いや〜、めちゃ嬉しいなあ。 ネット詩誌『MY DEAR』で投稿されている方が 日本詩人会投稿欄にて入選された。 凄いぞ、凄いぞ、凄いぞ〜! なんて素晴らしい朝を迎えたのだ。 ありがとうを言いたい朝。。。
ほぼ毎週のように図書館へ来ては、本を読まずに詩や小説を書いている。しかし、今日は島崎藤村の本が無性に読みたくなる。どうしたらあのように綺麗かつ透き通った描写ができるのだろうか、と。 『作家の随想』という本を手にとってみた。やはり、そうであったか。藤村は松尾芭蕉に影響を受けていて、ふたりの重なる匂いを感じていた直感は当たっていた。「芭蕉の散文には何とも言って見やうもない美しいリズムが流れて居る」の藤村の言葉であるように、憧れとどのようにしたらあのような美しい言葉が綴れるのかという疑問を持っていたことが記されている。藤村が芭蕉へ感じていることを、私は藤村にも感じている。言葉の世界は孤独な世界より二つ、三つと広げていく謙虚が芸術表現を豊かにするのであろう。 「言葉の術」という見出しのところ。 「詩を新しくすることは、私にとっては言葉を新しくすることと同じ意味であつた」、「旧い言葉を壊そうとするのは無駄な骨折だ。ほんたうに自分等の言葉を新しくすることができれば、旧い言葉は既に壊れてゐ。この考へが私を導いた」と藤村は語っている。そして、言葉は活きかえって来ることの深い喜びを知ったという。 「新しい言葉」。それは、言葉の感じの鋭さであり、言葉というものに重きを置くほど言葉の力なさ、不自由さを感じることになる、とも藤村は語っている。 私はこう考察する。「新しい言葉」が「新しい詩」、「美しい詩」に成り得るためには、自分の中にもともとある感受への気付きと、その空間世界への弛まぬ求めが必要なのだろう、と。旧きを壊すことではなく、自分の旧きを引き出すことが新しい自分、新しい詩というこになると確信した。 そんな今日の読書、有意義に過ごしては、暮れてゆく窓辺。 参考図書『作家の随想4/島崎藤村/藪 禎子 編』日本図書センター
あれっ、夢と花がデカくなっている。 ある日、突然にウチで飼っている猫が巨大化しているのだから、もうびっくりだ。でも、これが現実なんだから普段のように暮らさなければならない。ああ、猫ちゃんのトイレを片付けなければ。「がちょーん、ウンコ、デカっ」いったいなんだよ、このデカさは。俺の大きさの三倍ってところだな。しかも臭いし。どうすればいいんだよ。トイレでは流れそうにないし。とりあえずビニールを二重にして縛った。オシッコは……。「ああ、ダメだ。風呂場で処理だな」。こんなこんなで、いつもこんなに大変だったかな、と思うが「これ、リアル日常だよな」とあきらめる。 「ビヤーン!」、「ガビョーン」と夢と花が俺に近づいてくる。なんだろう、いつもヤバイなんて思ったことないのに、これっ、ヤバイ。ジャレてくる二匹。おっと背中を引っかいている。多分、キズが深そうだ。でも、あまり痛くない。顔面もやられた。ヤバイ、ヤクザみたいになってしまう。二匹が俺を猫パンチで倒し、のっかる。ああ、重たくて息ができない。あれっ、首あたりを齧られている。俺はメスじゃないぞ、夢。おいおい、おいーい。俺を食べるなよ。餌がないからって、頼む、食べないでくれ。ちょっと待てよ。全然、痛くないし、食べられていること自体がそんなに嫌なことでもない。俺は夢と花に食べられている。意外とこれは幸せな終わり方なのかもしれない。幸せな。そう幸せななんだ。 「なあ、夢、花。俺は癒されているぞ!」
魂のイメージ。 まず魂の色は何色だろう? 私は「青」。 だから温度も低め。 炎の魂は、なんか違う。 まったくの個人的意見。 まあ、これもイメージなので、皆さん違うのだろう。 ん〜、黄色のイメージは一番、遠いところにあるかなあ。。。
焦る。締め切りが迫る。なのになんか書いている。 ああ、またやってしまった。月一の一作に躓いてしまう。ここに何か法則があるのだろうか。気合を入れて詩を書いていれば、「よしよし、なかなかいい感じだ!」と思った瞬間に大きな疑問が発覚する。数日前にAと言う詩では、黒という事象にマルと言っていた。しかし、今書き上げたその詩をじっくりと読むと、同じ黒い事象にバツと言っている。客観的に考察すると矛盾が生じている。しかし、私はひとりであり、ひとりでないことを知っている。それが多重人格という訳ではなく、そもそも事象につきふたつ以上の相違な答えも許容してしまうからだろう。あなたに対する答えと、自分に対する答えは違っている。これを理解してもらうのは至難の技だろう。だって、この文章すら何を書いてんだ、って感じになっているのだから。 矛盾、それは矛盾。私の中では、矛盾しているというより許容範囲だ。まあ、なんと思われてもいいだろう。矛盾と思われている詩も私なのだから。そろそろ、送信しなくては。。。
どこから来たんだい? 英語でハンサムなアングロサクソン系の男性が訊いてきた。「ジャパン」というと、彼は自分を指さし「アイアム、ジャパニーズ!」なんて冗談で笑わせてくれた。 先月、タイ国のピピ島というおもに観光でひとが集まる島へ日帰りで行った。フェリーに乗り一時間半。対面式の客席では、私の前にボスニアから来たという夫婦がいた。奥さんは妊娠していてお腹が大きく、旦那は優しくエスコートしながら身の回りのことを手伝う。でも、ボスニアといえば民族の対立による内戦があって、今も問題を抱えた国だという認識だったが、この夫婦は世界を旅しているようで、二日後には日本へ渡るというのだから裕福な家系なのだろう。 お互いにフェリーでは写真を撮り合い、拙い英語に付き合ってくれて楽しい時間を過ごすことができた。そして、お別れに「シーユーアゲイン、インジャパン!」なんていって微笑んだ。お互いのタクシーに乗りホテルへ向かった。ホテルにつき、久々に海でお魚さんと遊びクタクタだった。玄関のドアを開けようとした。 あれっ、隣の部屋に誰か入ろうとしている。おっと、さっきの夫婦じゃないか! 思わず「ヘイッ!」と叫ぶ! 男性が一言。 「イズディス、ジャパン?」 大受けでした。ほんとうに。こんなことがあるんだなあ、と。約束はしなかったけど、もしかしたら日本で再会するかもしれない。その時は、「フェア、イズ、ディス?」と訊いてみよう。彼はなんというだろうか。。。