人生にはTurning Point(転機)がある
人によってはいくつもある
Turning Pointは、突発的に現れるものではない
起こるべきタイミングで現れる
「あのときのあの出来事」
「あの境遇であの人と出会った」
だから進む方向が変わった
人生観に大きな影響を与えた
Turning Pointは、今生の課題に取り組むために予め配置されている
気が付かないと、それを避けると、
別の出来事を装ってまた転機のチャンスが訪れる
大きな驚き、喜び、感動であったり、
また、絶望感、喪失感、困惑を伴うことがある
転機を受け止めたとき、
初めて今生の課題に沿って人生が進み始める
”行き止まり”だと思っていた「道」が拓ける
課題を受け入れない人生は苦行
課題を受け入れると天の応援で、物事が好転していく
勇気を出してTurning Pointと向き合ってみればわかる
何故、自分はここにいるのかが
半世紀生きてきて自分に大きな影響を与える気づきがいくつかあった。
そのひとつ、
Pre-Birth Planning
この世に生を受けてしばらく生きると、
上手くいくことより、いかないことのほうが多い
楽なことより、大変なことのほうが多い
だから考える、だから悩む、
考えたり、悩んだり、するから何かにたどり着く
だから昨日より今日のほうが少し賢くなる、少し強くなる
もし、魂がこの世に来るときに、
課題を持って、それに沿った環境や周囲の人間関係や大きな出来事をプランしてきたとしたら。。。
上手くいかないなぁ
大変だなぁ
という状況をあらかじめ計画してきたとしたら。。。
それから逃げていたら、この世に来た課題へ取り組めない
自分で合意してこの状況があるのなら、
ぐちゃぐちゃ言わずに正面から向き合ってみよう
できても、できなくても、それしかないんだよね
この世に来た魂は、それぞれ異なる課題をこなすための環境や人間関係や出来事がある。
みんな違う。
だから比較することに意味はない。
あの人はあの人の課題
私は私の課題
それぞれ自分で決めてきた道
信じるか、信じないか?という無意味な論争をする時間とエネルギーを
「今」にどう取り組むか、この人生をどう生きるか、へ使ってごらん。
課題へ向き合った途端に、
意識が変わってくる
人生の風景が変わってくる
道が拓けてくる
それが本来の人生
今からでも遅くない
私は、これまでこの二つの違いをよくわかっていなかった。
「得」は、意図的、能動的に手に入れるという意味合いがある。
己を利する物質、地位名誉への欲求が根底にある。
英語では、”Get” に当たるのであろう。
「徳」は、与えることで戻ってくるという意味合い。
他を利することで戻ってくる恩恵、それは人格に備わっていく。
英語では、”Earn” に相当するのであろう。
「トク」と聞くと、ほとんどの人たちは「得」を連想する。
私もそうだった。
我々には、”得をしたい、損はしたくない”、という自己保存の意識が定着している。
だから、物事の判断も「What's in it for me?(自分にどう利益があるか?)」となる。
私は、”目先の得が、中長期で大きな損” になるケースを体験そして見聞してきた。
損得は表裏一体でセットになっている。得には損が必ずついてくる。
意識を「得」から「徳」の次元へ上げていくことで「損」が切り離され、人生が豊になるのだろう。
昔から ”徳を積む” という言葉があります。
桶の水は、かき集めるのではなく押し出すことで回って自分へ戻ってくる。
得は ”I” で、徳は ”We” ということなんですね。
”Get” したものはいつか失うが、”Earn” したものは失わない。
徳を積むと、自分も周囲の人たちも、みんなでハッピーになる。
それは、失なうことのない真の豊かさ。
「徳」の意識へ少しずつ近づこうと思う。
「トイレ掃除」と聞いて何を連想しますか?
> 誰もしたくないこと
> 汚い作業
> 子供のときに罰でやらされた
”成功者はトイレ掃除をする”
という話を10年ほど前に聞いたことがある。
それから、トイレを使うたびに便器を拭くようになった。
自分の家だけでなく、レストランや公衆トイレでも、トイレットペーパーで便器を拭く習慣ができた。
それで気付いたこと:
トイレは思ったより汚れている
トイレが綺麗な家やレストランは「気」が良い
トイレは独りになる空間で、感覚が繊細になる
トイレを掃除すると頭の中がクリアーになりネガティブな意識が消える
トイレをいつも綺麗に保つと心が落ち着く
あの有名人のビートたけしさんが、若いころ師匠に「トイレを綺麗に掃除しろ」と言われたそうです。
それからロケ先や公園など、行く先々でトイレを掃除するようになったとのこと。
「オレが成功したのはトイレ掃除のお陰かも知れない」と本人も言っています。
「トイレを掃除するとき、”ありがとう”と口に出して言うと運気が上がる」
という話を最近聞いた。
単純な私は、その日から実行した。
すると、心がとても謙虚になり本当にありがたいと感じるようになった。
人生を数十年過ごしてみると、
何度も転んだり、躓いたり、失言や失態を後悔し、人との関係で嫌な思いも経験し。。。
だんだんと無駄なこと、要らないものが見えてくるもの。
人生半ばにして、自分の断捨離を考えている。
断:入って来る要らないものを断つ
捨:持っている要らないものを捨てる
離:物や固定観念への執着から離れる
浅はかな損得勘定、嘘、怒り、嫉み、悔やみ、差別、驕り、
価値観の合わない人間関係、先の無い我慢、他に合わせる生き方、
