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篆額と自虐

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正倉院本「王勃詩序」漢字索引と平成7年『正倉院展』図録

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「初・授」の則天文字に注目 ―... 「初・授」の則天文字に注目 ―正倉院「王勃詩序」―
𡔈𥠢
平成7年『正倉院展』図録120頁下段・125頁上段より
 あれっ、また『正倉院展』図録から取って、色つけた文字を貼ったのね。

 平成7年の図録(奈良国立博物館 1995)から。この年以降、A5サイズの大判になってた。117~131頁に上下2段で「王勃詩序」の全(30)紙の写真版。こう貼り継がれているんだな、ってわかるカラー図版で載ってた!

『正倉院展』の図録なら平成6年に同じ「王勃詩序」全巻のモノクロ写真が掲載されていたんじゃなくて。

 そうなんだ。奈良の国立博物館での正倉院展では昭和58年と平成6年に「王勃詩序」が出展され、B5サイズで刊行の図録後半に二度ともモノクロ縮小で全巻の写真が載ってた。まさか連続して平成7年に、前年と同じ巻子本が出展されていたとは……。とにかく、画像として掲げた部分を翻字しておくよ。「初」と「授」の則天文字は「王勃詩序」でここの一か所ずつだから注目してね。
     【正倉院「詩序」第(8)紙から】
〔十一〕 上巳浮江讌序
    吾之生也有極,時之過也多緒。若夫遭 主后之聖明,
天地 属𠀑之貞觀,得畎畝相保,以農桑為業,而託形於宇宙

         【4行から16行まで掲出を略】

  披襟朗詠,餞斜光於碧岫之前; 散髪長吟,佇明於青溪
    之下; 高懐已暢,旅思遄亡。赴泉石而如歸,仰雲霞而自負。
  昔周川故事,𡔈傳曲洛之盃; 江甸名流,始命山陰之筆。盍遵
    清轍? 共抑幽期,俾後之視今,亦猶今之視昔。一言均賦,六韻
    齊疏。雖復來者難誣? 輙以先成為次。


     【正倉院「詩序」第(17)紙から】
〔二十八〕秋夜於綿州羣官席別薛昇華序
天地 夫神明所貴者道也,𠀑所寶者才也。故雖陰陽同
  功,宇宙戮力,山川崩騰以作氣,象磊落以降精,終不
  能五百𠡦而生兩賢也。故曰才難,不其然乎? 今之羣
  公,並𥠢奇彩,各杖異氣,或江海其量,或林泉其
    識,或簪裾其迹,或雲漢其志,不可多得也。今並
    集此矣。豈英霊之道長,而造化之功倍乎? 然漢之區
年,月 〻。常以為人生百𠡦,逝如一瞬,非不知風不足懐也,琴
    罇不足戀也。事有切而未能忘,情有深而未能遣。

     【以下に続く正倉院「詩序」第(18)紙での11行目からは略】
 ここも「一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(CJK統合漢字拡張B)が含まれています」になったけど。

 「初」を「𡔈」、「授」を「𥠢」 とした則天文字、ここのみってわけね。

 「初」の則天文字は「天」「明」「人」「上」をそれぞれ2つずつ合わせた字とかで、画像にもユニコードの字体「𡔈」を拡大して入れてみたけど、ちょっと正倉院に伝わった巻子本では違った字体で書かれている。「授」のほうは、禾を偏にした「𥠢 」で、ぴったりの字画を再現できたけど。

 へぇ、入手した平成7年『正倉院展』図録、手に取らせてょ。表紙にも掲載の「18 墨絵仏像すみのえのぶつぞう(麻布まふ菩薩)」の、ちょっと前に「10 詩序しのじょ(王勃の文集)」が載ってるゎ。

 どうも一部欠損を補修できたので、前年に続いての出展となったみたい。途中3行ほどの欠落部分をある程度、復元した様子。

 ほんと、30頁に次のようにあるゎ。
 この『詩序』には、これまで第二十三紙と第二十四紙の間に欠失部分があって、第二十四紙の首、「別盧主簿序」の文章三行分、約四十七字分が欠失していたが、近時正倉院事務所の努力によって、庫内から欠失部分の断片数十片が発見され、旧状に復元されて本年初めて展示されることになった。破片と言えども大切に保存が計られてきた正倉院宝物ならではの復元作業である。

 そういう復元で、すくなくとも数文字分が、はっきり判読できるとのこと、実は次の専門書(p379)
  翰林書房 2014年10月刊『正倉院本 王勃詩序訳注
   〔三十五〕別盧主簿序【考説】(担当 長田 夏樹)
   ……欠落部分の断片が正倉院で発見され、平成七年の正倉院展で展示され、展観目録にも掲載された。

