日時: 2013年6月12日(水)、6:30PM - 8:30PM
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:皇 ロキータ(Sumera Rokita)氏
講師略歴:
SumericaTV, LLC代表
http://www.sumericatv.com/
仙台市出身。
仙台育英高校卒業後、大学に進学するが中退。
2004年ロサンゼルス渡米。
UCLA,USCで学び、CSULAではMBAプログラム卒業。
卒業後、外資銀行でトレーダーとして勤務
2011年、インターネットによる広報マーケティング主体として、オンラインテレビやコマーシャル映像制作会社「SumericaTV, LLC」を設立。
2013年、「A Journey Through Tragedy」製作ドキュメンタリー映画が、カンヌ国際映画祭で放映決定。
現在はドキュメンタリー映画制作、トラベルチャンネル、ビジネスインタビューなどの番組を手掛けている。
講演内容概略:
19歳まで仙台で育つ。7人兄弟のひとり。 家族の人数が多い分、家の規律も厳しく、あまり社会経験がないままの人生に ピリオドをうち、啖呵をきって所持金20万円で渡米。自力でLAの大学を卒業。 そして、ようやく親とも和解。 そして2011年3月11日、東北での震災をテレビで知る。 兄弟や、いとこが津波で流されるなど、その被害の大きさにふさぎ込む自分を 助けてくれたのが、在米日本人でした。それまでアメリカに居るのに、日本人と交流を深めるつもりはない生活を送っていましたが、この震災後、在米日本人の皆さんの暖かさに触れたことから,今後は日系社会にも貢献が出来るようにと思うようになりました。
兄(長男):3人の子供と身重の妻を残して津波の被害にあいました。 教職をつとめる被災した姉(長女:42歳)は放射線の影響から子供が産めない身体となり、 今は生徒達が自分の子供だと思うようにしているとの事。 また、姉だけではなく、被災地では生理が来なくなった女子高生の数も多いとの事。
_____震災時の被災地を取り上げたテレビ報道ダイジェスト_______
_____被災地(宮城県 気仙沼)の写真_______
_____1年後 2012年の被災地の映像(スメラさん撮影)_______
仙台はもう大丈夫と思われがちですが、まだがれきがそのまま残っていたり、私有地は 政府が入れないことからそのままの場所も多く存在している。
今回の「A Journey Through Tragedy」を制作するにあたり、被災地で撮影した映像を何度も 何度も見ながら編集をしていると、幼い頃よく行った海水浴場などの変わり果てた光景など 胸を痛めるばかりの作業でした。
飛行機が着陸出来ない場所では、上空から食べ物を投下しなければいけないエリアがあったり、亡くなった方々のご遺体がそのまま長く放置されている所などが震災直後は多く見られた。
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______気仙沼でのインタビュー映像_________
牛乳屋さん:震災で奥様を亡くされ、現在はお子さんと共に4畳半で暮らしている。 子ども達のために出来る事を考え、世界に支援を呼びかけている。牛乳には放射能の影響は?彼が扱うのは北海道産の牛乳なので、大丈夫 メッセージは?メンタルが強くないと何も出来ない。1年後の今も復興に向けて、今出来る事をしていかなければいけない。
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千葉さん:世界の皆さんから支援や想いをいただきました。たまたま被災地に暮らしていた 私達、これから更にがんばっていかなければいけませんが、復旧があって復興となることから、今後も被災地に対する想いをちょうだいし、頑張って参ります。
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宮城県内でのがれきが全て処理出来ない理由は、他県に放射能に汚染されたがれきを移す事が出来ない事ということが一番の理由ですが、打開策としての東京ディズニーランド付近に埋め立てようとして運ばれる計画があるよう。 石巻のタンク(船)が津波の被害時のまま放置されているのは、被災地を訪れた人たちがこの船を見て、震災を思い出してもらうため。 タクシーの事故がなぜか多発していた場所があり、1年前は入る事が出来た場所が、 現在立ち入り禁止になっている。そこでは多くの方々が津波の被害にあって亡くなっている場所。 ガスタンクが流れてきて全焼したカドワキ小学校。
ロキータさんの高校の同級生が住んでいた家も跡形もなく流され、現在も誰も住んでいない街となっています。地盤がわれ、沈没している箇所があり、新しい建築物を建てるのも大変なエリア。
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被災者の女性インタビュー:震災後、空き家に入ってモノを盗む人たちがいたりもしました。 被災者は震災時、泳いで逃げた人も多く、着替えもないまま、シャワーも浴びられない状況が続いた。 しかし、生きるので必死だった時に、多くの人が助けにきて下さり、物資の至急や 励ましなど、いろんな形の助けがあり、皆さんに感謝しています。
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被災地の墓地も倒壊したものが多く、私有地のため、政府も手を出す事が出来ない状況。 その向いにある学校の屋根には、被災時に3日間、子ども達が助けを待っていました。
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高校の同級生からのレポート: 政府は勝手に人の持ち物を壊したり直したりが出来ないので、持ち主と連絡が取れない場合、その場所は手つかずとなります。
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山元町:りんごラジオ 高橋さん 震災後にラジオを立ち上げた 震災から10日後に開局。住民が全ての情報を得られない事から山元町民のための 山元町の情報を放送するために開局。 半年間はスタッフ20人で一日15時間、ボランティアで放送。開局時は無我夢中でしたが、2ヶ月後、4ヶ月分の運営資金を日本財団からもらい運営しましたが、その資金も尽き、 ボランティアでの放送が続きましたが、現在は政府からの援助で運営。 災害に関したもののみを放送する 午前8時から午後5時まで自社制作番組。 町民、町議会議員などにも多く出演してもらっている。 子ども達の笑顔、町民の皆さんと双方向で放送出来ている一体感が「聴いていますよ」の 一言。この言葉が一番のエネルギー源。 移転により、現在の町民の人口は14,250人 被災者には「時間の経過」との戦い。 仮設住宅は夫婦二人で4畳半。それまで暮らしていた生活とのギャップから体調を崩される方も多く、被災者自身が力を付けていかなければいけない時期とはわかっていても、高齢化などもあり、世界の報道も被災時は多く取り上げても、報道の数は減り、忘れられていく恐怖もある。被災者は時間と戦っている状況。
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現地ボランティア小笠原さん (神奈川大学の大学院生): 震災時は東京にいたため、被災地がどうなっているのか、本当が見えなかった。 なので、被災地に赴き、何が出来るのかを見たかった。 仮設住宅のコミュニティー形成のお手伝いや、被災者のための仕事作りに従事。 震災支援をしてきて、どんな物資が必要かなどはわかってきましたが、モノとモノではなく、人と人との関係を重視していて、それが今後の未来に繋がる重要な部分だと思います。僕は支援をしに来ていますが、被災地で体感した周りの人との共存、大切さを感じ、助けられています。
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今後、現地で頑張っている人をアメリカからも少しでも支え、応援していきたいので、 こうして映像を多くの方にみていただいています。