フィリピンのルソン島で戦死した石原力三さん。この写真が遺影となった=撮影地不明
米国から返還された日章旗を手にする石原勝彦さん(左)と神座さん。164人分の寄せ書きがある=郡上市白鳥町で
大平洋戦争末期の1945年にフィリピン・ルソン島で戦死した陸軍兵長石原力三さん(23)=郡上市白鳥町那留(なる)出身=の日章旗が、戦利品として持ち帰った米軍の元兵士の遺族から返還された。力三さんは未婚のまま出征し、きょうだいもみんな亡くなっている。78年ぶりの里帰りを果たした遺品は、13日に開く市戦没者追悼式で初めて公開される。
日章旗を受け取った元郵便局員石原勝彦さん(65)によると、力三さんは農家の6人きょうだいの長男として生まれた。戦時中は歩兵第63連隊に所属し、終戦間際の8月4日に戦死した。家を継いだ弟の忠治さんが勝彦さんの父で、6年前に90歳で亡くなるまで力三さんの供養を続けていたという。
連隊は旧満州(中国東北部)から台湾を経てフィリピンに向かい、全滅状態に陥った。激戦地で死んだ力三さんは一片の遺骨さえなく、重機関銃のそばで撮影された軍服姿の写真1枚だけが残されていた。
日章旗には「祝入営石原力三君」と書かれ、「祈武運長久」の文字の下に164人分の署名がある。日付は入っていないが、近所の人たちが協力して用意したらしい。旗には茶色に変色した染みがあり、血痕のようにも見える。勝彦さんは「平和な時代に育ったから、戦地に行くのが当然だった当時の生活は想像できない。まさか今になって伯父の遺品が戻ってくるとは思わなかった」と話す。
郡上市遺族会の神座(みざ)孝郎会長(80)によると、日章旗は米バージニア州の米軍兵士の遺族から、日本軍兵士の遺品を返還する活動をしている「OBON(おぼん)ソサエティ」=オレゴン州=に託された。日本遺族会は石原力三さんの名前を手がかりに、郡上市の出身者と判断。市遺族会白鳥支部長の原喜与美さん(76)が調査を進め、静かな山間部にある力三さんの生家を突き止めた。
自身も父を戦争で失っている神座さんは「日本からフィリピン、米国と長い旅をした日章旗が奇跡的に帰ってきた。力三さんもやっと、古里の郡上に戻ることができたのではないか」と話す。伯父が残した日章旗を手にした勝彦さんは、寺で供養してもらった上で、戦争の悲惨さを伝えるために市戦没者追悼式での展示に協力することを決めた。追悼式は13日午前10時半から、大和町のやまと総合センターで開かれる。
https://www.chunichi.co.jp/article/786639?rct=gifu
太平洋戦争中にフィリピン・レイテ島で戦死した滋賀県東近江市の門阪庄平さん(享年22歳)が出征時に持っていたとみられる日章旗が米国で見つかり、終戦から78年ぶりに遺族に返還された。戦地の無事を祈って寄せ書きされた友人らの名前が記されており、遺族は「これまで兄の遺品がなかった。まるで分身のよう」と話している。
庄平さんは21歳で出征し、地元の神社で送り出される際に、肩に日章旗をかけて「弾に死んでも、病に決して死なん」と決意を述べたという。弟の 杢平もくべい さん(92)は「父にしかられた私を慰めてくれる優しい兄だった」と振り返る。
返還された日章旗には「祈 武運長久 門阪庄平君」と大きく書かれ、何十名もの友人の名前が寄せ書きされていた。米兵が戦地から持ち帰ったものとみられ、米国で戦没者の遺品返還活動に取り組む民間団体から依頼を受けた県遺族会が、杢平さんを探し出して届けた。
8月26日に大津市内で開かれた返還式には杢平さんと杢平さんの長女富美子さん(70)が出席。三日月大造知事から旗を受け取った杢平さんは「父と母が待つ仏壇に供え、 冥福めいふく を祈ってやりたい」と旗を握りしめ、「戦争が二度と起こらぬよう語り継ぐことが遺族の使命だ」と話した。
太平洋戦争では、県内でも3万2715人が尊い命を落とした。返還式に先立ち、県が主催した「平和祈念県戦没者追悼式」では戦没者の冥福を祈って、参加者約620人が黙とうした。沖縄に物資を運ぶ輸送船で父が戦死したという今堀治夫・県遺族会会長(82)は「かなしみの歴史を繰り返さない、繰り返させないと思いを新たにした」とあいさつした。
https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20230909-OYO1T50006/?fbclid=IwAR0Q-QSDNARryn7Sw4wIrhd-O7mvghTwHtuP-a-qsfZT2RPUOaTTqn2ToPo
8月26日、滋賀県大津市にて執り行われました戦没者追悼式の後、東近江市出身の旧日本兵「門阪庄平」命の日章旗返還式がご遺族へ返還されました。
滋賀県の戦没者追悼式が26日、大津市にある県立体育館で開かれました。追悼式には、遺族ら関係者約620人が出席しました。
滋賀県の戦没者は、3万2715人。追悼式では、県遺族会の今堀治夫会長が「悲惨な悲しみの歴史を二度と繰り返さない、繰り返させない。戦争の愚かさと平和の尊さをかみしめて、次世代に語り継ぐ」と追悼の辞を述べました。このあと献花が行われ、出席した三日月知事や遺族らが、恒久平和を願っていました。
