「教養」という言葉の意味ですが、辞書では「文化に関する、広い知識を身につけることによって養われる、心の豊さとたしなみ」とあります。
ある本に「教養とは最も高価だけど、最も安く手に入る高級のブランド品」と書いてありました。面白い定義だと気に入りました。
知識・技術を身につけていても「他人に対する思いやりの心がなければ教養のある人は言わないのだと思いました。
そういう意味で、先回述べた「ちょっぴり思いやり運動」を皆が一日一つでも実践していけば、凄く良い結果が出てくるのではないでしょうか!
今、この世の中で一番欠けていることは「他人に対する思いやり」ではないかと思います。「今さえ、自分さえ良ければ良い」と言う考えでは世の中は良くなりません。
面白いことに、「他人に対する思いやり」も「今さえ、自分さえ良ければ良い」と言う発想もアメリカが発祥ということです。
良い方を真似ましょう!
ロサンゼルスの私の仲間が発起人になって「ちょっぴり思いやり運動」が、ささやかながら広がりを見せています。
ただ、物や金銭だけでなく、行為でも何でも他人が喜んでくれることをするだけのことです。形式的な会則とか会にすることなく、趣旨に賛同し、個人で行えばよいことなので結構、この運動は盛んになっていくだろうと思っています。
愛読している致知と言う雑誌の今年の1月号に私の運勢は社会的な活動をすることで良い年に導かれるとありました。
「ちょっぴり思いやり運動」は昨年の初めごろから友人の誘いで始めましたが、そのこともあり、今年は本格的に取り組もうと考えています。
以前から、アメリカ人は他人が喜ぶことを積極的に行っていると感心していました。「なぜ?」と尋ねたところ、「キリスト教の教会で教わるからだ」と言われました。
自分が他人に施したという優越感をもつのでなく、施すことが出来たことを神に感謝することが大切だと言われました。まさにそれが一番大切だと思いました。
久しぶりに帰国して、コンビニエントストアーに買い物に行った時のことです。
お金を払うとしたら、店員が対応しているのにも関わらず、機械で支払わなくてはなりませんでした。機械での支払い方を聞くと「書いてある通りやってください」と言われ、その傍観的な態度に呆れました。しかし、隣のレジでは、同じように困っている高齢者に店員が丁寧に教えているではありませんか・・・親切に教えてくれれば、それ以降はスムーズに出来るのにと思いました。 ちょっぴりでも思いやりが欲しいですね。
また、何か新しいことを申し込むときには米国同様、身分証明書が必要です。私は日本の運転免許証がないため、パスポートを提示したのですが、それでは不十分で、住民票も要求されました。しかし、パスポートを取るためには住民票が必要なのです。何でそんなに複雑にするのでしょうか?そのために2度手間を強いられるのです。こうした事が多々ありました。合理化という名目なのでしょうが、相手への思いやりがなく残念に思いました。これから益々、高齢者は生きづらい世の中になっていくことでしょう。
そう思うと、今必要なのは合理化ではなく、『他人に対する、ちょっぴり親切』の気持ちをお互いが持つことではないかと思います。
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