「父を求める旅で学んだディープリスニング(心聴)の奇跡」
講師:鶴亀 彰(つるかめ あきら)氏[プロフィール] 1941年、太平洋戦争勃発の年に鹿児島県で出生。 60年安保の年に京都外国語大学に入学し、東京オリンピックの年に卒業。同年1964年、日本へ の外国人訪問客を誘致する旅行会社ニューオリエントエキスプレス入社。1966年、同社のロサン ゼルス支店勤務のため渡米。 ロサンゼルスならびにニューヨークで働いた後、1979年、中南米、欧州、アジアを巡る一年間の 世界一周旅行に旅立つ。 1980年に日本企業の米国ならびにメキシコへの進出を手伝うコンサルティング会社、カリフォル ニア・コーディネーターズ社をロサンゼルスで設立。 その後も、日米の仲間と一緒にシリコンバレーでビジネスカフェ社やオレンジカウンティで橋リンク 社などを設立。 2003年に妻と一緒に101日間の世界一周旅行に出たが、これが途中で、3歳の時に戦死した父 を求める旅に変わる。 その旅は2013年のシシリア島で開催された世界潜水艦会議まで続き、ある意味では現在もまだ続 いている。現在はビジネス活動からは引退し、プチ引きこもり状態で、執筆活動に専念している。現 在77歳。妻と息子と居候の義弟とワンちゃんと一緒にロミタ市在住。
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父を求める旅で学んだディープリスニング(心聴)の奇跡
ディープリスニング
2003年に始まった父を求める旅は2013年まで続きました。もちろん、ずっと出っ放しではな く、マレーシアやオランダ、イギリス、アイルランド、日本、シンガポール、イスラエル、イタリア などを訪れてはカリフォルニアに戻り、少し仕事をしてはまた出掛ける年月の繰り返しでした。その 間に信じられないような不思議な出来事や出逢いがありました。戦争中の悲惨な体験から日本と日本 人を恨む多くの人々に出会いました。ところがそれらの人々と和解し、親しくなり、素晴らしい友人 関係を築くことが出来ました。その奇跡をもたらして呉れたのがディープリスニングでした。旅をし ている時はその言葉を私は知りませんでした。今から5年前にその言葉を知った時、私は知らずにい て、ディープリスニングを行っており、それが奇跡的な憎しみから愛情への転換を生じたのだと実感 しました。本当に奇跡は起こるんです。心理療法などに携わっていらっしゃる専門家の方などもこの ディープリスニングを使っていらっしゃると思います。
今日の講演を聞いて、このディープリスニングを知って、興味を持っていただけたら 嬉しいです。第二次世界大戦中に敵同士として殺し合った家族同士の間で起きた奇跡もですが、私達 の日常生活でもそれは起き得るのです。
私の妻と私の関係がとても良くなったのもディープリスニングが起こした「奇跡」の一つです。 我が家では、妻と、息子と、義理の弟と、モチという犬がおり、 妻の一番の大きな笑顔が向くのは、モチが一番で、二番目が息子で、三番目が彼女の弟で、最後が僕 だったのですが、最近ではまだモチには負けますが、2番目にランクアップしました。その内にはモ チを抜いて1番目になるかも知れません。
ディープ・リスリングはもともとベトナムのお坊さん:ティク・ナット・ハン氏が始めたコミュニケ ーション方法です。最近ではビジネスの場でも活用され、Googleでもディープリスニングを取り入れて、社員同士のコミュニケーションが良くなり、成果を上げているそうです。コンパッショネイト・ リスニング・プロジェクトなど、ディープリスニングから派生したものが今世界中で行われています 。
私がディープリスニングを勉強しだしたのは父を求める旅が終わった2013年、今から5年前です が、私と妻が知らずして行っていたディープリスニングがどんなものだったのか、少しお話させて頂 きたいと思います。私の父が乗る潜水艦が、オランダの潜水艦を撃沈し、36名の乗組員が戦死しま した。そしてイギリスの潜水艦が私の父の乗る潜水艦を撃沈し、父を含め88名の乗組員が戦死しま した。
