月為如,三月為寎,四月為余,五月為皋,六月為且,七月為相,
  八月為壯,九月為玄,十月為陽,十一月為辜,十二月為涂。
 とある……とかの解説を期待してるのよ。

 じゃ次の句「新考石梁」は、「新たに石の梁(はし)を考ふ」とか訓読して、事足りるわけ。

 宝暦七年の十一月、牟礼村のこの場所で玉川上水に「新たに石橋を掛けることを考えました(企画した)」でいいと思うけど。ただここ「考」の字が違うんじゃないかな、って気になってるのよ。

 たしかに。「考」に似た別の字として読み取れないかな、「爲」の異体字とみなせないかな、って調べたけど無理みたい。しかも11月には石橋を掛け終わっての完成記念の石碑なんだろうから「考」の別の意味を考えなきゃ。すると「考」には「成」と同じとの義があったんだ。『字彙』未集・老部「考」に「又成也 [春秋] 考仲子之宮 [胡傳] 考者始成而祀也」がそれ。『春秋左氏傳』隱公五年「九月考仲子之宮」への宋・胡安國の註に「考者始成而祀也」とあることに拠ったとみなせば、「新考石梁」は「新たに完成した石橋のお祝いをします」との意味になるかな。

 なにそれ。「考」を「かんがえる」と読まずに「新たに考(な)る石梁」って訓読なさい、ってこと。

 そのほうがいいょ。すくなくとも「石梁」の「梁」は韻字。原文どおり「セキ・リョー」とか、gg訳で使った「橋梁」の「キョウリャ~ゥ」とか、旧字音仮名づかいでの「りゃう」の響きに注目すべし、だよ。

 「石の橋梁ャ~ゥ」とまで、ふざける必要ないでしょ!

 いやいや、この銘の韻字、「景山」先生がどんな工夫をされたか、しっかり押さえるべきだったんだ。「石梁」「有常」「湯湯」それに「𠀡𠑿」の韻字は、すべて下平「陽」という韻目に属す、と解釈してみた。

 「梁」と「常」は、音読みで「リョウ」「ジョウ」。押韻してるな、ってわかるけど。

 あとの2例が、調べ甲斐おおありクイだった。「湯湯」は、常識的な「とうとう」じゃない別音の選択。そして最後の四字「埊久𠀡𠑿」は、使われた異体字の判読に、漢字音のひびきを勘案すべし、ってことだょ。少なくとも「景山」先生の教養が第三の句「不騫不朽」で伝わって来た!

 そこも『みたかの石造物』が「不賽不朽」と活字に起こしてたけど、実際に牟礼まで碑を見に行って、すぐ「騫」をお賽銭の「賽」に間違ってるな、って気づいたゎ。

 そこなんだよ。新たに完成した石橋が、壊れず朽ちずと表現した「不騫不朽」は、『詩経』小雅の次2篇で使われた「不騫不崩」という句を踏まえているんだ。
  《天保》「如南山之壽、不騫不崩。」
  南山の壽の如く、騫(か)けず崩(くず)れず。
 《無羊》「爾羊來思、矜矜兢兢、不騫不崩。」
  爾(なんぢ)の羊來たる(思=助辞)、矜矜兢兢として、騫けず崩れず。

 朱子学の大成者、南宋・朱熹(集傳)は「騫」について、ともに「虧也」と註している。「虧」は欠ける、「不騫」は欠けないで、石橋の耐久性をうまく表現できる、古典での用例になるわけ。

