記事検索

フリースペース

サウスベイ マネジメント セミナー( Southbay management seminar )は月一回のセミナーを中心に勉強し、時々に親睦をする、乃ち「よく学び、よく交友する」そのような会です。

2019年 4月「夢の舞台に立つまで、そしてこれから。」

スレッド
2019年 4月「夢の舞台に立... 2019年 4月「夢の舞台に立... 2019年 4月「夢の舞台に立... 2019年 4月「夢の舞台に立... 2019年 4月「夢の舞台に立... 2019年 4月「夢の舞台に立... 2019年 4月「夢の舞台に立...
2019年 4月セミナー   
タイトル「夢の舞台に立つまで、そしてこれから。」

講師:杉山美紗(すぎやま みさ) 
5歳でバレエや新体操、水泳を始める。
8歳でシンクロを始め、11歳の時に一貫指導オーディションに合格。
11〜15歳まで一貫指導を受ける。 17歳でジュニアナショナルチームに入り、
19〜22歳の間、ナショナル A チーム、B チームとして世界大会に出場。

長年、私の夢であったCirque du Soliel ”O”の舞台。
物心ついた頃から、人前でパフォーマンスし、拍手をもらうことが大好きだった私。
初めてCirque du Soleilのショーを見た、14歳の時から10年後、私はこの夢の舞台に立っていました。

28歳の今だからこそ語れる事ー
今までの自分、夢を叶えた後に見えてきたもの、そしてこれから、、、
これらをシェアすることで、皆様に、日本とアメリカでの体験を通して何かを感じて頂けましたら幸いです。

***********************************
ベラージオ 1800席 毎日90%以上のお客様が会場を占めてくださっています。
このステージに立ち、4年が経ちました。
今、思うこと、これからの展望など、お話をさせていただきます。

私は神奈川の綾瀬市に1990年9月25日(浅田真央ちゃんと同じ年、同じ日)に生まれ育ちました。
JR線の運転手をしている父は、私の試合の応援に来る度に、
「定年後の楽しみだから」と嬉しそうにビデオを撮っていました。
母は現在小学校の校長先生。
仕事で疲れているのに、よく練習後の私を迎えに来てくれ、
その日できたこと、できなかったこと、大泣きしながら帰ったこともありました。
母がいたからここまでやってこれたという思いもあります。
2歳年上の姉、4つ上の兄の3人兄弟、
そして、料理が好きな祖母と達筆な祖父に幼少時代は囲まれていました。

幼少期は本当におてんばで、
保育園の頃は、葉っぱをチケットがわりにし、「サーカスを観に来てください」と
人を集めて、サーカスごっこをして遊んでいました。
あの頃から人前でパフォーマンスして、喜んでもらうのが大好きだったんだなぁと思います。

5歳でバレエと新体操を姉の影響で初め、踊ることが大好きでどこでも踊っていました。
スイミングも兄、姉の影響で始めたのですが、泳ぐのは当時とても苦手でした。
先にシンクロを始めていた姉についていくように、8歳でシンクロを始めました。
シンクロに加え、バレエ、新体操も習っていたので、日曜は朝5時半から夜遅くまで
シンクローバレエーバレエーシンクロー新体操 と、めまぐるしい一日。
ハードスケジュールを楽しく遊んでいるように笑顔でこなしていました。

小学校4年の頃の夢は、バレリーナでした。
現在の身長は170cm弱
身長が高すぎると日本のバレエ団で男性とペアで踊ることが難しいということを聞き、
海外のバレエ団に行こうとバレエ雑誌を読みふけっていました。
大人になったら背が高くなるだろうと、なぜか当時から思っていたので、
自然に海外のバレエ団に行こうと考えていました。

2001年に日本水泳連盟が開催した、
シンクロエリート教育 一貫指導オーディションに合格。
これはオリンピック選手の卵を育てようというプロジェクトで、
全国から小学4年生〜6年生の子供達を集めて、オーディションを行いました。
シンクロの技術だけではなく、身体能力、作文や身体の様々な箇所の測定もされました。

私のここまでの人生で一番大きな転機が、このオーディション。11歳でした。
それまでバレリーナを目指していた私。
ここからはシンクロの道に進んでいくことになります。

