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篆額と自虐

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  • 楽庭神社の鳥居(年月が篆書体)――大分県国東市武蔵町 吉弘

楽庭神社の鳥居(年月が篆書体)――大分県国東市武蔵町 吉弘

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右側の新しい碑にあるとおり、吉... 右側の新しい碑にあるとおり、吉弘楽(よしひろがく)は国の重要無形民俗文化財に指定され、毎年七月の第四日曜日に、午前・午後の2度「楽打ち」の演舞が行われる。
 じっちゃま、ブログが一年、投稿無しョ! まさか放置プレーのつもりで楽しんでらっしゃるの?

 おぃおぃ君には、しばしば古文書の解読をお願いして、そのたびごとに食事はおごっていたろうよ。

 はい、江戸時代の書簡やらなんやら、きっちり読んでさしあげたゎ。それでもう篆書体には興味がないの? って勘ぐってるのょ……

 うーん。国東町興導寺、大正時代の鳥居ね。額に「埊宔神社」ってある右の柱の最後の字、これに違いないとの判定、しかねているんだ。それに、やはりすぐそば国東町で最大の櫻八幡との関連を考慮しなくちゃ、って、このあいだ痛感してね。

 あら、櫻八幡の鳥居なら1989年刊行「くにさき史談」第6集特集「国東町の鳥居」をお調べになれば、疑問はないはずでしょ。

 ほい、その号「旧国東地区」の鳥居、34ページ45.番に記録された「桜八幡社」正面、明治22年に建ったやつ。鳥居銘は左右とも10文字。

 それ、普通に楷書体に近い行書で刻してあって、風化がすすんでるわけでもないでしょ。読めない字はないはずよ。

 そうなんだ、きっちり文字は読める。銘の本文と解釈は、ここではやめておくけど、銘の撰者は「含章 小川 敬書」で、神社の宮司さんの名前も「祠官 興満豊嶠」って彫ってあった。実はこの鳥居から数百メートル、海岸線よりというか国東バスセンターとして知られている大分交通の車庫を越したあたりに、ちょっとした墓地があってね。そこに「小川含章」の墓があるんだ。

 あら、鳥居銘を考えて書いた学者さんのお墓が、実際に銘を彫って建ってる神社の鳥居から近いとこにあるなんて、珍しいわね。で、なにをしくじったわけ。

 神主さんの「興満豊嶠」! ちなみに四字めは「嬌」や「矯」でも、ましては同音の「胸」に作った「豊胸」じゃないょ。君、どう読む?

 やだ、やらしい眼! 「どこ見てんのよ!」 うら若いわたしに音読みさせようたって、その手には乗らないゎよ。

 ははは…… 実は「小川含章」の墓に略伝が刻されていて2ヵ月ほど前、ちょっとしたグループの前でその漢文の解釈を披露してみたんだ。でもまだ実際の墓碑を確かめに行かず、古い郷土研究雑誌と町史に2回、載っていた墓碑の翻刻を元に解釈を進めたもんだから、小川含章先生の長女が「興満豊嶋」に嫁いだ、ってなくだりを正しい文章とみなして解説をこころみてしまってね。櫻八幡の宮司さんや鳥居のことなど調べずにやったもんだから、「興満」が神主さんの苗字だったなんて思いもよらずにやっちまって! その名前も「豊嶠」って、墓碑には実際に刻してあったんだ。姓は「おきみつ」、号なのか名は「ホウキョウ」が正しい読みだったのさ。

 じゃ、そのこと、小川含章の墓碑と鳥居銘を正確に再現することで、このブログをお使いになれば、いいじゃないの。

 そりゃもう疑問は残ってないから、即刻とりかかれるけど。まずは鳥居銘が楷書や行書じゃなくて、より古い漢字の字体で刻されていることの報告をすませた先に、やりたいんだ。それに話題にした国東町興導寺「埊宔神社」の鳥居にも「社掌 興満三郎」って彫ってあったしね。

 あれ櫻八幡の正面の鳥居は「紀元二千五百四十九」と刻してあって「祠官 興満豊嶠」。南に300メートルも離れていない、教育会館そばの地主社鳥居は「紀元二千五百七十九年」ってあるから、そっちの「社掌 興満三郎(おきみつ・サブロー)」さんは「豊嶠」読みは「ホーキョー」さん、の三男なのかしら?

 櫻八幡の鳥居、皇紀2549は明治22年・西暦1889
 地主社の鳥居、皇紀2579は大正9年・西暦1919だからね。

 昭和15年の「紀元は、にせ~んろっぴゃくねん」っていう歌を、じっちゃんの亡くなったお母さまから聞いた、っていうお話しにつなげたいの?

 明治の半ばから大正期、たぶん「興満(おきみつ)」姓の神主さんが意識的に皇紀を鳥居に彫らせた実例としてキモに銘じておきたいだけさ。そしてあえてその西暦1919・大正八年に「埊宔神社」っていう鳥居の額を掲げ、左右の柱の銘文にも古い漢字体を彫った意図を考えたいのさ。

 じゃ「埊宔神社」の鳥居銘、右は「平和定神慮」、左は「享復昂冥助」で決まりね。

 う~ん。刻された篆書ふうの字体は、それぞれちょっとずつ『説文解字』の見出し字と違って、何をお手本にその鳥居銘を彫らせたか、まだ調べがついていないんだ。しかも右の柱の銘の5文字目、よく見ると「虍」の左側の払い「丿」は刻してないようにも見えて『くにさき史談』が文字にするとおりの「意」でいいのかな、って思えてね。「平和 神意を定む」でいいかな、なんだ。

 それで国東町の中心から離れて、同じ国東市内でも別の神社の鳥居銘に話題を変えて、篆書体が彫られた例を持ち出すわけね。

 そう。国東の櫻八幡は今の市役所からすぐの場所なんだけど、そこから南西方向にかなり離れていて、13年前までは行政区画も「武蔵町」で別の地域だった、吉弘地区の楽庭神社。その寶暦四年(1754)の鳥居さ。

 上にその写真を掲げたわけね。えんえんと「興満」姓の神官さんのお話をつづけておいて、ようやく国東市武蔵町吉弘の神社が本日の話題、ってわけなのね。

 江戸時代のちょうど中ごろの鳥居で、宝暦四年は西暦で1754。
  右 柱 寶暦 甲 戌 四年
額 束   八幡宮
(2行)   山神社
  左 柱 仲 春 日

 篆書体で刻されたのはここまで、額と年月日だけ。建立にかかわった役職・人名も刻されているけど再現を略すよ。字体は隷書ふうの楷書だからね。

 わたし、ここの吉弘楽、七月下旬に見に行こうと思って国東に来てたことあるんだけど、じっちゃま始め、誰も案内してくれなかったじゃない!

 ははは、首から吊り下げ、おなかの前で抱えた太鼓を打っての、虫封じ踊りみたいなイメージだょ。今年の夏に見に行ってみたら。国東市観光協会によるサイトや、PDF化されているパンフレット
http://www.city.kunisaki.oita.jp/uploaded/attachment/6437.pdf
 がいい案内になってるよ。
http://visit-kunisaki.com/event_info/%E5%90%89%E5%BC%98%E6%A5%BD%EF%BC%88%E3%82%88%E3%81%97%E3%81%B2%E3%82%8D%E3%81%8C%E3%81%8F%EF%BC%89/

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