2005年度 8月 「心理療法からみた個人のパーソナリティーと文化現象 」
講師 - 平山 栄治氏
九州大学大学院博士課程修了。教育学博士。心理教育相談、スクールカウンセリング、学生相談、精神科臨床、開業臨床を経て、現在、青山学院大学文学部心理学科助教授(2000~2004大学院文学研究科附置心理相談室長)。1999年日本心理臨床学会奨励賞。2004年9月よりUCLA心理学部Visiting Scholar、およびThe Psychoanalytic Center of California(精神分析研究所)Visiting Fellow。主な著書は、『臨床心理面接技法3』(誠信書房)、『ロジャース再考-カウンセリングの原点を探る』(培風館)、『ロジャース学派の現在』(現代のエスプリ、至文堂)、『エンカウンターグループと個人の心理的成長過程』(風間書房)など。
講義内容
心理療法のココロは、対話する心にある。心理療法に関する講演自体も、相互に交流できる経験的な対話に近い場でありたい。関与は、そのとき限りの生きた人間と人間の対話にあり、語り合いにあり、その時間と空間にのみ存在する。ここではいくつかのトピックを選んでまとめる。
昨年8月のこの日に渡米し、UCLA心理学部と精神分析研究所で研究に携わり、ちょうど1年になる。心理学部の所属研究室にも精神分析研究所にも日本人や日系人は一人もいなかった。
先日、ある国際学会に参加した折、日本から来た精神分析家たちと夕食をともにした。1年ぶりに接する日本文化に驚愕した。
米国では、メンタル・ヘルスの重要性について高く認識されている。臨床心理学者や精神分析家の数も、人口比から見ても、日本に比して桁違いに多いし、クライエントの数も多い。(しかし、保険で最初の数十回はカバーされるにしても、料金は決して安くはない。)心理療法を個人的成長への投資と考え、その意義を認識しているのである。
米国は、世界中から移民を受け入れており、公衆衛生局長官報告書でも、(文化・人種・民族的)多様性は米国の活力原であり、マイノリティーの精神衛生確保が重要だと論じられている。
米国ではスクール・サイコロジストの歴史は長いが、日本では特に不登校といじめ問題に対処するため、スクール・カウンセラー制度が1995年から文部省(文科省)によって導入され、効果をあげている。しかし、不登校やいじめの増加は、個人の心理的問題として理解し扱うことが可能であるというだけでなく、また、子供の問題というだけでなく、日本社会が抱えている問題を反映している。多様性への不寛容は、日本社会がもつ島国という地理的状況や歴史の延長線上のテーマである。同時に、世界が密接に交流するなかで、「摩擦」という現象を通して、文化交流は不可避である。
日米文化は、多くの点で対照的であるが、たとえば集団主義と個人主義の葛藤は、当然現代日本文化の問題として、個人の適応・不適応、症状形成と自己実現の形式に大きなインパクトを与えている。
もちろん人間は生涯にわたって成長可能であるが、三つ子の魂百までもというように、個人のパーソナリティーの根本的部分は幼少期に母子関係・親子関係を通して形成される。そこに深々と文化が伝達されていく。
昨年、精神分析研究所で乳幼児観察をおこなったが、研究所が事前に準備をしてくれたおかげで、私は幸運にも、日本からの移民家庭を毎週訪問し、乳児をまさに誕生直後から1年間観察することができた。毎週開催される乳幼児観察セミナーでの発表と討論を通して、日米の育児の相違に驚き、かつ、その文化移行に接する中で、育児と母子関係の様式は、日米の文化と人間関係に直結しているだけでなく、症状形成にまで直線的につながっていると実感した。
文化は、その歴史と伝統を背景にしつつも、必ずしも不変ではなく、葛藤してもいる。変化に抵抗しつつ、変化を求めてもいる。個々の文化は、その文化に特有の症状と心理的葛藤を生むと考えられる。文化は、その社会の適応行動であると同時に、それと遺伝子レベルでの人間性とのきしみでもあり、双方の力動の妥協形成としての症状でもあると考えられるのではないか。ならば、文化を相対化する精神分析や心理療法的視点が必要だろう。(文化精神分析、あるいは文化心理療法は、文化処方というパースペクティブを生み出す可能性があると言うことも可能だろう。)
個々人の心理的問題や症状は、巨視的に見れば、文化に内在する葛藤のもがきの表現とも考えられる。文化移行は、ある意味では、その過程を個人の内面で高速で実演するものであるとも考えられるだろう。日本文化を相対化する視点は、今後、日本社会が多様性に開かれ、成熟し、発展していく上で、非常に重要な示唆をもたらすに違いない。
