西原十カ新田開発 原野に托した遠大な夢
9月
5日
日光街道が宇都官の市街地を北に抜けると、道の両側に気持のよい桜並木が続く。その木立のすきまを通して、道の西側は広々とした畑と平地林が続き、静かな農村のたたずまいを見せている。この近くには昭和47年秋、東北自動車道が開通し、宇都宮インタチェンジも間近に出来た。この平凡な農村も新しい開発期をむかえ、数年のうちに急激に変わってしまうに違いない。この地は明治以来、宝木村と呼ばれていた。この宝木の開発をさぐってみよう。
ここ宝木村は、明治9年1月までは、西原十ケ新田と総称される新田村十ケ村よりなっていた。この新田が最初に開かれたのは、今からおよそ300年ほど前の寛文年間のことである。
当時、この地方は西原と称する一面の原野だった。そこに江戸材木町の加藤四郎兵衛、小黒善兵衛、久保新兵衛、栗本長右衛門の4人の町人が、この広大な原野に新田の開発を企てた。
そこで、時の宇都宮藩主松平下総守忠弘に願いでたところ、周囲の村々のさしさわりとならないことを確かめた上で、幕府の老中に披露するにおよんだ。その結果、この4人の町人に西原八百三十町歩と称する広大な新田の元締役が仰せつけられ、この原野の開発が始められることになった。
寛文9年、西原の高谷林というところに、元締会所(役所)が開かれ、それとともに、江戸日本橋に「宇都宮の御新田へ望みのかた出ずべし」という高札を立てた。これを伝え聞いて、各地からこの新天地を目指して続々と人が集るようになった。
入植を希望する者は「この者が新田へまかり出ても構なし」という名主の手形を持って、宇都官の新田奉行所へ願い出て、入植するについてのお定め(開発条件)を新田元締役と取りきめている。この西原新田へやってきたのは、当新田周辺の村々ばかりからではない。遠く古河、館林の辺からも多数入植している。
新田十ケ村の村名のうち、「藤岡」は下都賀郡藤岡町、「西岡」と「細谷」は群馬県邑楽郡板倉町、「江黒」は邑楽郡明和村、「足次」は同県館林市郊外のそれぞれの出身地の地名をそのまま村名にしたという。
入植した農民たちは、さっそく開墾と作物の植え付けをした。だが、作物といっても、水が乏しく、水田のないこの地方のことなので、作付けられたものは決して豊かなものではない。 一部の陸稲を除いては、すべて雑穀類が中心だった。
当時、この地方は西原と称する一面の原野だった。そこに江戸材木町の加藤四郎兵衛、小黒善兵衛、久保新兵衛、栗本長右衛門の4人の町人が、この広大な原野に新田の開発を企てた。
そこで、時の宇都宮藩主松平下総守忠弘に願いでたところ、周囲の村々のさしさわりとならないことを確かめた上で、幕府の老中に披露するにおよんだ。その結果、この4人の町人に西原八百三十町歩と称する広大な新田の元締役が仰せつけられ、この原野の開発が始められることになった。
寛文9年、西原の高谷林というところに、元締会所(役所)が開かれ、それとともに、江戸日本橋に「宇都宮の御新田へ望みのかた出ずべし」という高札を立てた。これを伝え聞いて、各地からこの新天地を目指して続々と人が集るようになった。
入植を希望する者は「この者が新田へまかり出ても構なし」という名主の手形を持って、宇都官の新田奉行所へ願い出て、入植するについてのお定め(開発条件)を新田元締役と取りきめている。この西原新田へやってきたのは、当新田周辺の村々ばかりからではない。遠く古河、館林の辺からも多数入植している。
新田十ケ村の村名のうち、「藤岡」は下都賀郡藤岡町、「西岡」と「細谷」は群馬県邑楽郡板倉町、「江黒」は邑楽郡明和村、「足次」は同県館林市郊外のそれぞれの出身地の地名をそのまま村名にしたという。
入植した農民たちは、さっそく開墾と作物の植え付けをした。だが、作物といっても、水が乏しく、水田のないこの地方のことなので、作付けられたものは決して豊かなものではない。 一部の陸稲を除いては、すべて雑穀類が中心だった。
たとえば、寛文11年の植え付けをみると、仁良塚の角左衛門の植え付け地五反三畝(約53a)のうち
粟 3反
そば 1反
ささげ 6畝
いも 5畝
陸稲 2畝
となっている。
ほかの農民たちも同様で、全体として粟がもっとも多く、次いでそば、陸稲、豆、いも、ひえなどとなっている。現在の食生活からこの300年前を比較して考えても、文字どおり夢想だにできないことである。
ともかく、開発は順調に進み、三年目には、西原全体で95ha余が開かれている。そして、数年を経ずして、ここに10組もの部落(新田村)ができあがったのである。
そば 1反
ささげ 6畝
いも 5畝
陸稲 2畝
となっている。
ほかの農民たちも同様で、全体として粟がもっとも多く、次いでそば、陸稲、豆、いも、ひえなどとなっている。現在の食生活からこの300年前を比較して考えても、文字どおり夢想だにできないことである。
ともかく、開発は順調に進み、三年目には、西原全体で95ha余が開かれている。そして、数年を経ずして、ここに10組もの部落(新田村)ができあがったのである。