🌹殺人ドラマ撲滅殺人事件(1-5.東野圭吾)
6月
18日
この世に殺人事件があるのは、TVや映画の殺人ドラマが原因です。
だから、この世から殺人ドラマを撲滅しなければならないのです。
そもそも、赤ちゃんとして生まれた人間が、
人を刺したり、銃で撃ったり、海に沈めたり、
そんなことを遺伝子として知っているはずがありません。
人間はもともと、殺人なんて知らずに生まれてくるのです。
それがいつの間にか、殺人という行為があることを理解して、
実行して、あろうことか娯楽として日常のものにしています。
人間以外の動物も相手を殺します。
ですがそれは、捕食のため。
殺すことを目的とした行為ではありません。
人間は違います。
単に、命を奪うことを目的に、殺すのです。
これは殺人ドラマのせいなのです。
朝。家族の朝食。
TVを見ながら食事をしています。
ニュースの合間に、番組のコマーシャルが流れます。
人が人を刺し、銃で撃ち、頭を鈍器で殴り、崖の上から突き落とします。
TVはニュースに戻り番組は続きます。
朝食も続きます。
行ってきます、と子供は学校へ、お父さんは会社へ。
日常の中で殺人の一コマが普通の出来事になっています。
こんな世の中はおかしいんです。
映画の予告。
殺人の光景がものがたりのきっかけだったり、クライマックスだったりします。
そのようなシーンがあればあるほど盛り上がります。
紹介する出演者も、まるでユニークなイベントのように語ります。
「おもしろそうだね」とか、映画を見た後は「おもしろかったね」なんて、
殺人のシーンがある作品が娯楽の評価の対象になっているのです。
こんな世の中はおかしいんです。
侵略と殺人を行う国家があります。
その国や指導者を、人は非難します。
だけど、一方で、殺人ドラマは別です。
現実に苦しんで死んでいく人たちに同情し、
娯楽として殺人を受け入れているのです。
なぜ人は、こうなってしまったのでしょうか。
それは殺人ドラマが、娯楽として、日常的に、生活の中にあるからです。
だから、決めました。
殺人ドラマを撲滅します。
殺人ドラマは勝手にはできません。
そのために、殺人ドラマを作る人たちを消し去らなければなりません。
この世に彼らがいる限り、殺人ドラマは作られて、
人の思想の中に、殺人という行為が認知されてしまうのです。
決意と行動の始まりでした。
~2.湯来~
湯来温泉は1,000年の歴史を持つ。
自然にあふれ、かつては広島の奥座敷とも呼ばれた古い温泉街。
ぽつっと若い人たちがカフェを出したり、
水内川では川遊びの家族連れの声が響くが、その範囲は狭く、
市街地から続く国道を3分も吉和方面に進むと、過疎が進む何もない山里。
トンネルを過ぎてすぐの小さな喫茶店。
土手の上にクルマを止めて街を見下ろす、老夫婦というにはまだ少しは早い男と女。
「気持ちいいね」
クルマから降りて背伸びをする女。
中国山地に入る前のなだらかな山々と田畑。
遠くには広島市の街並み。市街地から40分もすればたどり着くので、海も近くに見える。
「呑気やね、釣りしよるよ」
田畑の間を流れる小さな川に橋の上から釣り糸を垂れる男と傍らに女。
タオルを首に巻いた老夫婦。
それ以外に人はいない。動くものがない。
鳥の声が途切れ目なく聞こえるだけの静かな村。
「もう少し行ってみろう」
クルマに乗り山里の中に向かう。
呑気な釣り人がいる橋に近づいたところ、
「あれ、人じゃなかった、かかしやった」
「あ、ほんと」
人と同じ大きさのかかしが2体。
一本足ではなく、両足がある人形。
「こっちにもおるよ」
ところどころに、かかし。
走るクルマの音と、鳥の声しか聞こえない。
~3.
