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サウスベイ マネジメント セミナー( Southbay management seminar )は月一回のセミナーを中心に勉強し、時々に親睦をする、乃ち「よく学び、よく交友する」そのような会です。 トーランスのニューガーデナホテルが会場になります。

2019年7月:アメリカに暮らす私たちが知っておきたい、日系アメリカ人の歴史

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サウスベイ・マネジメント・セミナー 2019年 7月

講師:三木昌子

全米日系人博物館・日本語渉外担当。
日本人や日本企業に向けてのマーケティング、PR、ファンドレイジング、訪問者サービス向上担当。
2004年に早稲田大学卒業後、詩の本の出版社、思潮社に編集者として勤務。2009年渡米。
ロサンゼルスの日本語情報誌「ライトハウス」にて副編集長を務めた後、2018年2月より現職。

ここロサンゼルスでは、私たち日本人は、ほとんど差別を受けることなく暮らすことができます。こうした普通の暮らしができるまでには、先に移住してきた日本人と日系アメリカ人の多大なる貢献がありました。1868年の元年者のハワイ到着から、第二次世界大戦中の強制収容、そして戦後のリドレス運動にいたるまで、どのような歴史があり、また今、日系コミュニティーはどのように変化しているのか、全米日系人博物館が伝える日系アメリカ人の歴史を、日本語で解説。


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「日系アメリカ人」とはアメリカに移住してきた日本人とその子孫。

最初に集団でアメリカに移住したのは、当時はハワイ王国であるハワイに1868年にやってきた「元年者」と呼ばれる約150人。彼らを待ち受けていたのは低賃金での過酷な労働。日本人に下級労働者のイメージが付くことを嫌った明治政府は、以後、労働移民を禁止。

再び本格的に移住が始まるのは1885年以後。1880年代の日本は不況のどん底で、特に農村で生活に困窮する者が相次いだことから、移民政策の転換を迫られました。
ただし、当時日本人移民を待ち受けていたのはさまざま差別。当時の帰化法により、日本人を含むアジア系は、アメリカ人になれない「帰化不能外国人」とされていたのです。

日本人移民が増えると共に排日運動が激しくなり、1907年〜1908年には日米間で日米紳士協定を締結し、日本が自発的に移民を制限する(新たな移民を制限。すでに移民している者の家族は移住可能)。

そして、1913年にはカリフォルニア州で外国人土地法が成立。帰化不能外国人は、土地の購入と3年以上の賃貸を禁止されることとなります。また1920年にはこの土地法は改正され、帰化不能外国人は土地の賃貸すら禁止されるのです。

ついに1924年には改正移民法が成立し、国別の移民数割当を設けると共に、帰化不能外国人の移住を全面的に禁止。日本からの移民はここで全て禁止されるのです。

1941年、真珠湾攻撃。当時のハワイは40%近くの人口が日系人・日系人でした。
真珠湾攻撃後、数週間以内に、コミュニティーのリーダーとみなされた日系一世ら、ハワイと本土あわせて約5000人がFBIに拘束されました。

1942年 2月19日、大統領令9066号発令。これは特定のエリアから裁判や公聴会などを経ずに、民間人を排除する権限を軍に与えるものでした。
それを受けて、西海岸の軍部は、ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州、アリゾナ州南部を立ち退き地域に指定。3月24日から強制立ち退き令が出され、16分の1以上、日本人の血が入った者は国籍、忠誠心にかかわらず、全員対象となったのです。
立ち退きの際、もって行くことができたのは両手に持てるものだけ。
その多くは、強制収容所ができるまで、まず仮の収容所に連行されました。ロサンゼルス近郊ではサンタアニタ競馬場やポモナのフェアグラウンドなどがその場所でした。
彼らはその後、全米10カ所に作られた収容所に送られました。収容所は鉄条網に囲まれ、監視塔からは兵士が銃を内側に向けているような場所でしたが、人々はその中でコミュニティーを作り、教育を行い、できるだけ普通の生活を送ろうと努めました。