 あら古典を踏まえた「不騫」を「不賽」にまちがえるようじゃ、お賽銭あげませんって、変な解釈が生まれちゃうわね。

 そして牟礼の石橋供養碑の銘で続く「行人坦坦、河水湯湯」の「坦坦」と「湯湯」も、儒教古典にある表現。
 まず「行く人 平坦タンタンと」訳したほうは、『周易』履(り)卦の九二「履道坦坦、幽人貞吉(道を履むこと坦坦たり。幽人貞にして吉)」。
 さらに「湯湯」も、『書経』堯典と『詩経』衛風に用例があって、しかもともに「トウトウ」と読ませていない。朱熹の弟子である南宋・蔡沈による『書經集傳』巻一「虞書」○堯典で
  △帝曰「咨四岳、湯湯洪水方割。蕩蕩懷山襄陵、浩浩滔天、下民其咨。有能俾乂。」
 とある部分には「湯音傷」との音注や「湯湯水盛貌」との意味の註がみえる。
 帝曰はく「咨(ああ)四岳よ、湯湯(しゃうしゃう)たる洪水方(まさ)に割(そこな)ふ。
       蕩蕩として山を懷(つつ)み陵に襄(のぼ)り、
       浩浩として天に滔(はびこ)り、下民其れ咨(なげ)けり。
       能くする有らば乂(おさ)め俾(し)めん」と。


 『詩経』での「湯湯」も「ショウショウ」と読むの?

 『詩経』衛風《氓》淇水湯湯,漸車帷裳。
  淇水湯湯(ショウショウ)たり、車の帷裳を漸(ひた)す。

 ここも朱熹の集傳では「淇水湯湯」に「音傷」と、「湯」の読みは「シャウ」だよとの音註を入れ、さらに後から「湯湯,水盛貌。」との説明を加えている。つまり『書』『詩』ともに、水が盛んに流れるさまを表現する「湯湯」の発音は「ショウショウ」。現代中国音でも「shāngshāng」で、古典を踏まえるなら「tāng tāng」とは読まないはず。そこのところを「景山」先生の銘も踏襲。

 ここまで3つの韻字が「梁・常」に、ショウと読む「湯」なのね。

 それゆえ銘の最後32字目もX「-ャウ(-āng)」と発音する字を置くはず。いよいよ「久」に続く2字の解明だよ。

 結論は「天長地久」をひっくり返した「地久」+「天長」で、「長」が韻字、って言いたいんでしょ。

 そのとおりだけど、それをまた『字彙』に載っている字で裏付け、納得したいわけなんだ。

 「地久」の「埊」が則天文字なんだから、「天長」のほうも則天文字を使ったのかなって思ったけど、違うわね。

 「埊」も、『字彙』に拠る限り則天武后による新作文字という知識は、得られなかったのかも。その丑集・土部【七】画に見出し字として「埊」が載ってるけど、説明は割注で「同地」の2字のみ! そして銘の最後の2文字。意味と韻から「天長」であるはず、と強く推測しての字体さがしになった。

 「埊久」に続く3文字目は、ちょっとみ「正」の下に「几」の、「𠙁」という字なのかしら。

 そうも見えるんだけど、「𠙁」という文字は『字彙』に見いだせないんだ。よって、撮影してきてもらった碑側面の写真をじっとながめ、「𠙁」じゃなくて、「一」の下に「先」を置いた「𠀡」と改めて判読。この字なら『字彙』子集・一部【六】画の最後に挙がっていて「同天」との割注がある。

 これで最後の句も「地久天…」って3文字まで読めたってことね。最後の「長」は『字彙』のどこにどんな字体で載ってるの。

 そのまんま「長」の見出し字に付されてた。部首としての画数【八】を収める戌集での「金」へん【二十】画が終わったあとすぐが「長部」。
   古文長字 𨱗 古文長字  古文長字
 「景山」先生はこの3例目、「㒫」の字体を韻字に使って「地久天長」と銘を結んだと判定!

 あれ、お得意のgg訳[銘]の原文まで、そこは「㒫」を使わないで「𠀡𠑿」って、「㒫」より一筆、画数が多い「𠑿」の字をお示しなんだけど?