9月の広島は夕日の頃でもまだ、陽が高く、明るい。暑い。
5時をまわって間もなく、庁舎を出る男。
すれ違う人と言葉を交わすこともなく、エレベータから駐車場へ。
白いミニワゴンを走らせる。まぶしい西日。サンシェードを下ろす。
裏道が多い広島だが、川が多く、橋を渡る交差点では、いつも決まった場所が混む。
男は1車線しかない国道2号線を選ぶ。
信号のないバイパスはノロノロ運転。それよりも進むし、
道行く歩く人の姿を近くに見ることができる。
30分も走れば、山手への県道に入る。クルマは減る。
薄暗くなった金曜の夕方でも、信号も少ない山道は、順調に進む。
湯来のトンネルを超え、山里の古い民家。
クルマから降り、2階に上がる。
リュックを置いて、コーヒーをドリップ。
シャツのボタンを外しながらディスプレイに目を向ける。
いつもの手順。
灯りをつけないままの薄暗い部屋で光るディスプレイ、湯来のあたりを示す。
黒い地形のシルエットに、複数の黄色の点が光る。
男は日本列島を表示。列島全体に点在する無数の黄色の点。
湯来のあたりを拡大。同じように、ぽつ、ぽつと黄色い点。
コーヒーを飲みながら、木製の木枠の窓を開け、暗くなった窓の外を見る。
釣り人のかかし。
ディスプレイに目を戻す。
~4.森村誠一
その死体が森村誠一だとわかるのに、2日を要した。
最近の殺人事件では時間がかかりすぎた。
福山市のホテルを出た、路地裏。
新しい小説を書くため、あるいは、単に休息のための訪問だったのか。
ミステリーという分野を広げ、継続的にTV番組でも名前を出す。
人間ドラマを柱にしながらも、殺人をモチーフにした作家。
殺人をイベントにしたてた代表的な人物といえるかもしれない。
今度は自らが殺人という、自らが傾倒したイベントの主役になった。
仰向けで、衣服の乱れもなく、血もついていない。
かぶされている手ぬぐいにかかれるのは、田んぼに立つ「かかし」。
通報を受けて到着した刑事。
「シルシがない?」
先に検証を行っていた警官に尋ねながら、自分でもセンサーを体にあてる。
頭頂部から足先まであてるが、反応がない。
ポケットをさぐる、身分証明書もない。「シルシ」が標準となった現代では身分証明書の所持者も減っている。
左わき腹に1センチほどの、えぐられた後。
203X年。
立て続けに起きる行方不明からの殺人事件。
自然災害による行方不明。
亡くなることよりも、行方が分からないまま時間が過ぎていく不安。
いち早く不明者を発見し、人物を特定できるよう、人間の体には、マイクロチップが埋め込まれることが義務化された。
埋め込みが日常となると、やがて本来の役割を逸脱し、商業的・公的機能が追加され、
やがて、クレジット決済、自動車免許、定期、建物の施錠、クルマのドアの開閉などの機能追加も認可。
身分証明書を携帯することは不要になった。
センサーをあてれば、その人物の情報がわかる。
その人物が今どこにいるのか、GPSでわかる。
身元不明の人物の特定もできる。
人権団体からの反対はあったが、健康面での弊害は確認できず、政府が決断した。
施行から5年間の猶予期間はあったが、若い世代、IT関係者、老人保健施設などから早く広がり、
次にマスコミ、タレント、そしてクリエイターなどトレンド産業従事者へとひろがった。
カラダのどこに埋めるのかは、本人の自由。
ハンディキャッパーへの配慮と、生活に支障がない部位、ということで自由だった。
マイクロチップの大きさは3ミリ程度。体の負担は全くない。外観からはわからない。
カラダのどこに埋めているかは、センサーを使わなければわからない。
刑事らは、このチップのことを「シルシ」と呼んでいた。
小説好きの検死官の考えで、レトロな技法で歯型から調査。
森村誠一であることが確定された。
GPSの画像を確認する刑事。
森村誠一のマイクロチップの反応は広島の山里にあった。
~5.東野圭吾
大学は部外者がなんら障害なく出入りできる。
税金や授業料などを使って調達した物品、機器などの財産が多いにもかかわらず、まったく自由だ。
東野圭吾の死体は大学にあった。
工学部の実験室。
気づいたのは学生だった。
高額な装置が並ぶ実験台の間の狭い通路に横たわっていた。
科学、トリック。知識をちりばめた殺人ドラマを描く。
まるで工学部卒であることをウリにしているかのような作風。
一度名前が売れ、トレンドになると、まるで、期待を上回らなければ、といった決意を持ったかのように、
あらたな知識としかけをくみ上げて、新しい殺人を犯す。それが人々にウケる。
その繰り返し。
人々が新しい殺人を期待しているような錯覚さえ感じていたのか。
ミステリー作家の筆頭である男の死は、殺人ドラマを心待ちにしている社会に一石を投じることになるのだろうか。
一度はずした、かかしの手ぬぐいをふたたび死体の顔にかける刑事。
左足に1センチほどのえぐられた痕。
「シルシ」の反応は広島の山里。