インドネシアの潜水艦基地を出港する間際に新婚の妻の妊娠を知らされ、喜びと共に出征した若いオ ランダ海軍士官。しかし、日本の潜水艦に撃沈され、帰らぬ人に。そして、7ヶ月後に生まれた子供 の名前はカチャ。父を知らないことから、2003年5月、ボルネオ沖まで父の軌跡を求めて旅に出 、 潜水技術を学んで潜ってみるなど、父を追い求めた。しかし、その時は父の潜水艦は発見出来なかっ た。
そして、私は2003年11月に彼女とオランダで出会うことになるのです。 その前月に私は父の潜水艦が沈んでいるマラッカ海峡で父と87名の乗組員にブーゲンビリアの花を 捧げました。そして、父の戦死から59年ぶりに父とであった気がしました。
私の父は38歳で死亡 。 その時、現地の案内人が、この海底は柔らかいので、伊号166は泥の中だろうと言われ、私はとても 悲しくなりました。ところが、海も空も夕日で赤く、黄金色の光に燃えていました。その時に、私は 「アキラ、ありがとう。遠いところから訪ねて呉れてありがとう。赤いブーゲンビリアの花もありが とう。今悲しんでいるようだが、その必要はないよ。私も87名の戦友たちも皆、光り輝く天上で安 住しているよ」という、父の声が聞こえた気がしたのです。 その声を聞いた後、私と妻の想いは父達が沈めたオランダの潜水艦乗組員達に想いが飛びました。そ こで私と妻はオランダの海軍の基地に行きました。そして、花を捧げました。すると、オランダ海軍 潜水艦部隊のお偉いさん達が私が花を捧げたことに感動し、とても歓迎をしてくれました。 その後、カチャから連絡が来たのです。カチャは私にどうしても会いたいらしく、熱烈なEmailを送 ってくださいました。しかし、父、日本が沈めた潜水艦に乗っていた人を父にもつカチャに会うのは ためらいを感じました。けれど、私は会うことにしました。そしてそれが現在も続く素晴らしい出逢 いになりました。
父と一緒の潜水艦に乗っていた人たちのことは私は何も知りませんでした。父が機関長を務めていた 伊号166は、佐世保の管轄だったので、佐世保に行き、調べたところ、慰霊碑が建立されていて、親 父の名前は3番目に刻まれていました。とても感動的な一瞬でした。
父の戦友たちの遺族を探す2004年3月の旅でもう一つの奇跡が起きました。それは元英国海軍将 校の男爵サー・ピーター・アンソンとの出逢いです。私の父は、イギリスの潜水艦に沈められました という話をし、父の潜水艦とそれを撃沈したイギリスの潜水艦、テレマカス号の話をしたところ、 彼が調査を約束して呉れました。そしてそれから一か月半後に、何とテレマカス号の艦長が94歳で 健在でアイルランドの15世紀に建てられたオーランモア城というお城で娘夫婦や孫たちと住んでい る事を連絡して来ました。
私は妻とそして息子と一緒にアイルランドのオランモア城を訪れ、キング 艦長と出会いました。ここではカチャも合流しました。 カチャ(父の潜水艦が日本の潜水艦に沈められた)鶴亀氏(イギリスの戦艦に父の潜水艦を沈めらた) キング艦長(日本の潜水艦を沈めた) この3組が一堂に会している奇跡。そして、この奇跡を記念し、3組でりんごの樹の植樹を行いまし た。
キング艦長はPTSDを患い、子供や家族の愛情にも癒されず、59歳から63歳まで単独世界一 周ヨット航海を行い、大自然の中で生活しました。自然に癒されたとキング艦長も語っていました。 94歳で私が出会った時も大変お元気でした。 実は父の乗っていた船には生き残った人が10名いました。その後の長い年月の間に8名の方は亡く なり、私は幸いに残りのお二人とお会いし、父の最後の様子を聞く事が出来ました。
