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合氣道練心館 館長所感集

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 合氣道 練心館道場
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感じ取る力

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今年の館長演武は何と中学生が元... 今年の館長演武は何と中学生が元氣一杯に受けを取ってくれました。 大人クラスの演武です。女性の袴... 大人クラスの演武です。女性の袴姿は凛々しくて素敵ですね。 子どもつづきクラス(小3~)の... 子どもつづきクラス(小3~)の演武です。子どもの頃からきちんと「感じ取る力」を養っていって欲しい。 子どもすみれクラス(~小2)の... 子どもすみれクラス(~小2)の演武です。子どもたちの笑顔が溢れる健全な社会に一日も早く戻りますように。
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 令和5(2023)年1月15日(日)。
 練心館道場では演武会も兼ねた大きなイベントである「鏡開き」が無事行われました。
 当日は多くの方々にお越し頂き、誠にありがとうございました。





 さて、「鏡開き」と言えば、毎年、館長年頭挨拶としてその年の練心館道場のテーマを発表しております。

 昨年は「人間のあるべき姿―コロナよりも怖いのは人間だった―」と題して、コロナ禍で社会から大きく失われつつある本来の人間らしさを、もうそろそろ取り戻す方向に皆がマインドチェンジして行かないと、却って取り返しのつかない事態になり兼ねないと、僭越ながら警鐘を鳴らさせて頂きました。

 https://jp.bloguru.com/renshinkan/431033/2022-02-09

 そして、今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」。

 ということで、例年通り予め原稿等は無く、当日お話した内容を思い出しながら、以下、書き進めて行こうと思います。
 最後までお読み頂けたら幸いです。
(※鏡開き当日、ご来場下さった方々はご理解頂けると思いますが、本年も文字化に当たり、話の内容を一部割愛させて頂きましたことをご了承下さい。)





 皆様、明けましておめでとうございます。
 今年もこうして多くの方々にお集まり頂き、「鏡開き」のイベントができることを心より感謝申し上げます。

 毎年、「鏡開き」の館長年頭挨拶では、その年の練心館道場のテーマを発表させて頂いております。
 早速ですが、今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」で行こうと思いました。
 このテーマに思い至る切っ掛けとなったのは、昨年11月中旬に目にしたある方のツイートでした。
 そのアカウントは、社会で「発達障害」とか「ギフテッド(特定の分野で突出した才能を持っている)」等とされる子どもの子育てについて提言をしているものでした。
 若干表記表現が違うかも知れませんが、そこにはこんなことが書かれていました。

 「普段から言語より高い次元でものごとを思考・記憶していると『ある日突然できなくなる』という現象が起きやすいのではないか。言語というものは決して万能ではないが、あらゆる分野で常に安定的成果が求められる現代社会では、やはり有効なツールである。」

 この文章を読んで真っ先に浮かんだことは、合氣道開祖、植芝盛平先生に代表されるような武術・武道の世界で天才的な達人・名人と呼ばれる先生方のことでした。

 武術・武道の世界で天才的達人・名人と呼ばれている方の多くが、まさに言語を超越したもっと高い次元で技を繰り出し、それを理屈ではなく身体で記憶しているのだと思われます。
 そして、それらの「神業」と呼ばれるものが心の状態如何によって上手く行ったり行かなかったりすることを経験する中で、常に心を求め、心を整える必要性に氣付くのではないかと思われます。
 それ故、こうした天才的武術・武道家の多くが最終的に神や宇宙、愛などを説く様になり、ある意味、宗教的になるのは必然なのではないかと思われます。
 合氣道開祖・植芝盛平先生は口を開けばいつも日本神話の神様の話をされておられ、弟子が技について技術的な質問をしてもそれに対して延々と神様の話をされるので閉口した、といった類のエピソードは枚挙に暇がありません。

 一方で、何事も言語を通して思考し記憶している所謂「凡人」とも言うべき我々一般人は、「心」の様な実体のない雲を掴むような話はどちらかというと苦手です。
 そんな我々が技術の再現性を保つために必要なのが言語化された理論なのでしょう。
 現在、武術・武道の世界の多くの者が常に追求しているのが「身体操作」や「武術理論」だと言えます。
 言語で思考し言語で記憶している一般的な現代人である我々が、どうすれば達人技を体現出来るのか、そしてそれを体得したとしても、どうすればそれを弟子にきちんと伝えられるのだろうか。結果として言語で説明できる「身体操作」や「武術理論」に頼らざるを得ないのも必然なのだと思われます。





 しかし、ここで思い起こされるのが、令和2(2020)年「鏡開き」の年頭挨拶でお話したその年の練心館道場のテーマ「心の世界を求め、心で目的を達成する」です。

 https://jp.bloguru.com/renshinkan/371819/2020-04-20

 ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルは、弓道の伝説的名人、弓聖、阿波研造(あわけんぞう)先生に弟子入りし、技術を追求し鍛練を重ねるスポーツとは根本的に次元の違う、日本古来の弓道の稽古法に数々のカルチャーショックを受け、後に名著『日本の弓術』を著します。

 師である阿波研造先生の教えは、とにかく力を抜き心身の強張りを取り去り、我を捨て去ることでひたすら無心となり、そうすることで、自身の現状と目標とする状態との間に目に見えない橋を架けて繋げ、それらを自然に一体化させていくといったような、高度に精神的な方法でした。

 何事も科学的根拠を優先し合理主義を重んずるような現代人にとっては、それは非常に非効率的でコストパフォーマンスの悪い方法に感じられるのでしょうが、もともと、近代化以前の日本では、あらゆる分野でこういった心を求めて目的を達成するような精神的な方法が行われていたのではないかと思われます。