月に1回の合宿では、シンクロだけではなく、競泳、トランポリン、体操、陸上と、
様々な分野の専門家の方から指導をして頂きました。
クラブのコーチとのマンツーマンの朝練も始まり、
泳ぐのが苦手で、いつもビリだった私もどんどん泳げるようになり、
11歳から15歳まで、月に1回のタイムトライアルでは、毎回タイムを上げることができました。
でも、落ちこぼれでスタートが遅れていたので、
5年かかってやっとみんなに追いつけたかな、というくらいでした。

地元のクラブにいた時はバレエも新体操もギリギリ続けることができましたが、
小6の秋に東京のクラブに移籍することになり、シンクロ一本の生活。
大好きなバレエと新体操にも行けなくなってしまいました。

そして14歳の時、シルク・ド・ソレイユの「アレグリア2」公演を初めて観に行きました。
私には「これだ、この舞台に立ちたい」という気持ちと、
魂が震えるほどの感動今でも覚えています。

その後、ジュニア世界選手権などで世界を経験することになりますが、
その反面、学校に行く時間も限られてしまっていました。
それだけシンクロ漬けの日々でした。
高2、高3では国体優勝。

初めて米国に来たのは、Arizona Tucson
アリゾナ大学で行われたUS Openで、私はソロで優勝。

翌年の日本選手権も試合中に、左手中手骨を骨折。
次の代表選考では、その大会の結果が関わってくると知っていたので、
テーピングで固定しながら残り3日間を泳ぎ切りました。
その後、無事A代表に初選出されますが、
完治していない手をかばいながら練習していた為、
身体が歪んでしまい、身体も心もバランスが崩れ、
代表チームで初めての補欠を味わうことになりました。
もともとそんなにシンクロが上手でなかった私。
11歳でオーディションに受かってからは、
まわりの方の力もあり、代表に入れるところまで来れましたが、
自分の力できたというよりも、まわりの方にメッキを貼ってもらっていたような感覚でした。
初のA代表、そして、補欠を経験した時に、
そのメッキがボロボロとはがれていくような気がしました。

この時、どうしたらいいのかわからず、
以前から苦しんでいた逆流性食道炎が悪化。
ご飯を食べても吐いてしまい、1日3回食べて3回吐くという日々が続きました。
やせ細った身体では世界で戦うなんてできるはずもなく、
翌年の代表からも選考漏れし、
この時、シンクロを本気で辞めようと思いました。
もともとメンタルがすごく弱いので、
当時水に入ることもできず、水着を着ようとすると涙が溢れてきました。

何もできなかったこの時、急にバレエレッスンに行こうと思いました。
そして、表現することが好きだということを思い出し、
日本代表としてもう一度胸を張って泳ぎたいという思い、
また、その先にあるシルクドソレイユという夢を思い出しました。

2年かかってようやく代表に復帰。
2013年のユニバーシアードと、バルセロナ世界水泳に出場しました。

世界水泳後、このままリオオリンピックを目指すか、
シルクドソレイユの夢を追うか迷いました。
リオオリンピックまではあと3年。
そしてその4年後には東京オリンピック。
自国開催のオリンピックも目指すことが可能だった為、
まわりはこのまま頑張りなよと勧めてくれていました。
迷う気持ちを抱え、一人でラスベガスに。

初めてシルク・ド・ソレイユのOを観て、
あと3年も待てない。今すぐにこの舞台に立ちたいと、
代表を辞退することを決意。

クラブの先生にも、母にも大反対されましたが、
私の意志は揺るぐことはありませんでした。

しかし、クラブの先生に育ててもらった、という思いがあり、
恩返しもしたかったので、次の日本選手権をクラブの選手として泳ぎ、
そこで競技を引退することを決意。
2014年6月の日本選手権で競技を引退。

そして幸運なことに、引退した半年後に私はOの舞台に立っていました。

Oを初めて観た時に思ったのは、技術的にそんなに難しいことはしていない。
この舞台に立つには、技術プラスαの何かが必要なんだと感じました。
そのプラスαとは何なんだろう、と考えている間に、
私は運良く契約をもらうことができました。