また追悼式の後、戦争遺留品の返還式が行われました。返還された日章旗は、1944年10月にフィリピンのレイテ島で、20代の若さで戦死した東近江市の門阪庄平さんのもので、三日月知事から弟の杢平さんに日章旗が手渡されました。
旗には「武運長久」の文字や庄平さんの友人の名前がびっしりと記され、陸軍へ入隊するために家を出発する際、庄平さんが肩にタスキがけにしていたものだということです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9c19061b179063456af697cfb07cb09577ba1289
Sending the Yosegaki Hinomaru back home to where they belong.
Please click the link below to read about OBON SOCIETY's invitation to speak at the Sasakawa Peace Foundation USA's event.
https://mailchi.mp/f64484830ee4/8q6sybk9gw
--The Good Luck Flag Repatriation Ceremony will take place aboard the USS Lexington Museum on Thursday, July 20th, at 9:00am. This ceremony is open to the public.---
WHAT:
Japanese Good Luck Flag Repatriation Ceremony
WHERE:
USS Lexington Museum – Hangar Bay
WHEN:
Thursday, July 20, 2023
9:00AM
USS Lexington Museum is working in partnership with the OBON SOCIETY to repatriate the flag back to Japan for the flag to be reunited with the soldier’s surviving family members. OBON SOCIETY is a non-profit organization that over the past 13 years has repatriated more than 500 flags back to Japanese families and communities. The organization’s founders, Rex and Keiko Ziak, will act as representatives of the family to bring their long-lost patriarch home, including a ceremonial reuniting with his wife who recently passed at the age of 102. Representatives from OBON SOCIETY and the USS Lexington Museum will then accompany the flag on its journey back to Japan and the family.
https://usslexington.com/uss-lexington-museum-a-wwii-era-aircraft-carrier-will-return-japanese-flag-to-reunite-generations/?fbclid=IwAR3rxmlaH4u4PFzwm_VuUwnt8AD1HOGcoGGjj1wsOuLrl_L0v7o9R7k8Clo
きょうは、「終戦の日」です。戦後78年、激しい戦場となった沖縄戦で亡くなった男性の日章旗が先日、北海道の遺族に届けられました。その家族の思いを取材しました。(2023年8月15日放送) #日章旗 #戦後78年 #沖縄戦 #遺族 #戦死 #沖縄 #平和祈念公園 #遺品 #北海道 #STV
8月15日は終戦の日です。 戦後、アメリカに渡った旧日本兵の日の丸を遺族の元に返す取り組みを続ける男性に密着しました。
https://www.youtube.com/watch?v=v2-ia8FiC9k&t=4s
8月15日は終戦の日。 太平洋戦争が終わって78年を迎えます。 激しい地上戦となった沖縄では、多くの北海道出身の兵士も命を落としました。 その中のひとりの兵士が身につけていた「お守り」が道内にいる家族のもとへかえりました。