1943年、収容所で「忠誠登録」が実施。
同じ頃に、日系人部隊「第442連隊戦闘団」が編成。アメリカ軍史上、その規模と従軍期間において、最も多く勲章をもらった部隊であり、多大な犠牲を出しながら、命をかけてアメリカに対する忠誠を証明しました。
「諸君は敵だけではなく、偏見とも戦い勝ったのだ」(トルーマン大統領)。

また、収容所から従軍することに異議を唱え、「米国市民としての権利が回復されればば、進んで徴兵に応じる」とした徴兵拒否者らも。

1945年から1946年、収容所が閉鎖。収容所を出るときに渡されたのは、25ドルと申請した場所への片道切符のみ。差別も偏見も残るなかで、日系人らは再び生活を立て直したのです。

1952年、ウオルター・マッカラン法。日本人も米国市民権が取得できるようになりました。

1965年 移民法改正。国別割当が廃止。
1960年代後半~ アジア系アメリカ人運動 

1970~80年代 リドレス運動
「リドレス」とは過ちを正す、という意味。強制収容という過ちを政府に認めさせ、謝罪と補償を求める運動。
1981年、全米10ヵ所で公聴会が開催され、750人が証言。
82年には報告書「否定された個人の正義」が出され、戦時中の強制収容は「人種差別」「戦時下のヒステリー」「政治指導の過ち」によって起こったものだと結論づけました。

1988年8月10日、レーガン大統領が署名し、「市民の自由法」が成立。強制収容を過ちだと認め、政府として正式に謝罪。また生存していた元の収容者一人あたりに2万ドルの補償金を支払うことを認めました。
これによって日系人がアメリカに対する信頼を取り戻しただけでなく、アメリカというのは間違いを認め、謝罪をする国なのだということを示した、アメリカの民主主義にとって非常に大切な瞬間でした。

1992年、全米日系人博物館 開館。

日系人の物語を伝えることによって、人種や文化の多様性に対する理解や認識を深めることをミッションとしています。もう二度と、日系人に起きた歴史が繰り返されないように。

ぜひ全米日系人博物館にお越しください。

#2019年セミナー

ワオ!と言っているユーザー

2019年6月「愛憎のアメリカ、光と影~令和の平和を考える」

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2019年6月「愛憎のアメリカ... 2019年6月「愛憎のアメリカ... 2019年6月「愛憎のアメリカ... 2019年6月「愛憎のアメリカ...
概要

アメリカは素敵だ。だが・・・滞米27年間の観察から見えてきた愛と憎しみ。
オバマ8年の反動としてのトランプという自己撞着がAmerica Firstなのだろう。
移民で成り立ってきた米国史への反逆、その予兆が911だった。
新聞記者として生きたぼくの半生、愛憎のアメリカから学んだことは大きい。
僕は今、肝臓ガンに取り憑かれているが、ガンと共に生き延びようと考えている。
ガン撲滅ではない。ガンとの共生だ。
異なる価値観、否定したくなる体制を苦くても共に認めるという思想が令和の時代の平和観だと思う。





講師:北岡和義(きたおか かずよし)氏プロフィール
   

1941年岐阜県生まれ、64年南山大学文学部卒。読売新聞記者。
国会議員秘書を経てフリー・ジャーナリスト。
79年渡米。在ロサンゼルス邦字紙編集部長。

1985年9月、LAで日本語テレビ・ニュース番組、制作、放送。同時にTBS,フジテレビ、文化放送契約特派員
2006年8月帰国。日本大学国際関係学部特任教授など
     

著書に『13人目の目撃者』、『海外から1票を~在外投票運動の航跡』、『政治家の人間力』など

***講演録は北岡氏の承認待ちです。承認が得られ次第記載致します***
貴重な映像がございますので掲載させて頂きます。

2.サウスベイセミナーの講演(Youtube)
https://youtu.be/l6HOL0p442g

映像ダウンロードリンク
https://drive.google.com/file/d/1t_E0uda7bzek2Crn7uBmqtTliLcvkiHn/view?usp=sharing


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