世界中でシルクに来たい人は沢山いて、
私よりシンクロが上手な人も沢山います。
その中で選んでもらえた。
その理由として唯一考えられるのは、準備と覚悟だったのではないかと思います。
競技引退後、母に5年間は定職につかず、
いつ呼ばれてもいいような状態でいさせて欲しいとお願いをしました。
5年待って連絡が来なかったら、きっぱり諦めることを母と約束し、
引退後の時間は全てをシルクドソレイユに行く為に、と準備をしていました。
家族、バイト先、2ヶ月コーチをしていたシンガポールのクラブ側、
関わって下さる全ての方々にそれを説明し、理解してもらえるよう努力しました。
いつ来るかわからないチャンスに備えての準備。
そして、その間腐らずに、身体のコンディションとモチベーションを整えて、待つという覚悟。
この二つは自分の中に持ち続けていました。

引退後、シンガポールで2ヶ月コーチをし、
その後の教育実習中にシルクから声がかかりました。
24歳の誕生日の直後でした。

モントリオールの冬、初めて訪れたシルクドソレイユの本社は雪景色の中。
社内は独創的な家具、オブジェが並んでいます。
モントリオールにはオフィスのほか、トレーニングルームや合宿施設もあります。
また、ショーのメイクも毎晩自分で行う為、メイクの練習もします。

ここには世界中からいろんな人が集まり、
トレーニングしたり、振り付けを教わったり、
自分の身体にぴったり合う衣装を作る為に、
全身、頭の形などを3Dスキャンしたりします。

モントリオールで2ヶ月合宿をし、
一旦日本に戻り、ラスベガスに向かいました。

シルクドソレイユのパフォーマーライフというのは本当に人それぞれ。
私は午後4時くらいに会場に入り、ウォーミングアップをして、公演に備えます。
帰宅は深夜0時。

数ヶ月が過ぎ、ある日ふと、夢の舞台に立つことができるようになった今、
次、私はどうしたらいいんだろうと思うようになりました。
人生の大きな夢を達成し、その先の目標を見つけるのは簡単なことではありませんでした。
ヨガの資格を取ったり、エアリアルに挑戦したり、
色んなことに挑戦しながら、今も自分の次の目標を探しています。

日本に住む友達には
「シルクのショーに出ているなんてすごい」
「海外で活躍しているなんてすごい」
と言われますが、その度に違和感を感じます。
私よりすごい人達が、山のようにいることを知っていますし、
上には上がいることを、シルクに入ってからは特に感じています。
もう本当に人間離れしたような人たちの集まりなので。

ただ、その中で今思うのは、
どこにいるかとか、どの会社で働いているとか、
どんな経歴があるかとかが重要なのではなく、
それによって何を培ったかということなのではないかと思っています。
夢の舞台に今立たせて頂いていますが、
自分はまだまだ成長過程で、これからの自分も模索中です。

ただ、これまでやってきたこと全てに意味があり、
ご飯が食べられなくなったり、眠れなくなったりしたからこそ、
誰かと美味しくご飯が食べる時や、ぐっすり眠れた次の日の朝など、
当たり前のことにとても幸せだと思っています。
今あるものに感謝をしながらも、
次を見据えてこれからも模索し続けていきたいと思っています。
今後も暖かい目で見て頂けると嬉しいです。

**************************
Q&A時

ある方にプロとアマの違いは何かと聞いたところ、結果が全てと言われました。
シルク・ド・ソレイユの世界もほとんどが自己管理で本人任せなので、本当に自由。
いいパフォーマンスができるのであれば、6時までに会場に入ればいい。
そんな世界で、自分なりに努力し、自分のできることが増えたことが成果に思え、
エアリアルのポジションがもらえないというショックはありましたが、
このことでプロは結果が全てということが少しずつわかってきた気がします。

サーカスはアスリート以上に怪我が多いと思います。
メンバーには何箇所も手術をされた方がいます。
私は体にメスを入れることが嫌なので、自己管理、予防、大事になる前に休むなど、
自分でいいパフォーマンスをする為に、今何すべきなのかを考えています。
#2019年セミナー

ワオ!と言っているユーザー

  • ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
    ログイン
  • まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
    新規ユーザー登録へ
この投稿へのコメントはできません。