毎度『詩は元気です☆』にご訪問有難うございます。 ゴールデンウィークはアクセス数が凄いことになって…… 多くの記事を拝読いただき、たいへん嬉しく思っております。 これからも精進して詩を綴ってまいりますので、 今後ともよろしくお願いいたします。 九ヶ月、八万アクセス(一万アクセスごとの報告となります)。
先日、中原中也全集の『日記・書簡』を読んでいた。今の時代に中也が生きていたのなら、ブログやツイッターをしているのに違いないと思う。なぜなら、まるでブログ記事を読んでいる感じがして、今の時代にフィットするだろうから。自分だけがわかるような文体ではなく、ちょっと難しいことを書いてもいるが、誰が読んでも頷かせるように意識され書かれている。 日記で書かれているものは芸術、詩についてや詩人の誰々がどうだ、という内容も多い。 中也が詩人や作品について論じる時、パターン化された書き方がある。 〇〇氏は悲しいくらいに狭い作品を書く(この文章は例え)。 →出だしは貶しているのか、というところから始まる。ここで読者をひきつける。 そして、作者と作品について述べる。 その狭い世界観が素晴らしい。 →最初に貶していると思った言葉は褒め言葉だった。という感じで終わる。 お前のその個性がなかなかいい、と。まあ、落としておいて持ち上げるといったスタンダードではあるが、その高低差のジェットコースター感が爽快だ。 手紙は母親に送った手紙がけっこう多く掲載されている。自分の現状が少し思わしくはないが、大丈夫だ、心配ないだろう、そんな感じで書かれている。そして、〇銭送ってくれ、〇円送ってくれとお願いが入る。母親がいなければ最低限の生活も出来ず、詩作への姿勢も変わっていただろう。今ある中也の作品が存在するのも母親あってのことだろう。 孤独が芸術を生む、そのようなことを言っている中也だが、個としての孤独は強くあっても日記や書簡に目を通すと「魅力あるコミュケーションの達人」、そんな人物像が浮かんでくる。 有意義に読むことができる日記と書簡であった。
さてさて、なんでもないだろう一日が始まった。よっしゃ行くぞ、図書館に。そんなに気合を入れなくても良いのだが、気合いを抜くと半日はすぐに過ぎてしまう。先週はダラダラしてしまって、後で自分の溜息に気分が悪くなってしまったから。 昼過ぎ、今日の図書館は閑散気味だ。春の太陽が燦々、世間は観光にでも行っているのだろうか。私は視界の五割が空という開放感のある自由席に座る。ああ、なんとラッキーなんだ。私にとってはポイントの高い幸せだ。 そして、いつものことだが直ぐに本は読まない。まず、詩をひとつ書く。が、今日は思考を変えて詩の題材をタブレットで検索する。「詩集 人気」でクイック。売れている詩集のランキングが掲載されているようだ。そこを閲覧。 なぬなぬ、一位は『あたりまえポエム』とかいう詩集だった。「なか見!」機能で閲覧。ほうほう、ほんとうにあたりまえのポエム? になっている。「あたりまえ」の力で癒されようとかいう趣旨の詩集らしい。これまた著作権が絡んでくるので、私が掲載されている作品に似せたものを考えよう。 今日がないと明日はないよね ひとりでいるといつもひとりぼっち 知らないひとに誰? って言われた 星って星形じゃないよね 水は透明だけど見えるんだっ まあ、こんな感じの言葉が綴られているようだ。私もこの本を読んだわけではないので、的はずれだったらゴメンって感じで。世間は病んでいるのか、言葉遊びを楽しみたいのか、妙な詩集?! が売れているもんだ。 ではでは、本を探しに行こうと思うが何か書きたい。 詩か、いや小説がなんだか書きたい。と思い今、この訳のわからない散文というか、小説というか、そんなもんを書いている。そこで、ひとつ。 「詩と小説の大きな違いはなんだろう?」 詩を書くのも小説を書くのも自分。違いは表現方法。そこにも一定の決まりごとなどないから、また面倒な話だ。しかし、そんな境界線を無くしてしまえば解決だ。いや、そうはいかない。物語を読みたい時にコテコテの詩が書かれていたのなら、それはそれで面倒なことになってしまう。難しい定義だ。難しいこと、今は考えたくない。それが休日の過ごし方だ。んっ、そこは納得。逃げっ。。。 そして、逃げた先は公園のベンチだ。雲がかかり、風が木々の枝を揺らし、この小説を書く環境には厳しい状況になってきた。ああ、タブレットの画面には雨がポツン、ポツン。雨粒の表面が明かりによって虹の色が出ている。しかし、雨上がりの虹ではない、これから来るぞっ、って感じだ。さあ、家に逃げろっ。 こんなところで、この小説は〆だ! さいなら。。。
