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篆額と自虐

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楊守敬『日本訪書志』の則天文字 ――「古鈔王子安文」から

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 楊守敬『日本訪書志』卷十七「...  楊守敬『日本訪書志』卷十七「古鈔王子安文」での則天文字6種
「年月」を則天文字で刻す1例の掲出はここで省く(前に続く記事参照)
別の1種「𡕀」(載の則天文字)は下の画像参照
正倉院「王勃詩序」の《至眞觀夜... 正倉院「王勃詩序」の《至眞觀夜宴序》を楊守敬『日本訪書志』卷十七はこのように翻刻していた
【なお正倉院本で紙の貼り継ぎのあと書写された《遊廟山序》につき、『日本訪書志』は触れておらず、楊守敬は「王勃詩序」全体の3分の2ほどの複製を手渡されただけと思われる】
 上にアップした左側は、「正倉院展」図録のカラー写真の転載でしょ。

 そう、平成6年「第四十六回」の図録54ページから。「至真觀夜宴序」一篇分に、黄土色の紙を貼り継いだ「遊廟山序」の出だし部分のみ。

 載を別の字にした則天文字「𡕀」に注目、ってことね。で、その右側は?

 明治初期にやってきて、清朝では失われた漢籍を日本で探し出した楊守敬(1839~1915)の著書から。間接的に、正倉院に伝わった「王勃詩序」の3分の2ほどを見たようで、それを『日本訪書志』という著書の巻十七に「古鈔王子安文」の題で紹介してたんだ。

 へぇ、それなりに則天文字を、再現してるのね。

 正倉院本と、左右対照させた『日本訪書志』の「至眞觀夜宴序」では、「載」の字体を換えた「𡕀」と、ここは「月」のまんなかがグチャっと草書体になったようで、とうてい匚(はこがまえ)の中に出の「𠥱」とは思えない字のふたつ。それに「年・月」とある則天文字を、「𠡦𠥱」と刻している例は別の記事に示すけど、ほかで刻された字は画像から切り出して、さらに上に掲げておいたよ。

 で、蔵書家さんを自称してるけど、版本『日本訪書志』、もってないんでしょ。この画像、どこから取ってきたの。

 ネット! 国会図書館のレファレンス事例に「『日本訪書志』を見たい。」ってのがあって、幸運にも小樽商科大学附属図書館の所蔵本が、全編、画像公開されていることを知ったんだ。「史部」5品のうちの一つだった。
 貴重図書全文画像データ(漢籍)(小樽商科大学附属図書館)
http://www.otaru-uc.ac.jp/htosyo1/siryo/kanseki/
 清・楊守敬『日本訪書志』は清光緒23年(1897)刊(楊氏鄰蘇園)の8冊。全17卷それぞれが、PDFデータとして開くようになってた。

「古鈔王子安文」の紹介は最終の巻十七ね。あら、モノクロ画像!
『日本訪書志』卷一七【一表】

 これで十分! 10丁半分に、解題から始めて、題目を30かかげたあと、題名につづけ王勃の文まで刻したのが13篇。ただし首尾が欠けている「残缺」の篇も込みでの13篇。一応は、則天文字もそれらしく再現、提示してくれてる。

 句読点、切ってないけど、読めるの。

 読みまちがえないよう、そこもネットで標点ありのサイトを検索! 中国版の青空文庫っぽい Wikisource 「維基文庫・自由的圖書館」 に『日本訪書志』を見つけたょ。《古鈔王子安文》一卷(卷子本)にリンクさせたんで、どうぞ。

