ナゾだらけの長島堀 幕府の新田開発? 普請中止も不明のまま
5月
24日
徳川幕府成立後50数年を経た万治年間(1660年ごろ)、那須野ケ原にかなり規模の大きい用水路が開かれた。水の取入口は、那珂川上流の西岩崎。那須野ケ原の一部である大輪地原を南下し、下厚崎(黒磯市)方面に至るもので長島堀と呼ばれた。延長約12キロで、何本かの分水路をも含めると30キロと推定される見事な大水路だった。
幕府の新田開発事業の一環らしいが、この用水路によって、下厚崎に長島新田という村が生まれ、多くの田畑が開かれた。だが、惜しいことに、十数年後に廃堀となり、長島新田などは大きな打撃を受けた。現在は、ところどころに大きな堀形を残すのみで、史料が大変乏しく、ナゾの多い用水路である。
これまで「長島堀」の名を知る人は大変少なかった。その名は、明治10年代の那須疏水関係の嘆願書などにわずかに出ているのと、西岩崎の一部の人が記憶にとどめている程度でなかろうか。
幕府の新田開発事業の一環らしいが、この用水路によって、下厚崎に長島新田という村が生まれ、多くの田畑が開かれた。だが、惜しいことに、十数年後に廃堀となり、長島新田などは大きな打撃を受けた。現在は、ところどころに大きな堀形を残すのみで、史料が大変乏しく、ナゾの多い用水路である。
これまで「長島堀」の名を知る人は大変少なかった。その名は、明治10年代の那須疏水関係の嘆願書などにわずかに出ているのと、西岩崎の一部の人が記憶にとどめている程度でなかろうか。
矢板武著の「那須開墾誌」および、これを引用した人見伝蔵著「蒲盧碑考」、「西那須野町史」に、用水路によって長島新田が開かれた点を紹介しているが、長島堀の名は見えない。
しかし、矢板武は、長島堀の名も、堀跡も知っていたようである。彼は印南丈作とともに那須野ケ原開拓史上、あまりにも有名な人物だ。明治10年前後、那須疏水の計画や推進にあたって何度も西岩崎方面を訪れ、実地踏査をしたり、古老に昔の話を聞いたらしい。矢板らが疏水開削の事前調査をまとめた「那須野略誌」(明治17年、未刊)に「東原ニ於テ、其ノ最モ大ナルモノフ長島堀卜云フ。此水路ハ、万治年間長島太郎ナル者ノ起エニ係ルト云ヒ或ハ幕府ノ代官高橋七兵衛ノ為ス所卜云ヒ……」(那須開墾社史料)とある。
ところが、2、3年前発見された野間(黒磯市)の「大野家文書」に「万治元年、長島大新堀、中川(那珂川)ヲ岩崎上ム所言ア岩フ掘抜、堰ヲ揚、狩野郷田地トス。金主ハ、中国長島左衛門と申者来り、依之長島堀卜唱フ」とある。この文書はかなり信頼できるもので、少なくとも「那須野略誌」よりは正確といえる。
一方、「蒲盧碑考」で一部の人に知られるものに、「岩崎堀」がある。万治2年(1659)に相模屋兵右衛門が新田開発を請け負い、西岩崎から新しい堀を開削したという。史料にも「岩崎堀」と記されている。
これらの史料によると、「長島堀」は万治元年(1658)、「岩崎堀」は万治2年に開かれ、ともに西岩崎から取水している。そこで疑間が起った。果たして長島堀と岩崎堀は別なものか、それとも同一か─この疑間を解くために、わずかに残った史料を詳細に検討
したり、西岩崎の那珂川沿岸を踏査した。その結果では一部の疑間が残るものの、同一のものと判断できた。
ところでこの長島堀は、いったいどのような形で、だれが開いたのであろうか。開削者は文書によって異なっている。それを列記すると――
長島左衛門(大野家文書)
相模屋兵右衛門(室井家文書)
長島太郎、高橋七兵衛(那須野略誌)
どちらかといえば「大野家文書」、「室井家文書」が信頼できるが、それにしても長島左衛門と相模屋兵右衛門の関係はどうなっているのだろうか。
また、この事業は幕府からの請け負い事業だったらしいが、時の代官福村長右衛門はどのような役割を持っていたのであろうか。大野家、室井家文書には、どういうわけか福村の名が出て来ない。
いずれにしても、長島堀は見事な用水路として那珂川の清流を大輪地原に送った。ところがわずか18年後の延宝4年(1676)、近山六左衛門らが西岩崎を巡見し「普請を中止」させてしまった。その普請とは、多分、取水日付近が洪水か震災で破壊され、復旧のために行われた工事のことと推察される。