2005年4月 にオランダとアイルランドの家族が日本を訪れ、佐世保の東山海軍墓地にある潜水艦慰霊碑の前で日 英蘭3ヶ国の3家族と伊166潜水艦の乗組員遺族、そしてこの生存者の方、全員で世界の平和を祈 り桜の植樹をしました。
私が出会った大きな奇跡の一人がヘンク・ブッスマーカーです。 彼のお父様はオランダ潜水艦隊の総隊長でしたが、彼の潜水艦も日本との戦いの中で沈みました。そ れに加え、彼は14歳の時から17歳まで、インドネシアで日本軍の捕虜になっていた経験もあった そうです。思い出したくもない過酷な経験だったそうです。その彼と私はオランダ海軍からの招待に より2006年7月にオランダを訪れた時に出会いました。
オランダの海軍兵学校の庭に日英蘭の潜 水艦関係者が集い、ここでも友情と平和の植樹をしました。ここでは梨の木を植えました。 これで世界には平和の樹、(りんご、桜、梨)が3本。その翌年、ヘンク・ブッスマーカーと奥さん のエリーが私と妻を尋ねて来ました。彼は誰にも涙を見せない強い人ですが、僕は2度、彼の涙を見 ました。それは私と妻が彼の戦争中のインドネシアでの悲惨な体験をディープリスニングしたからで す。ヘンクの娘さんはオランダで厚生省大臣をしており、8月15日のオランダにとって戦勝記念日 に演説を行ったのですが、その演説の中で、これまで日本嫌いで日本製品なども絶対買わなかった父 がmade in Japanのデジカメを買って来たことを驚きをもって話していたことを後で知りました。 ヘンクの娘さんは、父はロサンゼルスで私たちと会って変わったヘンク氏の過去の恨みを越えて、 前を向いて生きていくことの大切さをその演説の中で語っていました。
話は2006年に戻りますが、オランダ海軍兵学校での植樹祭の後、私と妻はキング艦長をお城まで 送り届けました。本当に偶然ですが、その翌日は2006年7月17日、この日、キング艦長に私は聞きま した。「あなたは今日が何の日か知っていますかと。」私が「あなたが私の父が乗っていた潜水艦を 沈めた日ですよ」と伝えたところ、彼はOh Noといい、顔を両手で覆いました。しかし、その手を取 った時、彼の表情はとても無心で無邪気な感じがしました。私と妻はその時の彼の様子をみて、笑い 出し、恨みなどはどこかに吹き飛んでしまいました。
オランダとアイルランドの旅から戻って来た後、私のこと(三つの元敵同士だった潜水艦家族の友情 )がDaily Breezeに掲載され、いろんな人が私にコンタクトとって来ました。そのうちの一人は、真 珠湾攻撃の英雄からのものでした。真珠湾攻撃英雄のエディ・ブルックス。私は彼に対してもディー プリスニングを行いました。そして本当に親しくなりました。彼は、その昔、サンペドロ高校に通っ ており、同校にフェリーで通学していたターミナルアイランドに住んでいた日本人をよく知っていて 、初恋の人がいたり、柔道を教えてもらったりなどしていたそうです。私はターミナルアイランドの 当時の会長の巽さんに連絡を取り、エディさんを新年会にお連れしました。そして、驚くべきことに エディさんは、日系二世の初恋の人にも再会することができました。エディさんは当時杖をついてい ましたが、その杖もどこへやらです。そのエディさんは、私に永遠の友達になって欲しいと言ってくれました。そのエディが亡くなった後も、エディの息子が、父の後を継いで、私と永遠の友達になり たいとも言ってくれました。ここまでが、10年分のお話を簡単にお伝えしたものです。