 うん。「景山」先生は『字彙』の「長」部にあった「㒫」を、「チャウ」が発音の「長」の古文と確信し、牟礼の碑に彫らせたろうね。ただし『字彙』が補うべき事例の多い時代遅れの字書とみなされると、「㒫」は「チャウ」でなく「キ」で「既」の「旡」と同字ということになる。

 『康熙字典』と比べると、『字彙』での「㒫」の扱いは間違い、ということですの。

 そう。『康熙字典』儿部・四画での見出し字「㒫」は、「チョウ」と読む「長」の古字ではなく、音「キ(jì )」の別の意味の字として『廣韻』や『説文解字』を典拠に載っている。よって、牟礼の石橋供養碑の右側面、銘の最後は韻字だけに、「㒫」と示すと現行の字書を根拠に韻の踏み外しではと疑われることになるかも。だから『字彙』に載ってないんだけど、ほかでは長の異体字で間違いのない𠑿を、あえて使うことにしてみた。

 ややこしいわね。でもなんとなく「厤・レキ」を「麻・マ」に取り違えるようなことがおこらないよう、銘の最後は「長・チョウ」の異体字だよって示したい、との意図は伝わってきたゎ。

 なんとか「景山平忠充」と題署した学者さんが使っただろう『字彙』にのっとって字体を判定しつつ、なおかつその『字彙』より新しい現代でも使われている字書に準拠してしまうと銘文の意図が損なわれてしまうことのないよう、時間をかけて解釈したんだよ。

 それはご苦労様。こんど現地へとご一緒してあげるわね。

 嬉しいね、案内を期待してるよ。とにかくこの石橋供養の碑、正面の写真は Web 上で拾えたけど、側面の銘が写った画像は探せなかった。お嬢様ご撮影の石碑・右側面は、とってもありがたく、勉強させていただきました、と。

 どういたしまして。碑文を載せた別の書籍も、お調べになってるご様子ね。現地ではじっくり観察して、また追記をお願いね。

 じゃ今回の最後は、以上で参照した『字彙』そのものの画像を示すため、国文学研究資料館のサイトへとリンクさせておくね。
 すべて盛岡市が所蔵する『頭書字彙』モノクロ画像(全920コマ)該当箇所へのリンク

丑集・土部【七】画に「埊」
『頭書字彙』丑集(29丁裏の初行なかごろ)【nijlサイト138コマ/全920コマ】
   同地

子集・一部【六】画の最後に「𠀡」(【七】画の直前)
『頭書字彙』子集(3丁表)【nijlサイト47コマ/全920コマ】
  𠀡 同天

戌集・長部の「長」字に付された「镸・𨱗・㒫」
『頭書字彙』戌集(14丁裏)【nijlサイト740コマ/全920コマ】
   古文長字 𨱗 古文長字  古文長字

寅集・宀部【十】画の最後に「寚」
『頭書字彙』寅集(8丁裏)【nijlサイト177コマ/全920コマ】
   [晧清]寳正字 [六書正譌]从
        宀玉會意缶聲隷
        作寶通俗作寳非

子集・厂部【十】画の最初に「厤」
『頭書字彙』子集(58丁表)【nijlサイト102コマ/全920コマ】
   與歴同 經渉也 又與暦同 又治也 理也
#三鷹市牟礼 #則天文字

ワオ!と言っているユーザー

正倉院本「王勃詩序」漢字索引と平成7年『正倉院展』図録

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「初・授」の則天文字に注目 ―... 「初・授」の則天文字に注目 ―正倉院「王勃詩序」―
𡔈𥠢
平成7年『正倉院展』図録120頁下段・125頁上段より
 あれっ、また『正倉院展』図録から取って、色つけた文字を貼ったのね。

 平成7年の図録(奈良国立博物館 1995)から。この年以降、A5サイズの大判になってた。117~131頁に上下2段で「王勃詩序」の全(30)紙の写真版。こう貼り継がれているんだな、ってわかるカラー図版で載ってた!

『正倉院展』の図録なら平成6年に同じ「王勃詩序」全巻のモノクロ写真が掲載されていたんじゃなくて。

 そうなんだ。奈良の国立博物館での正倉院展では昭和58年と平成6年に「王勃詩序」が出展され、B5サイズで刊行の図録後半に二度ともモノクロ縮小で全巻の写真が載ってた。まさか連続して平成7年に、前年と同じ巻子本が出展されていたとは……。とにかく、画像として掲げた部分を翻字しておくよ。「初」と「授」の則天文字は「王勃詩序」でここの一か所ずつだから注目してね。
     【正倉院「詩序」第(8)紙から】
〔十一〕 上巳浮江讌序
    吾之生也有極,時之過也多緒。若夫遭 主后之聖明,
天地 属𠀑之貞觀,得畎畝相保,以農桑為業,而託形於宇宙