 でも、則天文字らしい字体が見当たらないわ。

 たしかに。比べてみたんだけど版本で「埊」と則天文字を置いている箇所が、ただしく常用の「地」に置き換わってなくて、Wikisource じゃ「睪」に誤ってる。しかも目録部分の最後の篇題
  《春日送呂三儲學士序》(缺後半)
が、次のような書誌情報(ちょっとだけ試訳ぞえ)の部分のタイトルのように組まれちゃったのは、明らかに誤った読解だったり。
此卷首尾無卷第,尾殘缺。其第一首題王勃名,以下則不題名,似當時選錄之本。然以勃一人之作,采取如此之多,則其書當盈千卷。考唐人選集唯《文館詞林》一千卷,而編錄在顯慶三年,非子安所及,抑唐人愛勃序文者鈔之耶?疑不能明,記之以俟知者。(子安有《舟中篡序》五卷,然校此卷中文不盡舟中作,《滕王閣序》其一也。)今以逸文十三篇抄錄於左,其他文十七篇異同,則別詳《劄記》。
此の(王勃詩序の)巻物は、首尾に書名や第いくつの巻かも書かれてなく、末尾も途切れている。其の第一首の題には王勃の名があるが、以下は題に名が添えられず、当時(唐代)の選録本のようである。…… 【以下、試訳を略】

 あら、ほんと。画面を下までスクロールさせると
本页面最后修改于2016年9月26日 (星期一) 04:19。
 ってあるから、またこれから改修されるんじゃない。

 とにかく、小樽商科大が、版本『日本訪書志』の画像をオープンし、文字テキストをコピペできる Wikisource もあった。ここから、楊守敬という書誌学者が正倉院に伝わった「王勃詩序」のどんな複製を入手したのか、追及したいな、っていう興味がわいたのさ。

 そんなこと、優秀な研究者が調べつくしているんじゃ、ありません。王勃や、則天文字についての、きちんとした研究者が。

 どうも、明らかにされてないようなんだ。下に、仮の訳を置くけど、「古鈔王子安文」の解題の出だしで、巌谷 修(いわや しゅう 1834~1905)から渡された、と書いている。

 号で呼べば、巌谷一六ね。楊守敬から六朝風の書を学んだ政治家、って人名辞書にあるわ。

 その息子、児童文学者の巌谷小波(いわや さざなみ)のほうが、文学史上の知名度は高いかも。ともかく『日本訪書志』巻十七には、次のようにあるよ。

古鈔王子安文一卷 卷子本
  古鈔王子安文一卷,三十篇,皆序文,日本影照
  本,書記官巖谷修所贈。首尾無序、跋。森立之訪
  古志所不載,惜當時未細詢此本今藏何處。書
  法古雅,中間凡「天」「地」「日」「月」等字,皆從武后之制,
  相其格韻,亦的是武后時人之筆。此三十篇中
  不無殘缺,而今不傳者凡十三篇,其十七篇皆
  見於文苑英華。異同之字以千百計,大抵以此
  本爲優,且有題目不符者,眞希世珍也。

【試訳(適宜改行)】
 古い手写しの『王子安文』一卷,三十篇は,みな「序」というスタイルの文。
 日本での影照(複製)本を,書記官の巖谷修が贈ってくれた。
 首尾に序・跋は無い。森立之の『訪古志』には載せていない。
 惜しいことに(複製を入手した)当時に此の本が今どこに蔵されるか、こまかく尋ねなかった。
 書法は古雅で,中みの、およそ「天」「地」「日」「月」等の字はみな武后が制した(則天文字の)字体に従っている。
 其の格や韻をみても,たしかに武后の時代の人の筆である。
 此の三十篇中には(首尾を欠く)殘缺の篇が多いが,しかし今に伝わらなかったものも凡そ十三篇ある。
 (差し引きして)他の十七篇はみな『文苑英華』に見えているが、異同のある字は千百をもって数えられる。
 大抵は此の(巻子)本のほうが(テキストとして)優っている。
 かつ題目が符合しないものも有って,まさに希世の珍品である。