「ディープリスニング」とは相手の表面的な言葉を聞くのではなく、相手の感情の襞を感じ、聞き取 る事です。一つの物事を話していても、みんなが同じ視点で話を受け取っているとは限りません。相 手の目を見て、とにかく相手の話をとことん聴くことで、相手の言葉の奥底に隠れているものが見え てくるのです。字ずらで感情をぶつけ合うのではなく、相手の本心を感じとり、そのものに対処をす ることで、その相手との関係がとても良くなるのです。聴くことはと時に忍耐が必要ですが、じっく り聴くことが大切です。相手に対する尊敬「リスペクト」を持って、接して、耳を傾ける。 そうすることで、色々なことが好転、そして奇跡が生まれるはずです。私たちは沈黙を恐れます。 でも、コミュニケーションというものは黙っていても取れるのです。私は今、人と話すときは、なる べく自分を空っぽにしています。相手の心の内を聞き取るようにしています。意見をしない。アドバ イスをしない。中断しない。みなさんもぜひ、ディープリスニング、お試しください。
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父を求める旅で学んだディープリスニング(心聴)の奇跡
ディープリスニング
2003年に始まった父を求める旅は2013年まで続きました。もちろん、ずっと出っ放しではな く、マレーシアやオランダ、イギリス、アイルランド、日本、シンガポール、イスラエル、イタリア などを訪れてはカリフォルニアに戻り、少し仕事をしてはまた出掛ける年月の繰り返しでした。その 間に信じられないような不思議な出来事や出逢いがありました。戦争中の悲惨な体験から日本と日本 人を恨む多くの人々に出会いました。ところがそれらの人々と和解し、親しくなり、素晴らしい友人 関係を築くことが出来ました。その奇跡をもたらして呉れたのがディープリスニングでした。旅をし ている時はその言葉を私は知りませんでした。今から5年前にその言葉を知った時、私は知らずにい て、ディープリスニングを行っており、それが奇跡的な憎しみから愛情への転換を生じたのだと実感 しました。本当に奇跡は起こるんです。心理療法などに携わっていらっしゃる専門家の方などもこの ディープリスニングを使っていらっしゃると思います。
今日の講演を聞いて、このディープリスニングを知って、興味を持っていただけたら 嬉しいです。第二次世界大戦中に敵同士として殺し合った家族同士の間で起きた奇跡もですが、私達 の日常生活でもそれは起き得るのです。
私の妻と私の関係がとても良くなったのもディープリスニングが起こした「奇跡」の一つです。 我が家では、妻と、息子と、義理の弟と、モチという犬がおり、 妻の一番の大きな笑顔が向くのは、モチが一番で、二番目が息子で、三番目が彼女の弟で、最後が僕 だったのですが、最近ではまだモチには負けますが、2番目にランクアップしました。その内にはモ チを抜いて1番目になるかも知れません。
ディープ・リスリングはもともとベトナムのお坊さん:ティク・ナット・ハン氏が始めたコミュニケ ーション方法です。最近ではビジネスの場でも活用され、Googleでもディープリスニングを取り入れて、社員同士のコミュニケーションが良くなり、成果を上げているそうです。コンパッショネイト・ リスニング・プロジェクトなど、ディープリスニングから派生したものが今世界中で行われています 。
私がディープリスニングを勉強しだしたのは父を求める旅が終わった2013年、今から5年前です が、私と妻が知らずして行っていたディープリスニングがどんなものだったのか、少しお話させて頂 きたいと思います。私の父が乗る潜水艦が、オランダの潜水艦を撃沈し、36名の乗組員が戦死しま した。そしてイギリスの潜水艦が私の父の乗る潜水艦を撃沈し、父を含め88名の乗組員が戦死しま した。
インドネシアの潜水艦基地を出港する間際に新婚の妻の妊娠を知らされ、喜びと共に出征した若いオ ランダ海軍士官。しかし、日本の潜水艦に撃沈され、帰らぬ人に。そして、7ヶ月後に生まれた子供 の名前はカチャ。父を知らないことから、2003年5月、ボルネオ沖まで父の軌跡を求めて旅に出 、 潜水技術を学んで潜ってみるなど、父を追い求めた。しかし、その時は父の潜水艦は発見出来なかっ た。
