事実を知るのは易しい。
事実に基づいていかに行うか、それが難しい。
韓非子
もの言う牧師のエッセー 再投稿
第218話「米国人自治会長、スマイルで街づくり」
「サムさん」の愛称で親しまれる米イリノイ州生まれのサミュエル・エドワード・テケンブロックさんは、日本語を学ぶため昭和61年に28歳で来日した後、関西外国語大の英語講師などを経て、現在は建築コンサルタント。日本人女性と結婚し、平成18年から大阪府枚方市香陽台に住んでいる。21年2月、次年度の自治会役員をくじで決める会合で「会長」を当てた。「外国人の自分で良いのか」と初めは不安だったが、住民たちが協力を約束。「地域への貢献は住民の責任の一つだ」と思い直し、引き受けたという。
当時あまり活動していなかった自治会を、地域の触れ合いの場にしようと奮闘。雑草が伸び放題の公園に、みんなで花壇やベンチを設置。年に1度は水族館などへのバス旅行を企画。イベントでは手作りクッキーを振る舞うこともあり、敬老の日には 遠出が難しいお年寄りのためにプロの落語家を呼んで落語会も開く。
「明るく笑顔たっぷりの地域にしたい」と理想を掲げ自治会長に就いて7年近く。今では自身が提唱した合言葉「スマイル」が地域に浸透し、道で出会うと住民同士が笑顔であいさつするのが習慣になった。花壇作りなど自治会の行事も多くの人が積極的に参加する。「ハッピーだから笑うんじゃない。笑うからハッピーになるんだよ」と言い切るサムさん。 聖書は言う。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。
喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、
全ての人に知らせなさい。主は近いのです。」
ピリピ人への手紙4章4-5節、
実は神を信じる者にはある決定的な強さがある。それは、神に愛されているという確信から来る祝福と喜びだ。だから辛い時も感謝を忘れず、笑顔で歩む。また、そうすることを人に勧めることをいとわない。それが、イエスが自治会長している人生でありコミュニティなのだ。
2016-2-1
近所にカウボーイブーツ屋がオープンしました。
テンション上がるわ~。
ビールの無料サービス、カントリー歌手など盛りだくさん。
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第217話「 アホとアホのスパーク 」
未熟な両親による幼児虐待は珍しくはないが、近年、若い両親による“虐待と思っていない虐待行為”が増えてきた。昨年暮れ、幼児にたばこを吸わせた疑いで24歳の無職の父親と、その交際相手の16歳の少女が逮捕されたことがあったが、常軌を逸しているのは、この二人が、幼児にたばこを吸わせる動画をSNS上に「3歳で喫煙ですかヤンキーだらあ」というコメント付きでアップしていたこと。虐待という意識は全くなく、微笑ましいページとして紹介しているのだ。結果、この動画が拡散され、逮捕となったところに、あらためて無知は罪と感じる。
さらにその後、23歳の父親と17歳の母親が、「ふたりでスマホゲームをしたかった」という理由で、自らの生後16日の長女をゴミ箱に押し込み、さらに上からもうひとつのゴミ箱をかぶせて窒息死させてしまったり、交際している女性の生後3か月の長男に、覚せい剤を投与して殺害する男まであらわれた。男が卑劣なのはもちろんだが、女性も覚せい剤を使用していたというから話にならない。
こういった相次ぐ親になりきれない親たちの行動に対し、ダウンタウンの松本人志が “ワイドナショー”(フジテレビ)で 「アホAとアホBが出会った時、アホがスパークしますよね。アホが1人でいる分には、まだ勝手にやっていたらいいんですけど」とコメント、その的を得た発言に思わず膝を打ったが、と同時に聖書の
「愚かな者の笑いは、なべの下のいばらがはじける音に似ている。
これもまた、むなしい。」 伝道者の書7章6節、
を思い出した。世間では「人に迷惑をかけなければ」などという声をよく聞く。自分ひとりでボチボチやっていればそれで構わない思っている人も少なくない。だが、それは甘いと言わざるを得ない。なぜなら“アホ”である罪は絶対にじっとしていることがないからである。それはそこここではじけようと待ち構えている。
何と言っても人間の最大の罪は、創造者である神を何とも思っていないことだが、そのせいで大抵の人間は罪を罪と自覚することさえおぼつかなり、結果 “ばれなきゃいい”といった空気が横溢しているのではなかろうか。だからこそキリストの十字架は、斯様な罪への無自覚に終止符を打ち、悪のスパークに代えて善をスパークさせる唯一の光として輝くのである。 2016-1-31
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。
わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、
あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
イザヤ書41章10節
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第215話「 トルドー新内閣 」