         【4行から16行まで掲出を略】

  披襟朗詠,餞斜光於碧岫之前; 散髪長吟,佇明於青溪
    之下; 高懐已暢,旅思遄亡。赴泉石而如歸,仰雲霞而自負。
  昔周川故事,𡔈傳曲洛之盃; 江甸名流,始命山陰之筆。盍遵
    清轍? 共抑幽期,俾後之視今,亦猶今之視昔。一言均賦,六韻
    齊疏。雖復來者難誣? 輙以先成為次。


     【正倉院「詩序」第(17)紙から】
〔二十八〕秋夜於綿州羣官席別薛昇華序
天地 夫神明所貴者道也,𠀑所寶者才也。故雖陰陽同
  功,宇宙戮力,山川崩騰以作氣,象磊落以降精,終不
  能五百𠡦而生兩賢也。故曰才難,不其然乎? 今之羣
  公,並𥠢奇彩,各杖異氣,或江海其量,或林泉其
    識,或簪裾其迹,或雲漢其志,不可多得也。今並
    集此矣。豈英霊之道長,而造化之功倍乎? 然漢之區
年,月 〻。常以為人生百𠡦,逝如一瞬,非不知風不足懐也,琴
    罇不足戀也。事有切而未能忘,情有深而未能遣。

     【以下に続く正倉院「詩序」第(18)紙での11行目からは略】
 ここも「一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(CJK統合漢字拡張B)が含まれています」になったけど。

 「初」を「𡔈」、「授」を「𥠢」 とした則天文字、ここのみってわけね。

 「初」の則天文字は「天」「明」「人」「上」をそれぞれ2つずつ合わせた字とかで、画像にもユニコードの字体「𡔈」を拡大して入れてみたけど、ちょっと正倉院に伝わった巻子本では違った字体で書かれている。「授」のほうは、禾を偏にした「𥠢 」で、ぴったりの字画を再現できたけど。

 へぇ、入手した平成7年『正倉院展』図録、手に取らせてょ。表紙にも掲載の「18 墨絵仏像すみのえのぶつぞう(麻布まふ菩薩)」の、ちょっと前に「10 詩序しのじょ(王勃の文集)」が載ってるゎ。

 どうも一部欠損を補修できたので、前年に続いての出展となったみたい。途中3行ほどの欠落部分をある程度、復元した様子。

 ほんと、30頁に次のようにあるゎ。
 この『詩序』には、これまで第二十三紙と第二十四紙の間に欠失部分があって、第二十四紙の首、「別盧主簿序」の文章三行分、約四十七字分が欠失していたが、近時正倉院事務所の努力によって、庫内から欠失部分の断片数十片が発見され、旧状に復元されて本年初めて展示されることになった。破片と言えども大切に保存が計られてきた正倉院宝物ならではの復元作業である。

 そういう復元で、すくなくとも数文字分が、はっきり判読できるとのこと、実は次の専門書(p379)
  翰林書房 2014年10月刊『正倉院本 王勃詩序訳注
   〔三十五〕別盧主簿序【考説】(担当 長田 夏樹)
   ……欠落部分の断片が正倉院で発見され、平成七年の正倉院展で展示され、展観目録にも掲載された。

 とある記述を目にして知り、すぐネットオークションで平成7年の『正倉院展』図録をゲットしたんだ。

 あら主題そのものの学術図書、やっと閲覧したようね。高価だから当然、買ってないんでしょ。

 お見とおしだね! 出身大学の図書館に行って閲覧してきた。ただ単行書の元になった、次のA5サイズ逐次刊行物からも、ついでに一部を複写してきたけどね。
 神戸市外国語大学「外国学研究」XXX 1995年3月
   「正倉院本王勃詩序の研究 I」〔含 正倉院本王勃詩序本文翻刻・漢字索引〕