そして、私は2003年11月に彼女とオランダで出会うことになるのです。 その前月に私は父の潜水艦が沈んでいるマラッカ海峡で父と87名の乗組員にブーゲンビリアの花を 捧げました。そして、父の戦死から59年ぶりに父とであった気がしました。
私の父は38歳で死亡 。 その時、現地の案内人が、この海底は柔らかいので、伊号166は泥の中だろうと言われ、私はとても 悲しくなりました。ところが、海も空も夕日で赤く、黄金色の光に燃えていました。その時に、私は 「アキラ、ありがとう。遠いところから訪ねて呉れてありがとう。赤いブーゲンビリアの花もありが とう。今悲しんでいるようだが、その必要はないよ。私も87名の戦友たちも皆、光り輝く天上で安 住しているよ」という、父の声が聞こえた気がしたのです。 その声を聞いた後、私と妻の想いは父達が沈めたオランダの潜水艦乗組員達に想いが飛びました。そ こで私と妻はオランダの海軍の基地に行きました。そして、花を捧げました。すると、オランダ海軍 潜水艦部隊のお偉いさん達が私が花を捧げたことに感動し、とても歓迎をしてくれました。 その後、カチャから連絡が来たのです。カチャは私にどうしても会いたいらしく、熱烈なEmailを送 ってくださいました。しかし、父、日本が沈めた潜水艦に乗っていた人を父にもつカチャに会うのは ためらいを感じました。けれど、私は会うことにしました。そしてそれが現在も続く素晴らしい出逢 いになりました。
父と一緒の潜水艦に乗っていた人たちのことは私は何も知りませんでした。父が機関長を務めていた 伊号166は、佐世保の管轄だったので、佐世保に行き、調べたところ、慰霊碑が建立されていて、親 父の名前は3番目に刻まれていました。とても感動的な一瞬でした。
父の戦友たちの遺族を探す2004年3月の旅でもう一つの奇跡が起きました。それは元英国海軍将 校の男爵サー・ピーター・アンソンとの出逢いです。私の父は、イギリスの潜水艦に沈められました という話をし、父の潜水艦とそれを撃沈したイギリスの潜水艦、テレマカス号の話をしたところ、 彼が調査を約束して呉れました。そしてそれから一か月半後に、何とテレマカス号の艦長が94歳で 健在でアイルランドの15世紀に建てられたオーランモア城というお城で娘夫婦や孫たちと住んでい る事を連絡して来ました。
私は妻とそして息子と一緒にアイルランドのオランモア城を訪れ、キング 艦長と出会いました。ここではカチャも合流しました。 カチャ(父の潜水艦が日本の潜水艦に沈められた)鶴亀氏(イギリスの戦艦に父の潜水艦を沈めらた) キング艦長(日本の潜水艦を沈めた) この3組が一堂に会している奇跡。そして、この奇跡を記念し、3組でりんごの樹の植樹を行いまし た。
キング艦長はPTSDを患い、子供や家族の愛情にも癒されず、59歳から63歳まで単独世界一 周ヨット航海を行い、大自然の中で生活しました。自然に癒されたとキング艦長も語っていました。 94歳で私が出会った時も大変お元気でした。 実は父の乗っていた船には生き残った人が10名いました。その後の長い年月の間に8名の方は亡く なり、私は幸いに残りのお二人とお会いし、父の最後の様子を聞く事が出来ました。
2005年4月 にオランダとアイルランドの家族が日本を訪れ、佐世保の東山海軍墓地にある潜水艦慰霊碑の前で日 英蘭3ヶ国の3家族と伊166潜水艦の乗組員遺族、そしてこの生存者の方、全員で世界の平和を祈 り桜の植樹をしました。
私が出会った大きな奇跡の一人がヘンク・ブッスマーカーです。 彼のお父様はオランダ潜水艦隊の総隊長でしたが、彼の潜水艦も日本との戦いの中で沈みました。そ れに加え、彼は14歳の時から17歳まで、インドネシアで日本軍の捕虜になっていた経験もあった そうです。思い出したくもない過酷な経験だったそうです。その彼と私はオランダ海軍からの招待に より2006年7月にオランダを訪れた時に出会いました。