 句読点は、Wikisource のを借りて原文を示し、訳を添えたんだ。

 そうした解題に続く、『日本訪書志』巻十七【一丁裏】からの「目録」は、「日」はすべて「Ꮻ」の字体ね。

 最初から、楊守敬が引いたとおりに題目を並べてみようか。割注の再現では、これまた Wikisource の句読点を入れておいたけど。
  目録
  王勃於越州永興縣李明府送蕭三還齊州序
   《文苑英華》作「《越州永興李明府宅送蕭三還齊州序》」。
  山家興序 《文苑英華》「家」作「亭」,誤。
  秋Ꮻ宴山庭序 《文苑英華》作「《秋日宴季處士宅序》」。
  三𠥱上巳祓禊序
① 春Ꮻ序 缺後半。
② 秋Ꮻ送沈大虞三入洛詩序
③ 秋Ꮻ送王贊府兄弟赴任別序 闕後半。
④ 失題 缺前半。
⑤ 秋晚什邡西池宴餞九隴柳明府序
  上巳浮江讌序
⑥ 聖泉宴序
⑦ 江浦觀魚宴序 缺後半。
  梓潼南江泛舟序
  餞宇文明府序 《文苑英華》「餞」作「送」。
  仲氏宅宴序 僅存末十字。
⑧ 夏Ꮻ仙居觀宴觀序 缺後半。
  秋Ꮻ登洪府滕王閣餞別序 闕後半。
  送劼赴太學序 缺前半。
  秋夜於綿州羣官席別薛昇華序
  宇文德陽宅秋夜山亭宴序
  晚秋遊武擔山寺序
  新都縣楊乾嘉池亭夜宴序 《文苑英華》作「《越州秋日宴山亭序》」。按:序文有「揚子雲之故地」句,則非「越州」審矣,《英華》誤。
⑨ 至眞觀夜宴序
  秋晚入洛於畢公宅別道王宴序 缺首尾。
  秋Ꮻ楚州郝司戶宅遇餞崔使君序 缺前半。
  江寧縣白下驛吳少府見餞序 《文苑英華》作「《江寧吳少府宅餞宴序》」。
⑩ 秋Ꮻ登冶城北樓望白下序
⑪ 冬Ꮻ送儲三宴序 缺後半。
⑫ 失題 僅存末五字。
⑬ 春Ꮻ送呂三儲學士序 缺後半

 ①から⑬までの〇数字は、なに。

 楊守敬が、自国に伝わってない佚文と判断し、目録を挙げ終わったあと、続けてテキストまで翻字掲載した篇。その順番を、行頭に〇数字で添えてみたんだよ。

 つまり〇数字がないのは、目次に挙がっただけで、『日本訪書志』に本文の再現はない篇というわけね。

 そう。そして正倉院の「王勃詩序」での順番と照らし合わせると、おや、と疑問に思えることが……。正倉院「王勃詩序」に書写されていながら、『日本訪書志』に篇名がないものは……
 〈八〉 夏日喜沈大虞三等重相遇序
◆〈九〉 冬日送閭丘序 【④失題 「人」の則天文字「𤯔」を使用】
〈十四〉 與邵鹿官宴序
〈十九〉 張八宅別序
〈二十〉 九月九日採石館宴序
〈二十一〉衛大宅宴序
〈二十二〉樂五席宴羣公序
〈二十三〉楊五席宴序
〈二十四〉與員四等宴序
〈二十五〉登綿州西北樓走筆詩序
〈三十三〉遊廟山序
〈三十五〉別盧主簿序
◆〈四十〉初春於權大宅宴序【⑫失題 】
 【⑫は末5字「人皆成四韻」のみあって⑬〈四十一〉春日送呂三儲學士序が続く】 

 このリストでの〈八〉から〈四十一〉までの漢数字は、正倉院に伝わった「王勃詩序」の並び順を、篇の題にかぶせたようね。

 そうなんだ。ある程度のまとまりで、楊守敬が言及していない篇があるのが不思議だった。それを『日本訪書志』の「下闕」などや、「失題」とされている◆マークを添えた2篇から考えて、巖谷修から渡されず楊守敬が見ていなかった部分があるに違いない、と想定。それを正倉院「王勃詩序」の貼り継ぎ紙から特定すると、計(10)枚ほどが未見だったと判断。そうみて、かなりすっきり解決した気分。

