今までありがとう。いろいろ大切なものを教えていただきました。一番大変なときに励ましてもらったのも、本当に有難かった。
あの時の気持ちに偽りは無かった・・そう思っています。ずっとこのまま、楽しいまま行けるかと思ったけど、所詮は平行線、どんなに先に行っても交わる部分なんて無かったんですよね。
これからはスタンスを変えます。
良き仲間として、「先の光」を目指しましょう。そう、志の根は同じなのだから。
この1年半もの間、自分の知らない部分を見つけたようで、ホントに嬉しかった。そのことには、ホント感謝してるんですよ。
寂しいけど、今の気持ちにサヨウナラ。ん〜、これからは自分のために頑張らなくちゃね。連れ合いもいるのに、リアルで失恋しました。
と言っても片思いで終わり。
まぁ、そんな感情が自分の中にあったこと自体驚きの日々でしたが・・・。
切り替えます。
何だか、ここに書き込むのも久しぶり。いやはや怒涛の日々だった。2週間前は茨城へ一泊二日の祭り視察。
1週間前は岐阜での踊り合宿。
踊り関係の移動だけで、優に1060キロも走ってる・・・・うーん。この間、いろんな出会いがあり、再会があり、楽しかった。
怒涛のスケジュールではあったけど、それを上回るほどの収穫があったと言えるだろう。今までは視察や応援ばかりだったけど、今月からは自分の番。
いよいよ私も動き出す。私も、支えてくれる人のために頑張りたい。
頑張ることで、恩に報いたい。遠く離れていても、気持ちは繋がってると、信じてるから。
作家倉本聰氏が審査委員長を務める札幌YOSAKOIソーランのフォーラムでの言葉。「創」を意識する
「創作」という語はどちらの漢字も「つくる」と読むが、「作」はお金と知識でつくること、また「創」はお金がなくてもゼロからつくることを指す。
長年何かを続けると、始めは「創」だが、だんだん「作」へと変わってくる。
このとき、「創」へと意識を向かわせることがとても重要である。
祭りは人が感動を共有するために生まれた
現代は「個人」が重視される時代であるが、人間は唯一、他人と感動を共有できる生き物だと思われる。
そのために劇場ができ、映画館ができ、そして「祭り」が生まれた気がする。
祭りに人々が集まるのは、皆、感動の共有を求めているからではないだろうか。
人の心を打つには心が技術を越えることが大切 作品を創る上で、技術と心は両方必要である。練習をすれば技術は向上するが、逆に心が込められなくなる。
技術を上げ、それ以上に心をきれいにして充実させなければいけない。
心を磨くことは至極難しいが、常に心が技術を越えていれば人の心を打つことができる。
一つのものを更に深めレベルをあげること 新しいものを創ることも重要だが、一つのものをさらに深めることはもっと重要である。
一つの踊りの形態を変えていくことではなく、それを突き詰めていくこと、それがレベルアップしてきたYOSAKOIソーランチームの皆様が今やらなければいけないことだと思う。
昨年の踊りをより濃く深くしていくことが、今後のYOSAKOIソーラン祭りのグレードを上げるベストの道であると考えられる。
・・・含蓄があり、考えさせられる言葉である。
ちょっとやってみました。本名だと*****の72%は希望で出来ています
*****の20%は睡眠薬で出来ています
*****の5%はミスリルで出来ています
*****の2%は言葉で出来ています
*****の1%は理論で出来ています
木蓮だと木蓮の76%は不思議で出来ています
木蓮の16%は苦労で出来ています
木蓮の6%は気の迷いで出来ています
木蓮の2%はミスリルで出来ています
何か的を得てるようで笑ってしまった。こちらから行けますよ。そっかー、私は希望ばっかりなのね。
何か嬉しかったりして。
本音と建て前を使い分ける・・・・大人になったら、それは当然の振る舞いだ。本音を本音のまま出してしまう人は、バカ正直と言っても過言ではない。(私はどちらかと言えば、そのタイプ。だから年中問題が絶えない)建て前を使うのは何故か・・・。それはやっぱり、人間関係をうまく繋ぐためだろう。