カナダでジャティン・トルドー首相率いる新内閣が発足、ひな壇でポーズをとる新閣僚の集合写真を見て驚いた。何と閣僚30人の半分を占める15人の女性大臣。さらには先住民や移民、車椅子の人、ターバン姿のシーク教徒の男性たち。
民主機構大臣は、閣僚中最年少でアフガニスタン生まれの30歳女性マリアム・モンセフさん。父親は彼女が幼少の頃、イラン国境の戦闘で命を落としたとみられ、母親と妹たちと一緒にイラン、アフガンを転々とし、難民として11歳の時にカナダに到着。「民主主義の国で暮らせるというのは恵みなのです」と語る彼女の言葉には重みがある。インフラ・地域社会大臣のアマルジート・ソーヒさんはインド出身。20代の頃、“シーク教徒だから“というだけでテロリストに間違われ、裁判もなしに2年間刑務所に入れられ拷問を受けたこともあるという。
さて、外務担当の「外交・貿易・国際開発省」は「グローバル連携省」に改名。内外の区別より 世界の一員であることをアピール。さっそくシリア難民2万5000人の受け入れを表明、トルドー首相自ら空港で難民を出迎えるおまけまでついた。内閣ポストは他にも、スポーツ・障害者大臣、女性の地位大臣、家庭・子供・社会開発大臣、移民・難民・市民権大臣、先住民・北方大臣と多彩だ。
聖書にはある際立った特色がある。それは、多くの女性が活躍したことだ。特に新約聖書ではそれが顕著で、キリスト自身も大勢の女性を弟子としたことがルカ福音書8章などで散見できるが、これは男性中心の古代へブルの時代には考えられないことであった。さらには
「ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。」
ローマ人への手紙16章1節、
とあるように、「どうやったら救われるのか?」という福音の根幹を説明した聖書中で最も重要な同書において、この書簡をギリシャ南部のコリントからローマへを届けた人物が女性であることが記されている。現代の郵便制度の如きものはなく、夜盗や追いはぎの類が跋扈していた時代にである。しかも彼女は人類史上で教会に最も勢いのあった“初代教会時代”に役員をしていた。
まだある。
実は同書16章には、彼女を筆頭に、執筆者であるパウロがお世話になった人々が総登場する。様々な人種、階級、年齢、背景を持つ人々である。そこに共通するのはいずれもパウロと共に仕事をし、苦労した人々であった。教会とは、決して“キリスト教”を信じる者だけのものではない。
それは、我らの罪のために十字架にかかったキリストによる救いを恵みと信じ、彼に従い、苦労しつつも前進を続けて行く者たちの場所である。キリスト自ら陣頭に立ち、どんな背景の人であっても無差別に出迎え、活躍の場を下さる。 2016-1-15
LA グランドナショナル・ロードスターショー2023 続き
カミさんと久しぶりにタスティンの朝市へ行きました 。
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第214話 「 レディ・ガガの告白 」
レディー・ガガが、米ラジオ番組で19歳の時にレイプされたことを告白してから約一年、「自分のすべての痛みが美しくあることに、責任を持っていきたい」とコメントしていた彼女の歩みはさらに力強く見える。約一ヶ月前、大学のキャンパス内でのレイプ被害を扱ったドキュメンタリー映画、「The Hunting Ground」のプロモーションのために、ニューヨーク市内で開かれたパネルディスカッションに出演した彼女は、自身のレイプ被害の体験について赤裸々に語った。
「7年間は、誰にも話さなかった。どう考えていいのか、どう受け止めればいいのかわからなかった。あの出来事が私の人生、私という人間を完全に変えてしまった」。いっぽうで、「その男は自分のしたことがレイプだったとは思っていませんでした」とも。
さらに、「 それ以来、私の体も変わってしまった。このようなことを経験すると、多くの人はその後何年も、レイプされたトラウマを再体験し続ける。これは、身体的な苦痛パターンを引き起こす引き金になる。だから多くの人が虐待やレイプによる精神的な痛みだけでなく、身体的な痛みにも苦しむことになる」と、レイプ体験は彼女の精神面だけではなく、身体面にも大きな影響をもたらした。同時に彼女は、 着ていた服や態度が挑発的だったことや、“お嬢様学校”に通っていたゆえ男性に関して無知だったことなど、「自分のせいでこうなった」と自身を責め続けたとも言う。
しかし、最後にガガは、レイプや虐待など、同じような状況を経験している人々に向かって、「皆さんの痛みを心の中にしまいこんで、カウンターの上にある古いリンゴのように腐らせないで欲しい。分かるよね? 皆でそんなゴミはさっさと捨てちゃいましょう」。 聖書には、
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」
ローマ人への手紙6章4節、
とある。これは、罪なきキリストが我らの罪を背負い、後に復活したことにより、罪人でありながら、“十字架にかからなかった“我々も十字架にかかったことになり、一切の罪が葬られ捨てられたことを表す。人に傷付けられた人や、人を傷つけた人、そのことで心に病を抱える多くの人々。しかし、恐れることはない。彼の復活を信じる者は、新しく、強く歩み始める。 2016-1-5
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