一般財団法人である日本詩人クラブへ入会した。会員と学友があり、会費がお手ごろな学友となった。学友は総会などに参加できないくらいで、あとは会員と変わらない。詩集を出版していなくても、詩の活動をしていて推薦者が二名いれば学友になれる。そして、日本詩人クラブでは、詩の講義や朗読会も積極的に行っているので、それらに参加して勉強しようと思う。どんな詩やひとに出会えるか、なんだか楽しみだ!
弾んでいる耳の中 タン タラ タン 僕はなんだか幸せ 気持ちは知らぬお花畑を ぼんやり眺めている 誰に感謝しているのかも わからずに言ってしまうよ ありがとう ほんとうにありがとう 悲しんでいる耳の中 ダン ダラ ダン 僕はなんだか涙がこぼれ 気持ちは遠い青い空の 想い出を眺めている 誰に感謝しているのかも わからずに言ってしまうよ ありがとう ほんとうにありがとう
おはよう、と言われ おはっ、くらいで終わる挨拶 めんどくさいから 自分が嫌なヤツと思われても 気にしないことにして とりあえず生きている って、感じでひとがいないと 仕事の手は止める できれば横になって グーグーと寝てしまいたい それにしても 時間が経つことが苦痛だ なら、すこしは仕事をやるか 頑張っているな、と言われ はぁー、くらいで返答 めんどくさいから お疲れさん、と言われ おつっ、くらいで終わる挨拶 めんどくさいから はあっ〜 こらりゃ、俺にとっては疲れる やっぱり、シャキシャキ系でいこう
生きようとする力がなくなった時 安らかに眠るように 逝けたのなら幸せだろう 父親も同じことを言っていたが 病院で生かされ苦しかっただろう 最後の最期は家族に見守れ その顔は安らかで すこし救われた気はしたが…… 生まれる順番があれば 死ぬ順番がある 誰にでもやってくることを 知ってはいるが 受け入れながら死ぬのだろうか 拒絶しながら死ぬのだろうか 生きている者にとっては どう生きるかが どう死ぬことなのだろう ギリギリまで 枯れるように生きてゆくしかない
久しぶりに難しい本を読んでいる。普段、あまり本を読まない私なので、勉強不足なのか、子どもの頃からの短期記憶が数字三桁という脳みその問題か、わからない漢字が多すぎる。理由はともかく、わからない漢字を飛ばすのも気持ち悪いし、調べながら読むが「知ってるよ、そんな漢字」と答えを見て呟く情けない感じになっている。十年前くらいにあれっと気づいた。私の場合は記憶力が乏しいが、印象の強かった出来事や思い出はけっこう鮮明に覚えている。その時の心情とか匂いとか。それをどうにか詩を書く時に活かせないかと考えるようになった。それにしても漢字が覚えられないということで、広辞苑を読めば私にとって印象の強い漢字が覚えられるだろう、と。だが、今度は長期記憶の問題が発生する。覚えたはずの漢字が長期記憶から想起できないのである。年齢も関係するのかなあ。だから、広辞苑を読破しても知識的には何も得ていない感じであった。しかし、読んでいる時は旅でもしているような、そう言葉の旅をしている気分がいま思うと詩を書く上で身になっているのだろう、と勝手にポジティブシンギングしている。その旅をもう一度しようかと思うが、うーん時間がさすがにないなあ。まあ、読めなくてもだいたい漢字の意味は経験でわかるので、まあいっか、こんな私で。
おじさんが 詩を書き、詩を読み 涙がでたりする そんな場面が多くなった この涙、子どもの頃とは すこし違ったりする 寂しいとか、悲しいとか 嫌だ、ではない ひとの思いやりだったり がんばりだったり 優しさだったり 感じてしまうんだな こんな自分でも すこしは成長したのかな また涙がでてしまう
昼からの勤務 駅のホームにはベビーカーが並ぶ すでに抱っこやおんぶは 時代じゃないのだろう 赤ん坊がちょこんと静かに これも時代だろうか いやいやそうではない うぎゃー うぎゃー うぎゃー 赤ん坊は泣き出し 不自然さがすこし消えていった
なんとも陽射しの真っ直ぐなこと すこし曲がった心持ちを 矯正するかのようにカラダを通過する 生きているだけで儲けもの 目の前の道をしっかりと歩けばいい 辛い日々の中にいても 信じることから勇気を得よう 今日はやけに陽射しが真っ直ぐだ