*** 「必勝」「突破」。 寄せ書きされた数々の激励の言葉。 一緒に働く仲間から、戦地に向かう兵士の幸運を祈って贈られた「日の丸の旗」です。 いつ、ついたのでしょう。 血の痕のようなものも…。
■鈴木久子さん: 「よくね、長い年月、耐えたと思いますね…」
■シュバートさん: 「どうしてもその旗を日本の家族へ返す必要があったんです」沖縄、アメリカ、そして北海道へ。 地獄と呼ばれた戦場で命を落とした兵士の「日の丸」がおよそ80年という歳月をかけて家族のもとへかえってきました。
▼沖縄戦太平洋戦争末期、一般住民をも巻き込んだ沖縄戦。 空襲や、海からの艦砲射撃に加え、陸では銃や火炎放射器など激しい攻撃により、沖縄は地形が変わるほどの被害を受けました。 おびただしい数の砲弾が撃ち込まれる様子は、「鉄の暴風」として語り継がれています。 3か月に及ぶ激しい戦闘でおよそ20万人が犠牲に。 沖縄県民に次いで死者の数が多いのが北海道出身者です。 その数、1万805人。 主に満州から沖縄に向かった部隊の兵士です。
■鈴木久子さん: 「これなら1本入ったら華やかだね」 …札幌市に住む鈴木久子さん、87歳。 9歳のときに、父親が沖縄で戦死しました。 6月はじめのある日、沖縄戦で戦没した北海道出身者の慰霊碑がある札幌護国神社を訪れ、花を手向けました。
■鈴木久子さん:「ここだね。母さん、父さんのとこだよ」 久子さんの父・米代由雄さんは、沖縄・糸満市で車両を運転中、戦闘機の機銃掃射を受けて即死。 35歳でした。 助手席に同乗していた仲間が終戦後、最期の状況を久子さんの母に伝えたといいます。
■鈴木久子さん:「きょう祥月命日ね。沖縄は、まだ梅雨のまっさかりです。」 「尺八を吹いていたのを覚えてますけどね/のど自慢の男の人たちが集まってきて、父の尺八で江差追分とか、ああゆうのを歌っている姿を。」 小さいころのときに、目にも耳にも残ってますけれど」由雄さんが沖縄で戦死してから78年。 札幌で暮らす長女・久子さんのもとへ、父が戦地に持って行った「日の丸の旗」が見つかったと、連絡が入りました。 当時、ほとんどの兵士たちが肌身離さず持っていたという日の丸の旗。 親しい人から直筆の寄せ書きがされていて日本兵にとっての「お守り」でした。 しかし、アメリカ兵にとって敵軍の旗は一番の「戦利品」とされ、 当時、たくさんの日の丸が戦場から持ち去られました。 由雄さんの日の丸をアメリカに持ち帰ったのは、当時、陸軍に所属していたジョン・コルベルさんでした。
■米国在郷軍人会ジェイムス・V・シュバート: 「彼は5枚の日本の旗を持っていました。1975年に彼が亡くなるまで旗はクローゼットの引き出しに保管されていました。」 その後、息子のジョンさんがこの旗を引き継ぎますが、2017年に亡くなり妻のキャロルさんが、在郷軍人会に旗を寄贈しました。
■シュバートさん「旗を手にしたとき、これはアメリカにとっての記念品ではないと思いました。 圧倒されるような感覚やスピリチャルな存在を感じ、私たちが持つべきものではない日本の家族が持つべきものだと思いました。」 そこで、こうした旗を日本の遺族へ返す活動をしているアメリカのNPOに、持ち主の家族を探すよう依頼。 由雄さんは七飯町の出身にも関わらず、旗には当時の勤務地だった「平取」とあったことから捜索は困難を極めました。 しかし、米代という珍しい苗字を手掛かりに、およそ2年半をかけて娘の鈴木久子さんにたどり着きました。 こうした旗が、長い月日を経て、いま少しずつ日本へ。 北海道でも現在14枚が家族のもとへかえっています。
■OBONソサエティ工藤公督さん: 「米国サイドで、日本兵がそのように(お守りと)して持っていた旗と知ったときにそんな意味があるものだったということに気づかないで長年持っていたということに対して、ものすごく引け目ではないですけれど。 そういうことであれば一刻も早く日本のご遺族に返還してあげたいと」
■鈴木久子さん: 「やっぱりドキドキするわね。 こんなに大仕掛けになるとは思わなかったものだからね」沖縄戦が終結した6月23日。 札幌護国神社でも、毎年、沖縄戦犠牲者の慰霊祭が開かれています。 今年は、父・由雄さんの旗を受け取る久子さんのため、慰霊祭の合間に返還式を執り行うことになりました。
■元北海道沖縄会会長黒田練介さん: 「日の丸の返還は、戦没霊の魂が家族に暗に帰ってきたことになり、大変意義深いことです。」
■鈴木久子さん: 「よく、長い年月耐えたと思いますね。きっと今残っているたった一人の娘に戻ったっていうことは喜んでくれているんでないかなとは思います。 」妻や幼い子どもを故郷に残し、戦地に赴いていった日本兵たち。 彼らがお守りとして身につけていた寄せ書きの日の丸は、未だアメリカに2500枚以上あり、家族のもとへかえる日を待っています。
■鈴木久子さん: 「薄っぺらい布地だけど。78年の年月の重みですこの旗は
https://www.youtube.com/watch?v=xMzJC9Rs6ps&t=14s
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