断ち、捨て、切り離すものが沢山ある。
身軽にして、主人公らしく自分の半生を過ごそうと思う。
以前、「人それぞれ」というテーマでブログを書いたことがある。
「宿命」について学んだことで、関連性がわかった。
私がこの人生で最も大きなインパクトがあった気付きのひとつが、「人それぞれ」というコンセプトである。
それまでは、自分の価値観に他を当てはめて”正しい、間違っている”と勝手なレッテルを貼っていた。
また、他からの評価を気にしていた。
「人それぞれ」とは、
”人それぞれ宿命が異なる”ということ。
人それぞれ今生の目的が異なり、それに沿った環境や背景が設定されている。
従って、異なるのは必然。
他の人を見下したり、差別したり、
人を妬んだり、自分を卑下したり、
まったくノンセンスなのだ、と納得。
人と比べることを辞め、自分の宿命に正面から取り組む。
それぞれ課題があってその境遇にいるわけで、他人への干渉はあまりしなくて良い。
冷たいように聞こえるが、中途半端な干渉(宿命の邪魔)は大きな迷惑になる。
とことん最後まで付き合う覚悟が無い限り、干渉しない方がいい。
人それぞれ
だから、自分磨きにフォーカスする
それが、周囲への最善へつながる
どんなに良い人でも、嫌う人は必ずいる
人気者ほど、成功している人ほど、嫌う人も多い
あなたが、みんなのことを思いどれだけ一生懸命に努力をしても、あなたを嫌う人はいる
人からの誹謗中傷へは反応せず、放っておけばいい
嫌う人に好きになってもらおうとすると自分を見失う
全員が自分に賛同するのなら自分の存在意義はない
好かれようとするから嫌われることが気になる
好かれようという意識を捨てればいい
自分で考えて自分で決める人生では
嫌われることが気にならない
それは強さ
自分磨きをつづける
You don't like me?
Well, that's fine with me.
似ているようで異なるこの2つを理解すると、人生が大いに豊かになる。
宿命(宿る命)とは、
家族構成、人種や地域や環境、時代背景、性別、性質、体質、また、出来事や人との出会いなど。
因果応報を解消するために生まれる前から定まっている使命であり、自分で変えることができないもの。
物心豊かな環境に生まれて来る人がいれば、争い、貧困、差別などの厳しい環境に生まれる人もいる。
健康で体格に恵まれスポーツ万能の人もいれば、病弱だが芸術のセンスに長けている人もいる。
どちらが良くてどちらが良くないというものではない。
それを選択してきた人生。
そして、それを生き抜く意味がある。
運命(運ぶ命)とは、
宿命の基盤の上での巡り合わせ。
環境や状況、出来事や人との出会いをどう受け止め、どう行動するか?で、運び方も行先も変わる。
つまり運命は自分の自由意志で変えることができる。
宿命はこの人生の目的に沿っている状態である。
宿命を拒絶すると人生は拓かず、今生の目的から外れた辛い生き方になる。
自分の生まれ持った変えられない要素は何か?
それに対して無駄な抵抗をしていないか?
それを生き抜く意味があるとしたら、どう考えどう行動するか?
みんなそれぞれ異なる宿命を持って生まれてきている。
それを受け入れると、運命が味方に付く。
自分と周囲が幸せになる本来の道が拓かれる。
新婚、そして新婚旅行をイメージしますよね
辞書には、新婚から派生して「新しい関係や状況を見守る期間」という意味もあると書いてある
今まで、
新しい地域へ引越したとき
新しい人と出会ったとき
新しい仕事を始めたとき
すべてがリセットされ、新しいスタートのような気になる
期待と希望で気持ちが高揚し、ワクワク、ドキドキ
しかし、ものの数か月でその高揚したワクワク、ドキドキは薄れ去る
そして、現実が表に出てくる
「思っていたのとちょっと違う」「予想していたより難しそうだ」
誰でも経験していることですよね?
物事がうまく行かないとすぐに環境を変えようとする人がいる
自分を見失っている人は環境に左右される
自分を確立している人は環境が同調して変わっていく
ハネムーン期間は、最も冷静になるとき
ワクワク、ドキドキは後から付いてくる
イライラしたり、不安になったり、焦ったり、損得勘定に走ったり、嫉妬したり、、、
様々なネガティブな感情なったとき、ちょっと立ち止まって、
「何が怖いのか?」
と自問するようにしている。
現代社会で多くの人たちが「恐怖」を根底に生きている。
肉体を持つ私たちは、いつか訪れる「死=すべては有限」という考えが潜在意識の中にあるそうだ。
有限という前提では、
> 今ある健康や人間関係や物質や地位名誉を失ったらどうしよう(喪失の恐れ)
> より良い健康や人間関係や物質や地位名誉を得られなかったらどうしよう(欲望を満たせない恐れ)
これらがこの物質社会で生きていく自我の基盤となる。
限られたものを確保し、それをもっと増すことで恐怖から逃れられると考えるわけである。
死の捉え方が変わると恐怖の意識が変わる
物事は無限であることを理解すると怖さは鎮まる
イライラするとき、不安になるとき、焦るとき、その場の損得を気にするとき、人を嫉むとき、、、
立ち止まって自問する、
「何が怖いのか?」
ほとんどの”怖い”は、自分の思考が作り出した妄想。
傲慢、強欲、差別、
恐怖という妄想に支配されている人たち。
内に平安を保ち、
妄想から解放された自分の生き方を選択しようと思う。
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