 巻頭(pp7-44)に「研究篇」と区分されての解説が2篇(蔵中進+佐藤晴彦)。
 訳注篇(pp45-140)は全巻じゃなく、つまんでの八篇。ただし全〔四十一〕篇にわたるのが「正倉院本王勃詩序本文翻刻」(pp142-184)と「漢字索引」。索引は横組み・五十音順で(1)~(44)ページまで、ここ全部をコピって来た。

 学術書『正倉院本 王勃詩序訳注』のほうにも、漢字索引はついてるんでしょ。

 うん。でも両者で索引の方針とスタイルが異なっていたんだ。元とするのは同じく正倉院本「王勃詩序」の各行を再現した翻刻。ともに原本での則天文字を通常の漢字に置き換え、右傍に◎印を添えてる。たとえば漢字「初」の索引。神戸外語大からの刊行物では(22)頁「ショ」に次の2行。
   初◎ ⑪19
    初  ㊵1

 ◎印が付いたほうが、上に加工した画像の中央に掲出した〔十一〕第19行目での出現例。どんなセンテンスで使われているかは「初  ㊵1」のほうも含め、索引を手掛かりとして、それぞれ〔十一〕・〔四十〕篇の翻刻を確かめなさいという、ごく普通の方式。
 それを翰林書房からの単行本では索引(82)頁左「ショ」に次の2行。
   初  初傳曲洛之盃   11-19
      初春於權大宅宴序  40-1
 
 このように、どんな字句として用いられたか、学術図書としての単行本では索引の段階でわかる利便性あり。「40-1」とは全巻の終わりから2番目の篇、その題(第1行)そのものを索引にも「初春於權大宅宴序」と掲出してるわけ。正倉院「王勃詩序」末2篇に、則天文字は使われず常用の文字で書写されているから、ここは「文字どおり」の用例。ただし「初◎ ⑪19」および「初  ㊵1」とだけあって、この篇のこの行に使われてますよとの数字による索引だった初出誌のほうでは、見出し漢字に「◎印をつける=この場所では則天文字が使われてます」、「◎印なし=通常の字体(則天文字の字体で書写されず)」と示してた。それを単行本の索引では、やめちゃってる。

 じゃ、高価な学術書のほうの漢字索引を使って則天文字の使用例をピックアップしようと思ったら、索引からいちいち本文の全用例をたどっての確認が必須、ってこと!

 そう。だから◎マークありの初出誌の単純な漢字索引こそ、コピーして手元に置く必要を感じたのさ。

 これで正倉院本「王勃詩序」での則天文字、全用例を漏らさず確認できるようになったのね。

 だからここに「初」「授」を含む箇所の画像を掲示。もう一例「臣」の則天文字「𢘑」については冒頭「〔一〕於越州永興縣李明府送蕭三還齊洲序」とした篇での用例を、ちょい前に示した別記事内で紹介ずみ、ってことで。

 ほんと。索引を使ってレアな用例、確定させて挙げたのね。でも「授」を「𥠢」とした2行前、「星」をマルじるし「〇」とする則天文字も、希少価値あるんじゃない。

 正倉院「王勃詩序」では、通常の字体「星」が1度も使われてない、って索引から断言! ただし「〇」で星とする回数は、初出誌「外国学研究」30号のシンプルな「索引」で「㉓6 ㉖2 4 ㉘3 ㉙3 ㉚7 10 ㉛9」と8度。それを翰林書房からの単行本、前後文脈ありの「漢字索引」では7例のみ。

 どうして1例、減ってるの。

 比べてみたよ。「㉘3」にあたる「星象磊落以降清 28-3」がこのブログで掲示した例。次の「㉙3」までは差がないんだ。初出誌の索引で「㉚7 10 」とあった「〔三十〕晚秋遊武擔山寺序」でも、原本(19)紙を見る限り
【7行・9字目が「星」】〻即入祇園之樹引〇垣於沓嶂下布金沙栖Ꮻ觀
【10行・4字目が「星」】長門之〇美人虹影下綴虬幡少女風吟遙喧鳳鐸
 って読み取れる。後者10行目の例を単行本p312「〔三十〕晚秋遊武擔山寺序」では、翻刻を
  10 長門之月◎⑤。美人虹影、下綴虬幡、少女風吟、遙喧鳳鐸。
 として、「星」を「月」に換えちゃってる。校記に
  ⑤月―星(原字は則天文字)
 とあって、中国に伝わったテキストが「殿寫長門之月」なので、正倉院本の則天文字「〇」も、中に「卍」が書かれた「☮」のような「月」であってしかるべし、と2014年刊行ではテキストを校訂しちゃってる。結局1995年の索引での「星◎」の用例は、学術図書にまとめ直して一回、減らされた、ってわけ。単行本の索引「月」では「殿寫長門之月 30-10」って出てるし。