 へぇ。次での( )内洋数字は、全(30)枚が貼り継がれているとかの、正倉院「王勃詩序」の料紙の順番ね。

  ③〈七〉秋日送王贊府兄弟赴任別序【楊守敬は「闕後半」とする】
(6)  〈八〉夏日喜沈大虞三等重相遇序【楊守敬はこの篇に触れず】
   〈九〉冬日送閭丘序【これを④「失題」として前半がないが「人」の則天文字を「𤯔」の字体で刻す】

  ⑦ 江浦觀魚宴序【楊守敬は「缺後半」とし次に言及せず】
(10) 〈十四〉与邵鹿官宴序
    仲氏宅宴序【「目録」割註で「僅存末十字」とする】

  ⑧ 夏Ꮻ仙居觀宴觀序【「缺後半」とあるので(11)は手にしたが】
(12)(13)(14)紙の書写は巌谷修から渡されていない!
   〈十九〉  張八宅別序
   〈二十〉  九月九日採石館宴序
  〈二十一〉 衛大宅宴序
  〈二十二〉 樂五席宴羣公序
  〈二十三〉 楊五席宴序
  〈二十四〉 与員四等宴序
  〈二十五〉 登綿州西北樓走筆詩序
 【この7篇は連続して見ていないので楊守敬は触れてない】
 【次が書写された(15)紙を楊守敬は見ているが】
   秋Ꮻ登洪府滕王閣餞別序 【で「闕後半」】
   送劼赴太學序 【「缺前半」とあるので】
(16)紙一枚分を不見 【続く4篇は既知として目録に掲出】
   秋夜於綿州群官席別薛升華序
   宇文德陽宅秋夜山亭宴序
   晚秋遊武擔山寺序
   新都縣楊乾嘉池亭夜宴序
 【つまり(17・18・19・20)紙は見ており】
 ⑨〈三十二〉 至眞觀夜宴序【は新発見の佚文として翻字】
(21)紙の第一行から書写されている
  〈三十三〉 遊廟山序 に言及がない
  〈三十四〉 秋晚入洛畢公宅別道王宴序 【は「缺首尾」とあるので(22)紙を見て】
(21)(23)紙を未見ヵ
  〈三十五〉別盧主簿序【正倉院での原本も「3行」切り取られ不完全】
   秋Ꮻ楚州郝司戶宅遇餞崔使君序【「缺前半」とあるのでこの題のある】
(24)紙も不見ヵ 【(25・26・27)紙は見ている】
   江寧縣白下驛吳少府見餞序(《文苑英華》作「《江寧吳少府宅餞宴序》」。)
 ⑩ 秋Ꮻ登冶城北樓望白下序
   冬Ꮻ送儲三宴序 【で「缺後半」とあり(28)紙を見ていない】
(28)〈四十〉初春於權大宅宴序【を⑫失題として末5字のみ第(29)紙から翻字】
 人皆成四韻

  【まとめ 全30紙のうち渡されず楊守敬が見ていないのは次10紙となるヵ】
  【正倉院「王勃詩序」(6・10・12・13・14・16・21・23・24・28)】

 さも得意そうだけど、きっともう、ほかの研究者が論著で発表してるんじゃない。

 見るべくして、次の2冊は図書館や中国学の専門書店に近寄らず論をたててみたけど。

 日中文化交流史研究会 (編) 2014.10 正倉院本 王勃詩序訳注
   601ページ: 翰林書房 19,440円

 道坂 昭廣 2016.12 『王勃集』と王勃文学研究
   406ページ 研文出版 8,100円


 あら。則天文字の字体そのものから、話がそれていったと思えば、そんなだったのね。でも、もし先行研究で立論されていることを、くどくど、ここで論じていたのでしたら、罰としてその「学術書を定価でお買い求め」の刑に処するわょ。

 ひぇー!
#則天文字 #楊守敬 #王勃

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