本当はこう思っているのだけど、それをそのまま言うと相手から嫌われてしまう、または取り敢えず合わせないと話が先に進まない、相手にしてもらえない、そんなことから気を使わざるを得ないのだ。ただ、建て前だけの人は、要は八方美人なだけのような気がする。
自分の存在価値をアピールするため、自分の懐の広さを見せ付けるため、そんな言動に出るんだろう。実際、この建て前だけに乗ると痛い目にあうと思う。
本当の本音は違うのだから、上っ面だけ合わせても、人間関係にひびが入るのは間違いない。このときに入るひびは、壊れてもおかしくないほどのひびだ。
修復は困難だろう。それならば、先に本音を聞きだし、回避する方が余程相手と良好な関係を保てると思う。本当の自分はそれを望んでいないなら、NOと言っても、相手との関係は壊れるはず無いのだ。
もしそれで壊れるようなら、その相手と自分は縁が無かったものと見ていい。
自分の人生に必要な人間ではないのだ。本当に相手と長く付き合いたいのなら、その相手の本音を聞きだすことが一番だろう。
人間、誰しも本音の部分でしか心を開けない。
何故八方美人になるのか。
何故相手が迎合しようとするのか。
その裏を読み取るようにしないと、相手も傷つくし、自分も傷つく。
ただ、自分でも気づいていなくて建て前だけ言ってることもある。
話してて、少しでも引っかかること、まずいかな、嫌だな、と思うことはやはり本音が別にあるわけだから、そこは自省して考えないといけない点だ。この世で生きていくためには、良好な人間関係は必要不可欠。
思いやりを持って本音を出せるよう、常々考えていきたいものだ。
何故人はブランドが好きなんだろう。先日もTVで、夫に内緒でシャネルを買い漁ってる主婦が出ていた。本当に優れたものは、実用性を兼ね備え、尚且つ長持ちする。
それがブランド物だったりする訳だが、持ってる人を見ると、そんな風に思える人は少ない。要は、他の人がおいそれと持てない物を持つことで、優越感に浸りたいだけのような気がする。
または、みんなが持ってるから、自分も持たなくては恥ずかしい、という横並びの現象か。ダンス用品ならともかく、私はブランドというのに拘ったことは一度も無い。
あればやっぱり嬉しいだろうが、自分から買うことも無い。
まずはお金が無い、のが一番。
次に、まったくの実用本位だから、用を成せば何でもいい、ということ。ブランド物はうちにもあるが、自分から買ったものは一つも無く、中古品をもらったり、海外のお土産(かなりアヤシイけど)ばかりなのだ。いろいろ持ってる人は、お金があるんだなぁと素直に凄いと思う。
でもそれが欲しいかと聞かれれば「別に・・」と思う。宝石やブランド物のバッグ、財布、洋服などは、持ってるだけで気疲れしそうだ。
どんなに高い宝石やバッグを身につけていても、それに見合う格好でなければ、返って恥ずかしい。せっかくおしゃれに決めても、履いてる靴がヨレヨレではそこで全部台無しだ。自分に似合うかどうかは考えるにしても、私は基本的に「服はサイズが合えば良い」、「家は住めれば良い」、「車は乗れれば良い」の人である。なまじ外車なんか買った日には、維持費、税金でのた打ち回るだろう。
自分らしさを見つけるのは必要なことだが、「らしく」あるために振り回されるのは本末転倒だ。
ただ、私はバカにされるのが一番嫌いだから、ブランドを必要ないと思っても、そこに現れる持てる人の選民意識に過剰に反応してしまう。
どうせ言われるなら先に言ってしまえ、と卑屈になったり褒めちぎってみたり・・・・。
相手が一番喜ぶことを、必然的にやってしまうのだ。
しかし、どんなにお金をかけようと、人間何を着てるか、ではなくて、どう生きてるか、だよな。自分自身を精一杯生きてる人は、何を着てようと、何に乗ってようと、その存在自体がカッコ良い。無駄な選民意識は捨て去るべきだ。
その人たちに認められたからといって、人生に何の足しになる?!