 とある記述を目にして知り、すぐネットオークションで平成7年の『正倉院展』図録をゲットしたんだ。

 あら主題そのものの学術図書、やっと閲覧したようね。高価だから当然、買ってないんでしょ。

 お見とおしだね! 出身大学の図書館に行って閲覧してきた。ただ単行書の元になった、次のA5サイズ逐次刊行物からも、ついでに一部を複写してきたけどね。
 神戸市外国語大学「外国学研究」XXX 1995年3月
   「正倉院本王勃詩序の研究 I」〔含 正倉院本王勃詩序本文翻刻・漢字索引〕

 巻頭(pp7-44)に「研究篇」と区分されての解説が2篇(蔵中進+佐藤晴彦)。
 訳注篇(pp45-140)は全巻じゃなく、つまんでの八篇。ただし全〔四十一〕篇にわたるのが「正倉院本王勃詩序本文翻刻」(pp142-184)と「漢字索引」。索引は横組み・五十音順で(1)~(44)ページまで、ここ全部をコピって来た。

 学術書『正倉院本 王勃詩序訳注』のほうにも、漢字索引はついてるんでしょ。

 うん。でも両者で索引の方針とスタイルが異なっていたんだ。元とするのは同じく正倉院本「王勃詩序」の各行を再現した翻刻。ともに原本での則天文字を通常の漢字に置き換え、右傍に◎印を添えてる。たとえば漢字「初」の索引。神戸外語大からの刊行物では(22)頁「ショ」に次の2行。
   初◎ ⑪19
    初  ㊵1

 ◎印が付いたほうが、上に加工した画像の中央に掲出した〔十一〕第19行目での出現例。どんなセンテンスで使われているかは「初  ㊵1」のほうも含め、索引を手掛かりとして、それぞれ〔十一〕・〔四十〕篇の翻刻を確かめなさいという、ごく普通の方式。
 それを翰林書房からの単行本では索引(82)頁左「ショ」に次の2行。
   初  初傳曲洛之盃   11-19
      初春於權大宅宴序  40-1
 
 このように、どんな字句として用いられたか、学術図書としての単行本では索引の段階でわかる利便性あり。「40-1」とは全巻の終わりから2番目の篇、その題(第1行)そのものを索引にも「初春於權大宅宴序」と掲出してるわけ。正倉院「王勃詩序」末2篇に、則天文字は使われず常用の文字で書写されているから、ここは「文字どおり」の用例。ただし「初◎ ⑪19」および「初  ㊵1」とだけあって、この篇のこの行に使われてますよとの数字による索引だった初出誌のほうでは、見出し漢字に「◎印をつける=この場所では則天文字が使われてます」、「◎印なし=通常の字体(則天文字の字体で書写されず)」と示してた。それを単行本の索引では、やめちゃってる。

 じゃ、高価な学術書のほうの漢字索引を使って則天文字の使用例をピックアップしようと思ったら、索引からいちいち本文の全用例をたどっての確認が必須、ってこと!

 そう。だから◎マークありの初出誌の単純な漢字索引こそ、コピーして手元に置く必要を感じたのさ。

 これで正倉院本「王勃詩序」での則天文字、全用例を漏らさず確認できるようになったのね。

 だからここに「初」「授」を含む箇所の画像を掲示。もう一例「臣」の則天文字「𢘑」については冒頭「〔一〕於越州永興縣李明府送蕭三還齊洲序」とした篇での用例を、ちょい前に示した別記事内で紹介ずみ、ってことで。

 ほんと。索引を使ってレアな用例、確定させて挙げたのね。でも「授」を「𥠢」とした2行前、「星」をマルじるし「〇」とする則天文字も、希少価値あるんじゃない。

 正倉院「王勃詩序」では、通常の字体「星」が1度も使われてない、って索引から断言! ただし「〇」で星とする回数は、初出誌「外国学研究」30号のシンプルな「索引」で「㉓6 ㉖2 4 ㉘3 ㉙3 ㉚7 10 ㉛9」と8度。それを翰林書房からの単行本、前後文脈ありの「漢字索引」では7例のみ。