 ほんと。コピーされた初出誌の「索引」を見ると「月」では、「㉙3 15」と「㉛4 9」の間に〔三十〕篇での用例を意味する数字はないわ。でも「月◎(𠥱【匚はこがまえ+出】)」が第⑦篇までの十例、「月◎(☮【〇に逆卍】)が第⑩篇から㊳篇までの二十一例、それに通常の「月」が「㊵2 ㊶2」と末尾2篇で二度使われてる、って示されてる。使い分けがわかるわ。

 正倉院本「王勃詩序」では巻末の第(28)(29)紙に書写された末2篇〔四十〕〔四十一〕に則天文字は使われず、〔四十〕の篇名「初」のように通常の字体になってるからね。同様に「年」も通常の字体は巻末「㊶318」の二度のみ、あとは冒頭〔一〕から第〔三十八〕篇まで、すべて「千万万千」を組み合わせた「𠡦」。

 「天◎」についても、「年◎」と同じようね。「㊵12」の一例だけ通常の「天」で、それ以外は巻頭の第〔一〕篇から第〔三十八〕篇まで、すべて「而」に似た則天文字!

 「日」が、〇の中に「~」を書いたような「Ꮻ」も、末篇までは同じく明らかに則天文字だね。多数使われていて、すべて則天文字というのは、あとは「埊」かな。通常の字「地」は一度もなく、すべて「埊」。よって「天地」との表記もなくて、どこも「而埊」に見える。

 あと通常の「載」も一度もなし、③から㊱までの九例すべて「𡕀」という則天文字を使用! って確定。

 常用の字体と混用されているのは「國」と「人」かな。

 「圀」なら「⑤15 ⑥5 ⑨2」の三度が、このポピュラーな則天文字。第〔十四〕篇以降の七度の用例はすべて「國」。初出誌の索引だとわかるゎ。

 「人」の字については、途中まで則天文字の字体「𤯔」と通常の「人」が混用されている。だけど中盤〔十〕篇以降は、「一」の下に「生きる」の字体がぴったりと使われなくなって、通常の「人」ばかり。そしてちょっと古くなるけど、次A・Bとする2種の書道関連図書(平凡社)では、ともに「王勃詩序」巻頭部分のモノクロ画像を載せ、その釈文で則天文字「人」「臣」を識字せずに、「至」および「一」のない「忠」と判読。
  「幸屬一作寰中之主」「四皓爲方外之
 と、やっちゃってたの、みっけ。
  A 昭和40年5月 平凡社『書道全集』第9巻 [日本Ⅰ(大和・奈良)]
 グラビア版 22,23 王勃詩序 慶雲四年(707)【釈文は解説p151上段】
  B 昭和50年7月 平凡社『書の日本史』(全9冊のうち)第一巻 飛鳥/奈良
 p230 王勃詩序【巻頭7行+巻末6行と奥書きの写真】
【p231左端に訓点添え「人・臣」につき則天文字を判読せずの〔釈文〕あり】

 あら随分ご熱心にお調べね。「あら捜し」っぽいけど。則天文字の研究が進んでなかった時代でしょ。で今までの、ほかのシリーズにどう載ってるの。

 ほいきた。次がほぼ原寸・原色で「王勃詩序」につき、もっとも多くの箇所を載せてたよ。
  正倉院事務所 編 1994.11『正倉院寶物4 中倉I』毎日新聞社
 原寸カラー写真で、巻頭・第(5)(13)(20) 紙の見開き・本文末、計8ページ。全巻の縮小モノクロ画像も上・中・下の3段組で掲載(pp235-241)。これは平成6年(1994)秋刊行の『正倉院展』図録の掲載と同時期、縮小カラーで全巻掲載の翌平成7年『正倉院展』図録の一年前、ということ。これ以外にも、正倉院「王勃詩序」を一部掲載している企画もの図書については、また別にまとめてみようかな、っと。