(文責、平山)
九州大学大学院博士課程修了。教育学博士。心理教育相談、スクールカウンセリング、学生相談、精神科臨床、開業臨床を経て、現在、青山学院大学文学部心理学科助教授(2000~2004大学院文学研究科附置心理相談室長)。1999年日本心理臨床学会奨励賞。2004年9月よりUCLA心理学部Visiting Scholar、およびThe Psychoanalytic Center of California(精神分析研究所)Visiting Fellow。主な著書は、『臨床心理面接技法3』(誠信書房)、『ロジャース再考-カウンセリングの原点を探る』(培風館)、『ロジャース学派の現在』(現代のエスプリ、至文堂)、『エンカウンターグループと個人の心理的成長過程』(風間書房)など。
講義内容
心理療法のココロは、対話する心にある。心理療法に関する講演自体も、相互に交流できる経験的な対話に近い場でありたい。関与は、そのとき限りの生きた人間と人間の対話にあり、語り合いにあり、その時間と空間にのみ存在する。ここではいくつかのトピックを選んでまとめる。
昨年8月のこの日に渡米し、UCLA心理学部と精神分析研究所で研究に携わり、ちょうど1年になる。心理学部の所属研究室にも精神分析研究所にも日本人や日系人は一人もいなかった。
先日、ある国際学会に参加した折、日本から来た精神分析家たちと夕食をともにした。1年ぶりに接する日本文化に驚愕した。
米国では、メンタル・ヘルスの重要性について高く認識されている。臨床心理学者や精神分析家の数も、人口比から見ても、日本に比して桁違いに多いし、クライエントの数も多い。(しかし、保険で最初の数十回はカバーされるにしても、料金は決して安くはない。)心理療法を個人的成長への投資と考え、その意義を認識しているのである。
米国は、世界中から移民を受け入れており、公衆衛生局長官報告書でも、(文化・人種・民族的)多様性は米国の活力原であり、マイノリティーの精神衛生確保が重要だと論じられている。
米国ではスクール・サイコロジストの歴史は長いが、日本では特に不登校といじめ問題に対処するため、スクール・カウンセラー制度が1995年から文部省(文科省)によって導入され、効果をあげている。しかし、不登校やいじめの増加は、個人の心理的問題として理解し扱うことが可能であるというだけでなく、また、子供の問題というだけでなく、日本社会が抱えている問題を反映している。多様性への不寛容は、日本社会がもつ島国という地理的状況や歴史の延長線上のテーマである。同時に、世界が密接に交流するなかで、「摩擦」という現象を通して、文化交流は不可避である。
日米文化は、多くの点で対照的であるが、たとえば集団主義と個人主義の葛藤は、当然現代日本文化の問題として、個人の適応・不適応、症状形成と自己実現の形式に大きなインパクトを与えている。
もちろん人間は生涯にわたって成長可能であるが、三つ子の魂百までもというように、個人のパーソナリティーの根本的部分は幼少期に母子関係・親子関係を通して形成される。そこに深々と文化が伝達されていく。
昨年、精神分析研究所で乳幼児観察をおこなったが、研究所が事前に準備をしてくれたおかげで、私は幸運にも、日本からの移民家庭を毎週訪問し、乳児をまさに誕生直後から1年間観察することができた。毎週開催される乳幼児観察セミナーでの発表と討論を通して、日米の育児の相違に驚き、かつ、その文化移行に接する中で、育児と母子関係の様式は、日米の文化と人間関係に直結しているだけでなく、症状形成にまで直線的につながっていると実感した。
文化は、その歴史と伝統を背景にしつつも、必ずしも不変ではなく、葛藤してもいる。変化に抵抗しつつ、変化を求めてもいる。個々の文化は、その文化に特有の症状と心理的葛藤を生むと考えられる。文化は、その社会の適応行動であると同時に、それと遺伝子レベルでの人間性とのきしみでもあり、双方の力動の妥協形成としての症状でもあると考えられるのではないか。ならば、文化を相対化する精神分析や心理療法的視点が必要だろう。(文化精神分析、あるいは文化心理療法は、文化処方というパースペクティブを生み出す可能性があると言うことも可能だろう。)
個々人の心理的問題や症状は、巨視的に見れば、文化に内在する葛藤のもがきの表現とも考えられる。文化移行は、ある意味では、その過程を個人の内面で高速で実演するものであるとも考えられるだろう。日本文化を相対化する視点は、今後、日本社会が多様性に開かれ、成熟し、発展していく上で、非常に重要な示唆をもたらすに違いない。
(文責、平山)