 どうして1例、減ってるの。

 比べてみたよ。「㉘3」にあたる「星象磊落以降清 28-3」がこのブログで掲示した例。次の「㉙3」までは差がないんだ。初出誌の索引で「㉚7 10 」とあった「〔三十〕晚秋遊武擔山寺序」でも、原本(19)紙を見る限り
【7行・9字目が「星」】〻即入祇園之樹引〇垣於沓嶂下布金沙栖Ꮻ觀
【10行・4字目が「星」】長門之〇美人虹影下綴虬幡少女風吟遙喧鳳鐸
 って読み取れる。後者10行目の例を単行本p312「〔三十〕晚秋遊武擔山寺序」では、翻刻を
  10 長門之月◎⑤。美人虹影、下綴虬幡、少女風吟、遙喧鳳鐸。
 として、「星」を「月」に換えちゃってる。校記に
  ⑤月―星(原字は則天文字)
 とあって、中国に伝わったテキストが「殿寫長門之月」なので、正倉院本の則天文字「〇」も、中に「卍」が書かれた「☮」のような「月」であってしかるべし、と2014年刊行ではテキストを校訂しちゃってる。結局1995年の索引での「星◎」の用例は、学術図書にまとめ直して一回、減らされた、ってわけ。単行本の索引「月」では「殿寫長門之月 30-10」って出てるし。

 ほんと。コピーされた初出誌の「索引」を見ると「月」では、「㉙3 15」と「㉛4 9」の間に〔三十〕篇での用例を意味する数字はないわ。でも「月◎(𠥱【匚はこがまえ+出】)」が第⑦篇までの十例、「月◎(☮【〇に逆卍】)が第⑩篇から㊳篇までの二十一例、それに通常の「月」が「㊵2 ㊶2」と末尾2篇で二度使われてる、って示されてる。使い分けがわかるわ。

 正倉院本「王勃詩序」では巻末の第(28)(29)紙に書写された末2篇〔四十〕〔四十一〕に則天文字は使われず、〔四十〕の篇名「初」のように通常の字体になってるからね。同様に「年」も通常の字体は巻末「㊶318」の二度のみ、あとは冒頭〔一〕から第〔三十八〕篇まで、すべて「千万万千」を組み合わせた「𠡦」。

 「天◎」についても、「年◎」と同じようね。「㊵12」の一例だけ通常の「天」で、それ以外は巻頭の第〔一〕篇から第〔三十八〕篇まで、すべて「而」に似た則天文字!

 「日」が、〇の中に「~」を書いたような「Ꮻ」も、末篇までは同じく明らかに則天文字だね。多数使われていて、すべて則天文字というのは、あとは「埊」かな。通常の字「地」は一度もなく、すべて「埊」。よって「天地」との表記もなくて、どこも「而埊」に見える。

 あと通常の「載」も一度もなし、③から㊱までの九例すべて「𡕀」という則天文字を使用! って確定。

 常用の字体と混用されているのは「國」と「人」かな。

 「圀」なら「⑤15 ⑥5 ⑨2」の三度が、このポピュラーな則天文字。第〔十四〕篇以降の七度の用例はすべて「國」。初出誌の索引だとわかるゎ。

 「人」の字については、途中まで則天文字の字体「𤯔」と通常の「人」が混用されている。だけど中盤〔十〕篇以降は、「一」の下に「生きる」の字体がぴったりと使われなくなって、通常の「人」ばかり。そしてちょっと古くなるけど、次A・Bとする2種の書道関連図書(平凡社)では、ともに「王勃詩序」巻頭部分のモノクロ画像を載せ、その釈文で則天文字「人」「臣」を識字せずに、「至」および「一」のない「忠」と判読。
  「幸屬一作寰中之主」「四皓爲方外之
 と、やっちゃってたの、みっけ。
  A 昭和40年5月 平凡社『書道全集』第9巻 [日本Ⅰ(大和・奈良)]
 グラビア版 22,23 王勃詩序 慶雲四年(707)【釈文は解説p151上段】
  B 昭和50年7月 平凡社『書の日本史』(全9冊のうち)第一巻 飛鳥/奈良
 p230 王勃詩序【巻頭7行+巻末6行と奥書きの写真】
【p231左端に訓点添え「人・臣」につき則天文字を判読せずの〔釈文〕あり】

 あら随分ご熱心にお調べね。「あら捜し」っぽいけど。則天文字の研究が進んでなかった時代でしょ。で今までの、ほかのシリーズにどう載ってるの。

 ほいきた。次がほぼ原寸・原色で「王勃詩序」につき、もっとも多くの箇所を載せてたよ。
  正倉院事務所 編 1994.11『正倉院寶物4 中倉I』毎日新聞社
 原寸カラー写真で、巻頭・第(5)(13)(20) 紙の見開き・本文末、計8ページ。全巻の縮小モノクロ画像も上・中・下の3段組で掲載(pp235-241)。これは平成6年(1994)秋刊行の『正倉院展』図録の掲載と同時期、縮小カラーで全巻掲載の翌平成7年『正倉院展』図録の一年前、ということ。これ以外にも、正倉院「王勃詩序」を一部掲載している企画もの図書については、また別にまとめてみようかな、っと。

 大型の美術書でも、ぜひ実物を持ってきてね。いつもいつもの10円コピーじゃ、もう、やぁ~ょ。
#則天文字 #王勃

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