高齢化社会から高齢社会 高齢社会から超高齢化社会へ突入 65歳以上の割合が21%を超えると『超高齢時代』 そんな時代が…… 日本の平均年齢は46.5歳(2015)で世界でトップ しかし、子どもが少ないということだ 国力がなければ粋な国にはなれない はて……
ネット詩誌 『MY DEAR』を拝読する。なんだか、最近は掲示板での詩作品が凄いことになっている。凄いというのはもちろん、良い方の意味である。様々の個性で完成度の高い詩作品が多く投稿され、他の方の作品に刺激を受け、さらに表現の勢いがその世界に入り込む浸透圧を強くしているようだ。 こんなレベルの作品が多いと、詩を書き出したばかりの方が投稿しようと思った時に躊躇してしまうかもしれない。しかし、そこは大丈夫。私もお世話になっている優しき評者たちがいるからなのです。優しいの中には厳しさもありますが、投稿者の表現力を引き出してくれる評がもらえる。すべて無償で素晴らしい評を必ずもらえる環境は他には見あたらない。いつも評者の方々には、感謝止まないのである。なので、詩を学ぶのならMY DEARがお勧め。詩を学ぶのならMY DEAR。 もう一度言おう、詩を学ぶのならMY DEAR、箸休めに『詩は元気です』という感じで、お後がよろしいようで。 なぬっ。 何か余計なことを言ってしまったかもしれない。。。
『詩は元気です』のブログを始めて八ヶ月。 アクセス数が七万を越えました。 一万アクセスごとにご報告をさせていただいております。 少しずつですが訪問される方も増えていまして、詩を書く励みとなります。 今後も詩に関する内容の幅を広げつつ、皆さまに楽しんでいただけるように 精進してまいりますので何卒、宜しくお願い致します。 いつもご訪問ありがとうございます!
本日は予定がないため図書館へ。 詩の棚に新しい本が置いてある。 『世界はもっと美しくなる』 詩:受刑者、編:寮千子 (出版社:ロクソン社)という本だ。 奈良少年刑務所詩集の第二弾。 まだ発行されて半年の詩集を手にとる。 前作より纏まった作品が多く、 詩人が書く詩より数段に詩であったりする。 (前作も素晴らしい) 読んでいて時間を止めてくれる作品ばかり、 グッと惹きつける素晴らしい詩集であった。 すべて受刑者が書いた作品集となっている。 やはり著作権があるために 作品をブログには載せられない。 詩集はインターネットなどで、 全て無料で拝読できるようになれば、 素敵だなと常々思うのです。 すると詩人が詩を書き収入もなくなるが、 それで良いのではないだろうか。 詩はすべてボランティア。 紙媒体は読みやすくカタチへの想い入りがあるが…… (インターネットを使わないひともいるよな……) って、いうか自腹を切って 私家本を出される方も多いが、 それはそれで凄い意気込みを感じ、 尊敬に値するものではある。 かなり脱線してしまったが、 こちらの本はこれこそザ・詩ってことだ。 とても心を揺さぶる詩集であった。 個人的に好きな作品は「涙」。 34ページ。 頑固で仕事一本の父で、 息子の名前さえ呼ばない親。 しかし、その父親が警察に 「こどもを漢字ひとつであらわすとなんですか」 と問われ、「宝」と書いたそうだ。 このストーリーに含んだ親子の繫がりにハッとした。 よしっ、もう一度読んでみようかな。。。
とても急加速で私の詩に関わる環境が変化している。もちろん楽しい方に。子どものような感受性で喜んでしまう。 さてさて、今回のこの誘い(?)はどうしたものか。責任を伴う役割だが、今以上に詩人の方々とコミュニケーションをとれるようになることは間違いない。利己的に考えるものではないが、詩を通して人生を楽しむのなら良いことであろう。 ボランティアの要素もあることだし、「詩は元気です」と謳ってもいるのだから、私にとってこの大役を引き受けようと思う。行くところまで行かなければ、人生に嘘をつくようなものだ。やるっ、ぞ! と、なんの意気込みかわからぬ表明をしたが、今後も詩のために邁進しよう。 (お誘い下さった方の詩集を拝読し、ご一緒にことを進めたい思ったのが、決定する最終重力であった)
部屋の片付けをしていると、茶道の許しの書(コーピー)が出てくる。 御宗家の素晴らしい書に再び感激。 思わずアップしてしまいました。 このような免状はほんとうに宝ですね。 ああ、茶道をいつの日か復帰したいなあ。。。