 大型の美術書でも、ぜひ実物を持ってきてね。いつもいつもの10円コピーじゃ、もう、やぁ~ょ。
#則天文字 #王勃

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正倉院「王勃詩序」の則天文字 ―まず巻頭から7種―

スレッド
正倉院「王勃詩序」の則天文字 ... 正倉院「王勃詩序」の則天文字
𤯔𢘑𠥱𠡦埊Ꮻ
人臣月年地日
 またネットから資料を取ってきて、色つけた文字の貼り付けね。小細工した画像のアップばっかり……。

 そりゃ、もとが正倉院に伝わった慶雲四年(707年)、七月廿六日書写という御物「王勃詩序」だから、ゲンブツを直接、撮影してここにアップなんか不可能だょ。

 さんざん調べて探したようだけど、このモノクロ画像の出所は?

 国立国会図書館デジタルコレクションから、明治41年『東瀛珠光』第四輯の「第二百十二 詩序一巻」「其一 卷首」だよ。

『東瀛珠光』って、読みは「とうえい しゅこう」でいいの。

 そう。「東瀛」は唐土から見て東の海、仙人が住むという島で、つまりは我が国・日本。そこで光り輝く宝珠にたとえての正倉院御物の図録なんだ。「宮内庁御蔵版」と銘打って審美書院というところから6輯まで刊行されたみたい。

 へぇ。それで初唐・王勃の「詩序一巻」が、丸ごと写真版で載ってたの。

 違うんだ。「詩序一巻」は「其一 卷首」、「其二,三 卷尾」とあって、写真は巻頭一枚と巻末部の二枚のみ。さらにこの巻物をおさめていた箱の写真第二百十三 沈香末塗経筒 一枚も添えられてた。

 なんだ、最初と最後だけのモノクロ写真ね。その明治末期の図録、デジタル画像から「詩序一巻」の冒頭を取って、どこに則天文字が使われているか、紫色の背景色にピンクの色文字を使ってお示しになった、ということね。

 うん。この正倉院に伝えられた王勃「詩序」巻末のほう2枚の写真だと、則天文字が使われていない文章があるだけなんだ。ただ昭和に刊行された書道全集や図録はこの『東瀛珠光』を元に、巻末「慶雲四年七月廿六日 用紙貮拾玖張」との、則天文字を使っていない識語を転載しているように、推測したんだけど。

 じゃ、則天文字が使われた巻頭のほうを説明してくださる。

 ほいきた。 正倉院「王勃詩序」は巻物として(30)紙の貼り継ぎで、それぞれ色鮮やかな料紙が使われてるとか。その巻頭、第(1)紙に書写されているのが、
於越州永興縣李明府送蕭三還齊州序
 との題の全20行(題を含む)の漢文。題を1行目として、順に数えると文の書き出しになる第2から、6・7・11・14・16・17番目の行と、ラスマイの第19行目に則天文字が使われてるんだ。

 それを、上にかかげた画像で、紫の地にピンクの文字で示したのね。

 わかってくれたようだね。スペースの関係で、則天文字が使われていない前半の数行はカットしたけど。

 いちおう省略された分も、どんな文字が連なっているか、お示しになるべきよ。

 じゃ、一篇の翻字を置いてみようか。底本は白文だから、句読点はネットの維基文庫から『全唐文』卷181・王勃の越州永興李明府宅送蕭三還齊州序を参照して加えたけど。そして、ここからの記述には「一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(CJK統合漢字拡張B)が含まれています」ってことわらなきゃ。

