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岩魚太郎の何でも歳時記

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1970年(昭和45年)大阪万博見聞禄

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1970年(昭和45年)大阪万...
2025年大阪万博が決まった。来年和暦の元号が決まるが、55年前、 1970年(昭和45年)大阪万博の私の万博体験録を綴る。

1970年(昭和45年)大阪万博が開催された。
私は34歳のであった。会社が東京に有り、ライトバンの後部に二組の布団を積み、東京から万博に向かった。
布団を積んだ理由は、結婚していて、妻がいて、5歳になる子供がいて、生活は苦しく、万博に行く費用などは出せないと愛妻に言われた。

愛妻の言うことが正論である。しかしどうしても万博に行きたく、食費とガソリン代だけは出して貰い、会社の車を借用して、 宿泊は車を利用した。
そう言う訳で二組の布団である。
勿論高速道路などと言う便利な道もなく、国道1号線(東海道)を、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』で、友人と二人で、弥次喜多道中をライトバンの旅で万博に向かった。

1970年(昭和45年)の万博の鳴り物は、岡本太郎の『太陽の塔』と『アメリカ館の月の石』であるが、それも見ていない。見ない理由は、万博会場に一番に入場するには、夜中から並ばないと駄目で、両パビリオン(博覧会の展示用建物)に普通に並んで見物するには5時間程度かかった。
限られた広い会場で限られた日数である。空いてる人気がないパビリオンを回った。

質より量を選択した私は失敗であった。カメラも庶民には手が出ない代物で、写真を撮っている人は皆無。従ってパビリオンに置いてある無料のパンフレットしか記念に持ち帰るしかなかった。唯一記憶に残存するのは、パビリオンはドイツ館のレストラン。
昼食で、馬鹿でかいソーセージで生ビールを飲んだ。お勘定をしようと思ったらレジがなかった。

ウエーターを呼んだところ、そのウエーターお尻のポケットから分厚い皮財布を取り出し、テーブルの上に置かれた皿とグラスを見て、勘定を払ったこと! 日本では、考えられない光景であった。要は、現代風に言うと、宅配便での『代引き』の光景である。

唯一そのことが、私が体験した、1970年(昭和45年)大阪万博の記憶であった。
しかしビールとソーセージは旨かった。




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