それにしても、多大の費用をかけて開いた水路をなぜ復旧しなかったのだろうか。これもまた大きな疑問である。その後、長島堀は、廃堀になって山林にうもれた。長島新田の水田も畑や山林となり、付近一帯は飲用水にも事欠く結果となった。
さらに翌年、代官福村長右衛門は、年貢滞納の理由で島流しに処せられた。福村は単に私腹を肥やしたのであろうか。この島流しと、長島堀の普請中止は無関係なのだろうか。また、延宝3年(1675)には、那須地方で大ききんがあった。これは関係ないのだろうか。
このように多くの疑間を感ずると同時に、この立派な堀を、なぜのちの山口堀や、明治時代の那須疏水に利用しなかったのであろうか。那須疏水もこれを利用すれば、相当資金の節約ができたはずである。
これら多くのナゾを解くべく、今後の史料の発掘を切に望みたい。
取水口については、当初西岩崎の那珂川橋下流300メートルの地点と考えていた。その後西岩崎出身の人見武氏の御教示により、那珂川橋上流数百メートルの所であることがわかった。
ところが、2、3年前発見された野間(黒磯市)の「大野家文書」に「万治元年、長島大新堀、中川(那珂川)ヲ岩崎上ム所言ア岩フ掘抜、堰ヲ揚、狩野郷田地トス。金主ハ、中国長島左衛門と申者来り、依之長島堀卜唱フ」とある。この文書はかなり信頼できるもので、少なくとも「那須野略誌」よりは正確といえる。
一方、「蒲盧碑考」で一部の人に知られるものに、「岩崎堀」がある。万治2年(1659)に相模屋兵右衛門が新田開発を請け負い、西岩崎から新しい堀を開削したという。史料にも「岩崎堀」と記されている。
これらの史料によると、「長島堀」は万治元年(1658)、「岩崎堀」は万治2年に開かれ、ともに西岩崎から取水している。そこで疑間が起った。果たして長島堀と岩崎堀は別なものか、それとも同一か─この疑間を解くために、わずかに残った史料を詳細に検討
したり、西岩崎の那珂川沿岸を踏査した。その結果では一部の疑間が残るものの、同一のものと判断できた。
ところでこの長島堀は、いったいどのような形で、だれが開いたのであろうか。開削者は文書によって異なっている。それを列記すると――
長島左衛門(大野家文書)
相模屋兵右衛門(室井家文書)
長島太郎、高橋七兵衛(那須野略誌)
どちらかといえば「大野家文書」、「室井家文書」が信頼できるが、それにしても長島左衛門と相模屋兵右衛門の関係はどうなっているのだろうか。
また、この事業は幕府からの請け負い事業だったらしいが、時の代官福村長右衛門はどのような役割を持っていたのであろうか。大野家、室井家文書には、どういうわけか福村の名が出て来ない。
いずれにしても、長島堀は見事な用水路として那珂川の清流を大輪地原に送った。ところがわずか18年後の延宝4年(1676)、近山六左衛門らが西岩崎を巡見し「普請を中止」させてしまった。その普請とは、多分、取水日付近が洪水か震災で破壊され、復旧のために行われた工事のことと推察される。
それにしても、多大の費用をかけて開いた水路をなぜ復旧しなかったのだろうか。これもまた大きな疑問である。その後、長島堀は、廃堀になって山林にうもれた。長島新田の水田も畑や山林となり、付近一帯は飲用水にも事欠く結果となった。
さらに翌年、代官福村長右衛門は、年貢滞納の理由で島流しに処せられた。福村は単に私腹を肥やしたのであろうか。この島流しと、長島堀の普請中止は無関係なのだろうか。また、延宝3年(1675)には、那須地方で大ききんがあった。これは関係ないのだろうか。
このように多くの疑間を感ずると同時に、この立派な堀を、なぜのちの山口堀や、明治時代の那須疏水に利用しなかったのであろうか。那須疏水もこれを利用すれば、相当資金の節約ができたはずである。
これら多くのナゾを解くべく、今後の史料の発掘を切に望みたい。
取水口については、当初西岩崎の那珂川橋下流300メートルの地点と考えていた。その後西岩崎出身の人見武氏の御教示により、那珂川橋上流数百メートルの所であることがわかった。