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サウスベイ マネジメント セミナー( Southbay management seminar )は月一回のセミナーを中心に勉強し、時々に親睦をする、乃ち「よく学び、よく交友する」そのような会です。

2004年度 12月 - 日系アメリカ人に学ぶビジネス観-社会学的考察

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2004年度 12月 - 日系...
講師 山本剛郎氏
講師紹介と略歴
カリフォルニア州では、19世紀末に日本人移民が農業労働者として入植、その中には、自ら農業経営に乗り出し、大きな成功を収めた例がある。その中で、安孫子久太郎(あびこ・きゅうたろう)の主導による農業コミュニティー「ヤマト・コロニー」「クレッシー・コロニー」「コーテス・コロニー」は、1906年から1919年にかけて北カリフォルニアに作られ、現在でも形を変えて、そのコミュニティーは存続している。日系アメリカ人の生き方、事業の進め方、子供(次世代)との関わり方から、現代の日本人が学ぶものは、何か。2004年4月からロサンゼルスで、調査をしている関西学院大学社会学部教授の山本剛郎氏が、社会学とは何かを説明し、安孫子久太郎の足跡、コーテス・コロニーの現状および最近入手した資料などを報告・紹介する。


〔山本剛郎氏プロフィール〕
  関西学院大学社会学部教授。担当分野は、人間社会で生じるもろもろのできごとを、村落や都市との関連で考察・分析する地域社会学。京都大学文学部(地理学)、大阪大学大学院を卒業。大阪大学文学部助手、天理大学教養部講師を経て、関西学院大学社会学部へ。おもな著作に、『都市コミュニティーとエスニシティ』(ミネルヴァ書房)、『阪神・淡路大震災の社会学』(昭和堂)、『地域生活の社会学』(関学出版会)。1985年5月から1986年9月、UCLA社会学科客員研究員としてロサンゼルスに滞在し、日系アメリカ人コミュニティーの成立と展開過程を研究。2004年4月から2005年3月まで、UCLAアジア系アメリカ人スタディー・センターの客員研究員としてロサンゼルスに滞在中。今回は、日系アメリカ人コミュニティーを、農業の観点から、その変動を調査している。


講義内容
社会学とは何か
 明治になって、Society ということばが日本に入ってきて、「会社」「社交」「社会」という訳語が候補になり、その中から「社会」に決まった。明治以前の日本では、Societyに相当することばは、「世間」であった。人間関係は、何かしてあげた
いな、と思うことから始まる。期待しあうことから、関係が生まれる。そして、役割が生じて、組織が生まれる。人間の組織は、「家族」という集団から、「制度」へと、組織が大きくなるにつれて、発展していく。

社会学と日本人移民史
 カリフォルニア州では、19世紀末に日本人移民が農業労働者として入植、その中には自ら農業経営に乗り出し、大きな成功を収めた例がある。その中で、安孫子久太郎(あびこ・きゅうたろう)の主導による農業コミュニティー「ヤマト・コロニー」
「クレッシー・コロニー」「コーテス・コロニー」は、1906年から1919年にかけて北カリフォルニアに作られ、現在でも、形を変えて、そのコミュニティーは存在している。わたし(山本)は2004年4月からカリフォルニアに来て、現存するこうしたコミュニティーで生きるひとたちのインタビューをしている。今日は、わたしの研究経過を報告する。

事業家、安孫子久太郎
 新潟県出身。生まれてすぐ母親が亡くなり、母親の実家で育てられる。14、15歳の時東京は出て洗礼を受ける。津田米子と結婚。米子の姉、津田梅子は、津田塾大学の創設者。安孫子は、日本人が差別を受けるのは、出稼ぎ根性でいるからだと、アメリカへの定住を訴える。そのため、新聞社、銀行、労働者斡旋会社(日米勧業社)、殖産会社を作った。

ヤマト・コロニー
 サンフランシスコから車で、1時間ほどの距離にある、マーセッド・カウンティーに、安孫子は、1906年にヤマト・コロニーを作った。ヤマト・コロニーは、高学歴、クリスチャンの集団だった。その後、近くに仏教徒とクリスチャンが混じり合ったクレッシー、コーテス・コロニーができるが、身近な距離であったにもかかわらず、協力関係がなかった。
 コロニーの日本人は、地元の白人と対立することを避けるため、商店などはあえて開かなかった。しかし、白人と仲良くしていれば、差別はなくなるという理想は崩れ、日米開戦、日本人の強制収容が行われる。

コーテス・コロニー
 わたし(山本)は、20年前と今回と2回、コーテスの調査を行っている。この間の変化は、インターマリッジ(異人種間結婚)が増え、離婚率も上がっている。学歴が高くなるにつれて、農業に従事しなくなっている。また、農業規模も、80年前は、20から40エーカーで生産が成り立っていたが、現在は最低100エーカーが必要。コーテ
スの農業は企業化し、白人が経営するコーポレーションが多い。

創意工夫の国府田敬三郎
 国府田米で、有名。福島県出身。元武士だった父は精米業を営んでいた。敬三郎は教師をやっていた。敬三郎は、労働者としてはアメリカへに入国許可が、出なかったので、視察という名目で1907年、25歳の時、アメリカに入った。飛行機でモミを蒔く方法を考案し、カリフォルニアでは米ができる南限のサリナスで、戦前、米を作った。日本人の土地所有権を認めさせるために「民権擁護協会」を作たり、日本人の米国帰化権を認めさせるためのロビー活動に潤沢に資金を出した。日本から農村青年
の、カリフォルニアへの受け入れの先頭に立った。(非買品、『国府田敬三郎伝』が福島の新聞社から出版されている)

日本人移民の実業家から学ぶこと
● 事業の絶頂期に次ぎの方策を考える。いいことは長く続くはずがない。
● 密かに考え、大胆に勇気を持って行動する。
● スケールの大きな発想
● 徹底した調査・研究。他人がやったことで、マネできないことはない。
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