桜は私が最も好きな花だ。目も鮮やかに一気に咲き、吹雪のように散っていく。天気は悪いが、桜は今が満開。
出先で満開の花を眺めては、慰められている。去年はとてもとても楽しみにしていて、桜が咲くのが待ち遠しかった。今年はいつの間にか満開になってしまったようだ。桜は毎年変わらずに見事に咲くけれど、見てる私は去年とは違う。今年、こんな気持ちで眺めるなんて思わなかった。でも綺麗な桜を眺めていると、生きてるだけでいいのかなーなんて考えてしまう自分もいる。
さくら・・・さくら・・・
今まであったことがこれからもあるとは限らない。
桜は必ず散ってしまうのだから。ずっと変わりなく一緒にいられると思っても、儚い夢に過ぎなかったりする。散る桜 残る桜も 散る桜誰が特別なんてわけじゃない。
みんな同じだ・・・。それでも来年また桜は咲く。
散ったとしても、また見ることが出来る。
自分がどんな状況でも、どんな気持ちでいても、桜はまた咲くのだ。今年は、散る桜に想いをこめて眺めてみよう。
今日、再び母から責められた。ここのとこ、しょっちゅう呼び出されて、文句の言葉を浴びせられてる。運転中にかかってきた電話は、容赦なく私の心をえぐり、悔しくて悔しくて涙が出そうだった。これほど血縁を疎ましく思ったことは無い。他の人から見れば、私の家の揉め事は「いつものこと」だ。私は、ずっと「いつものこと」という括りで何でも見られてきた。仲間内での揉め事も、いつものこと。
先生との言い争いもいつものこと。
母との確執もいつものこと。そう何でも「いつものこと」なのだ。
当事者にとっては、いつも同じようなことが起こっても、「いつものこと」では片付けられない複雑な気持ちがある。多分、聞かされるほうが嫌気がさし、「いつものことじゃん」と流したくなるのだろう。自分のことでなければ、誰かがイジメにあったとしても、いつものことでくくれるに違いない。いつものこと・・・
いつものこと・・・当事者は何も言えなくなり、追い詰められる。私は「いつものこと」という言葉が大嫌いだ。「いつものこと」という言葉がどれだけ冷淡に聞こえるか・・・。大げさにしたくない気持ちの表れかもしれないけど、使い方を間違えれば、これほど冷たい言葉もない。
もう何年も、私はずっとこの言葉を聞いてきた。
試しに、誰かが愚痴を言ったとき「いつものことじゃないか」と答えてみるといい。
その人はもう二度と口を開くことは無いだろう。
何とか浮上してきている自分がいる。少し耐性をつけようと、見なきゃいいものを散々見ている。今日も、どうしても気になって、また見てしまった。生ではもちろんダメ。
ビデオだから見られるのだ。最初に見たときは、気も狂わんばかりだった。今見ても、やっぱり悲しい。どうしてそうなってしまったのか・・・。
何故そこでやることになったのか・・・。自分が決して出来ないことを、見せ付けられるのは悲しい。そんなことを思う私は・・・・多分嫌われてるんだろう。それでも、何かのときはその人の力になりたいと思っている。
助けられてばかりだから、せめて私に出来ることは何でもしたい。
私の想いの先は、神様しか知らない。
でもそれでいいんだろう。泣いて、笑って、苦しんで、嫉妬して、喜んで・・・一生懸命毎日を送ることで悟ることもある。気持ちがどこかにランディングするまで、迷い続けることも必要なんだ。
最近読んだ本に、私にとってほとんど「天啓」とも思える内容が書いてあった。嫉妬、憎悪の感情からは、何ら魂の成長はありえない、と。私は嫉妬に狂う立場に無く、またその感情を持ってもいけないのだ。自分の中で、その関係を変化させなければいけないと思っている。
私の場合、「無条件の愛」でしかなかった。
そこに相手は存在せず、自惚れの自己愛しかない。何があったわけでもないし・・・。
何か進展があったわけでもない・・・。
最初から、何にも無かった・・・。もし気を揉む人がいたら安心して欲しい。
何にも無いんだから・・・。・・・にしても、私は一体何をしてるんだろう?と悩むことばかり・・・。ちゃんと道を正して、進んでいかなければ。
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