オランダの海軍兵学校の庭に日英蘭の潜 水艦関係者が集い、ここでも友情と平和の植樹をしました。ここでは梨の木を植えました。 これで世界には平和の樹、(りんご、桜、梨)が3本。その翌年、ヘンク・ブッスマーカーと奥さん のエリーが私と妻を尋ねて来ました。彼は誰にも涙を見せない強い人ですが、僕は2度、彼の涙を見 ました。それは私と妻が彼の戦争中のインドネシアでの悲惨な体験をディープリスニングしたからで す。ヘンクの娘さんはオランダで厚生省大臣をしており、8月15日のオランダにとって戦勝記念日 に演説を行ったのですが、その演説の中で、これまで日本嫌いで日本製品なども絶対買わなかった父 がmade in Japanのデジカメを買って来たことを驚きをもって話していたことを後で知りました。 ヘンクの娘さんは、父はロサンゼルスで私たちと会って変わったヘンク氏の過去の恨みを越えて、 前を向いて生きていくことの大切さをその演説の中で語っていました。
話は2006年に戻りますが、オランダ海軍兵学校での植樹祭の後、私と妻はキング艦長をお城まで 送り届けました。本当に偶然ですが、その翌日は2006年7月17日、この日、キング艦長に私は聞きま した。「あなたは今日が何の日か知っていますかと。」私が「あなたが私の父が乗っていた潜水艦を 沈めた日ですよ」と伝えたところ、彼はOh Noといい、顔を両手で覆いました。しかし、その手を取 った時、彼の表情はとても無心で無邪気な感じがしました。私と妻はその時の彼の様子をみて、笑い 出し、恨みなどはどこかに吹き飛んでしまいました。
オランダとアイルランドの旅から戻って来た後、私のこと(三つの元敵同士だった潜水艦家族の友情 )がDaily Breezeに掲載され、いろんな人が私にコンタクトとって来ました。そのうちの一人は、真 珠湾攻撃の英雄からのものでした。真珠湾攻撃英雄のエディ・ブルックス。私は彼に対してもディー プリスニングを行いました。そして本当に親しくなりました。彼は、その昔、サンペドロ高校に通っ ており、同校にフェリーで通学していたターミナルアイランドに住んでいた日本人をよく知っていて 、初恋の人がいたり、柔道を教えてもらったりなどしていたそうです。私はターミナルアイランドの 当時の会長の巽さんに連絡を取り、エディさんを新年会にお連れしました。そして、驚くべきことに エディさんは、日系二世の初恋の人にも再会することができました。エディさんは当時杖をついてい ましたが、その杖もどこへやらです。そのエディさんは、私に永遠の友達になって欲しいと言ってくれました。そのエディが亡くなった後も、エディの息子が、父の後を継いで、私と永遠の友達になり たいとも言ってくれました。ここまでが、10年分のお話を簡単にお伝えしたものです。
「ディープリスニング」とは相手の表面的な言葉を聞くのではなく、相手の感情の襞を感じ、聞き取 る事です。一つの物事を話していても、みんなが同じ視点で話を受け取っているとは限りません。相 手の目を見て、とにかく相手の話をとことん聴くことで、相手の言葉の奥底に隠れているものが見え てくるのです。字ずらで感情をぶつけ合うのではなく、相手の本心を感じとり、そのものに対処をす ることで、その相手との関係がとても良くなるのです。聴くことはと時に忍耐が必要ですが、じっく り聴くことが大切です。相手に対する尊敬「リスペクト」を持って、接して、耳を傾ける。 そうすることで、色々なことが好転、そして奇跡が生まれるはずです。私たちは沈黙を恐れます。 でも、コミュニケーションというものは黙っていても取れるのです。私は今、人と話すときは、なる べく自分を空っぽにしています。相手の心の内を聞き取るようにしています。意見をしない。アドバ イスをしない。中断しない。みなさんもぜひ、ディープリスニング、お試しください。