【題】  王勃於越州永興縣李明府送蕭三還齊【「州序」の2字 写り込まず】
   嗟乎,不遊𠀑下者,安知四海之交? 不涉河梁者,豈識別離之
【3行】恨? 蔭松披薜,琴樽為得意之親;臨遠登高,烟霞是賞
【4行】心之事。亦當将軍塞上,詠蘇武之秋風。隠士山前,歇王孫之
    春草。故有梁孝王之下客,僕是河南之南;孟嘗君之上賓,子
人・臣 在北山之北。幸屬一𤯔,作寰中之主;四皓為方外之𢘑。俱遊萬物
   之間,相遇三江之表。許玄度之清風朗𠥱,時慰相思;王逸少之
【8行】脩竹茂林,屢陪驩宴。加以惠而好我,携手同行,或登吳會而
【9行】聽嵇吟,或下宛委而觀禹穴。良談落々,金石絲竹之音暉;雅智
【10行】飄々,松竹風雲之氣狀。當此時也。嘗謂連城無他鄉之別,断金
   有同好之親,契生平於張范之𠡦,齊物我於惠莊之歲。雖三光
    廻薄,未殫投分之情;四序脩環,詎盡忘言之道? 豈期我留子往,
    樂去悲來,橫溝水而東西,絶浮雲於南北。況乎泣窮途於白首,
   白首非離別之秋;歎岐路於他鄉,他鄉豈送歸之? 蓐収戒節,
    少昊伺辰。清風起而城闕寒,白露下而江山遠。徘徊去鶴,將別盖而同
人・年  飛;悽断来鴻,其離舟而俱泛。古𤯔道別,動尚経𠡦;今我言離,
   會當何? 山巨源之風猷令望,善佐朝廷;嵇叔夜之孝倒麁
    疎,甘從草澤。行當山中攀桂,往々思仁;野外紐蘭,時々佩徳。
   𤯔非李径,豈得無言? 子既簫韶,當須振響。既酌傷離之
    酒,宜陳感別之詞,各賦一言,俱題六韻。

 なるほど。行の左端、赤い字で「」と掲げてあれば、その右に、どんなセンテンス内で則天文字が使われたか、これでわかるわ。

 でもたぶん、パソコンのOSがWindows10以前だったり、古いままで数年間、買い替えていないスマホでは、せっかくの則天文字が、■に白抜きの×(☒)で表示されるんじゃないかな。だけどそれが正倉院に伝わった「王勃詩序」での則天文字を、文字規格(ユニコードの拡張字面)に従って表示させようとした箇所なんだ。

 じゃ、きちんと表示されない場合を考えて、「これはこんな字」って、いちいち説明を加えてくださいな。

 まず「天」。上の翻字では「丙」に似た「𠀑」を置いてみたけど、見かけは「而」の左下・右下がそれぞれ外側に開いたような字体。正倉院「王勃詩序」全巻で、そう使われてて、通常の「天」の字体は、ちょっと見つけられなかった。

 あら則天文字の「天」って、篆書体に戻した曲線的な字体だって解説を読んだのに。ここじゃ違うのね。

 次に「人」が「𤯔」の字体で、第6・16・19行で計3回、使われてる。ただ、この巻子では別の一、二の篇で数度「𤯔」が見えるのを除くと、中盤以降は通常の「人」の字体のまま書写されているようなんだ。

 人の「一生」だからって、こじつけの会意文字とか。

 第6行目の下から5字目の「臣」、則天文字の「𢘑」は、この「王勃詩序」ではここ一例のみのはず。

 貴重な用例ね。「年・月・日」の則天文字なら、頻出してるんでしょ。

 うん。「年」は𠡦。「月」のほうは、はこがまえに「出」を入れた「𠥱」と、仮に☮という記号で入力しておいた崩し字体のどちらかで書写されてる。「日」も、Ꮻで代用したけど、ほぼこの字体。巻末のほうでは、通常の「日」を早く書いたのか、Ꮻ に近い則天文字の字体なのか、判然としなくなるけど。

 「日」は〇のなかに「乙」、「月」は〇のなかに「卍」もしくは「𠥱」、というのが則天文字の代表なのにね。

 「地」は則天文字の「埊」を、この巻物で通して使っているよう。

 最初の篇に使われた則天文字7種、説明ご苦労さまでした。ほかの篇でのレアな使用例も、続けてお願いね。

 う~ん。なんとか努力しよう。
#則天文字 #王勃

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