漢字で和歌を左右の柱に――大分県杵築市の石造鳥居銘
1月
31日
こりゃ今日は嬉しゃ! ようやく、お嬢さんからお誘いがござったゆえ……
は~ぃ、大分空港がある国東半島。その付け根というべき、サンドイッチ形ともいわれる城下町、杵築市におでましいただきまして!
ここ大分県杵築市にある、鳥居に刻されたかわった銘文を見てもらいたい、じゃとな。現地を案内してもらえ、嬉しいぞょ。
杵築の図書館が数年前、天文学者として有名な麻田剛立の生誕の地に近いところに移転したのはご存じ?
うすうす知っとる。というか、杵築藩にかかわる江戸時代の学者による著作をその昔、小さな図書館に出向き閲覧調査したこと、あるぞナ。
じゃ、ここがその移転前の図書館だったこと、思い出してくださる?
おお、ここだここだ。まだ建物も取り壊されずに残っておるゎ。路地の奥には、中学校の校庭も見えとる。
はいはい、お孫さん、いないからってダメょ。義務教育を受けてる若い世代の学び舎、のぞいてみましょうとの案内ではございません。
そうかい、そうかい。それでも知っとるぞ、このあたりが幕政時代、豊後の杵築藩主の御殿だったことぐらい。
はい、一国一城のさだめね。今の大分市、府内といわれた大給松平家が藩主を務めたお城があって、杵築に入った能見松平家は、天守閣を許されなかったのね。
つまり、ここからほど近くの青筵神社とかの鳥居をくぐって登って行けば、杵築城の天守閣があるのじゃが、それは杵築藩の松平家の治世に存在しなかったわぃ、との話じゃのぅ。
そうょ。そっちの、いわば徳川幕府初期にあったという天守閣を復元したとかのお城や、そのふもとの神社については、これ以上、触れる余裕、ないの。
それでここの「杵築神社」を案内してくれるわけじゃな。
はい、石造の鳥居の左右両柱に、和歌が彫られているようなの。資金を供出した方々の氏名は、それなりに彫られていて、読み取れないこともないんだけど、明治の後半かなと推測しても、建造年は刻されてないの。
ほう、ここは杵築神社の本殿の左手、奥のほうの囲いじゃな。おっ、石造の鳥居の額束に[胷形神社]ってあるゎぃ。
はい、「胷」は胸の異体字だから「むなかた」って読んで「宗像神社」ってことね。
それで右の柱に漢字が12字、左の柱は9字、しっかり彫られておるわぃ。
どう、爺ちゃま、読めます?
右の柱に「三柱廼神迦牟議八百丹譽之」ってか。これ、なんじゃい!
万葉仮名なら「みはしらの」で始まって…
「神迦牟議」は読みがわからん。下の5字は、「やほによし」を「八百丹譽之」と漢字で書いたんじゃろな。
じゃ、左の柱は?
「杵築乃町乎令榮多辨」ってあるから、「杵築の町か」に続け、最後のほう「令」は、漢文での使役の構文、「栄へて多弁ならしむ」って意味かい?
そう読むんじゃ、ないようょ。昭和43年の『杵築市誌』や、平成になっての新版の市誌には、載ってないけど。こちらの本には出てるの。
おっと、昭和52年に出た高原三郎『大分の鳥居』を持ってきたんじゃね。
そう、副題に「続 大分の神々」ってある、ソフトカバーでA5判200ページ。シリーズの前とあとの刊行物は、ハードカバーで箱入り、雨乞いの習俗とかが載ってる。
で、この鳥居はどう紹介されておるのじゃ?
はい、「和歌を記した鳥居銘」を5つ挙げての最後、157ページにこうあるの。
杵築市城内の杵築神社の境内末社胸形神社の石門(建立年月不詳)銘文
よみ「三柱の神、かむはかり(議)して、やほによし、杵築の町を榮えしめたべ。」
よみ「三柱の神、かむはかり(議)して、やほによし、杵築の町を榮えしめたべ。」
こりゃぁ、まいった。万葉仮名ちゅうより、神官が読み上げる祝詞の文体とかでの表記か~ぃ!
どの年代に、国学者か神主さんか、どなたが作った和歌なのか、調べて明らかにしたいゎ!
ほぃ! わかり次第、知らせてくれぃ。
急いで調べるわ。爺っちゃま、老い先、みじかそうだもんね。