 近代(西欧)科学の基本的態度は「主観」と「客観」の分離だといいますが、私自身、今までも色々な生徒さんを見るにつけ、高度に知的な教育・訓練を受けて来たような方に限って、稽古でも、技を客観的分析対象として自身から突き離し、主観である自分がつぶさに観測しようとするせいで、いま一つ身体も魂も技に没入できていないという姿を見てきました。
 あらゆる雑念を取り払い、身体も魂も没入させることを仏教では「三昧(ざんまい)」と言いますが、阿波研造先生の説かれた弓道の教えもそれに近いものではないかと思われます。
 そして、ほぼ100%の人々が近代的学校教育を受け、所謂「科学的態度」を身に付けた現代社会において、この非効率的な「心の世界を求め、心で目的を達成する」ようなやり方は、今や絶滅の危機に瀕していると言えるのかも知れません。

 しかし、日本の武道というものの本来の稽古・修行のあり方は、むしろこの「心の世界を求め、心で目的を達成する」という方法なのではないかと思います。
 そして、それは言い換えれば、「言語を超えた次元で思考・記憶し、常に心を整えることでそれを体現する」ということなのではないでしょうか。

 そして「言語を超えた次元」や「心を整える」といったこと、これらを常に忘れずに稽古・修行することで磨かれるのが「感じ取る力」だと言えます。

 武術・武道界に信奉者が多いことでも知られる野口整体の創始者、野口晴哉(のぐちはるちか)先生も、すでに昭和の時代に、現代人が最も失ってしまった人間に本来備わっていた素晴らしい能力が「感じ取る力」だとしきりに仰っていました。

 近代化以降、日本人が脈々と受け継いできた精神的文化の多くが非科学的な迷信だと斥けられ、戦後、合理主義や効率主義が加速する中、科学万能というやや思い上がった考え方が世間を覆い尽した感があります。

 自分自身、科学の発展の恩恵を受けながら日々暮らしている現代人ですから、科学や言語、理論を否定する氣は毛頭ありません。
 しかし、社会の現状を見るにつけ、やはり科学や言語、理論ばかりを重視する風潮が見受けられ、これは明らかに偏っているのではないか、というのが偽らざる自分の本音です。

 「科学や理論」と「人間の感じ取る力、感性」は、本来、車の両輪であって、両方がきちんと働くことで人間社会も正しく真っ直ぐに進むのだと思います。
 そして現代社会は、余りにも科学や理論ばかりを偏重し、おかしなことになってしまっている感は否めないのではないでしょうか。





 今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」。

 当道場の合氣道のスタイルはもともと「氣」や「丹田」といった実体がなく未だ科学では解明されていないものを重視するものです。
 したがって、必然的に感覚、感性をフル動員して「感じ取る」ことをしなければ本質的な上達はできず、稽古を通して、現代人が失いつつある「感じ取る力」を磨き、取り戻すことができるものであると確信しています。





 昨今、世界情勢は激動し、政府やマスメディアの流す情報を、もう鵜呑みには出来ないということに段々と多くの人々が氣付いてきました。
 そんな時代を生き抜いて行かなければならない状況で、我々庶民の力強い味方となるのも、この「感じ取る力」だと思います。
 これからの時代は、政府やマスメディアが繰り返し流す情報でも、直感的に「何か変だ」「違和感がある」と感じたならば、自身を疑いながらも自ら調べ、自身の頭で考えてみてから自分なりの結論を出すのがより望ましいと思われます。
 もちろん、結論を急ぐ必要等なく「分からない」という答えのまま、しばらく保留して様子見をするというのも良い方法だと思います。





 そこで最後に、普通の市井の人間が、科学的根拠や理論等とは関係なく、当たり前に直感的に感じることが結構確かで信頼できるものだという自分の実体験を、現在の社会状況にも当てはまる一つの寓話として披露したいと思います。



 亡き父はゴリゴリの理科系の人間でした。
 東京の某有名国立大学の大学院を出て、現在のインターネットの原型とも言える「データ通信」や黎明期の「人工知能」の研究者をしていました。
 そんな父は、とにかく何に付けても理論、理屈、データ、科学的根拠、の信奉者で、人間の直感や人間的な感性等は曖昧で非科学的な物として斥ける傾向がありました。
 そんな父がある日、どこで見付けたのか、毎日飲み続けることで凄く健康に良いお茶、というものを買って来て嬉しそうに毎日それを飲み始めたということがありました。
 すると、時を同じくして父の体中に謎の湿疹が出始めたのです。
 母も自分も「原因はそのお茶意外に考えられないから、もう飲むのはやめた方が良い」とアドバイスしました。
 しかし父は受け入れてくれません。自分が良いと推奨した物を科学的根拠もなく否定されたことが科学者としてのプライドを傷付けたのでしょうか。
 父は、お茶に付属していた成分表と睨めっこし、そこに湿疹の原因となりそうな化学的成分がないか自分なりに色々と調べているようでした。
 もちろん、医学、薬学、生理学といった分野は父も全くの専門外ですが、元来、物事を科学的に調べたりすることが好きなタイプなので、若干楽しそうにしながら自分なりに色々と調べた結果、やはり、このお茶と湿疹の因果関係はないとの結論に至ったようでした。
 しかしその後、湿疹は酷くなる一方で、とうとう病院の皮膚科を受診しましたが、原因不明でただ対処療法としての薬を処方されただけでした。
 その間、家族は「とにかく一旦、あのお茶を飲むのをやめた方が良い」と言い続けていましたが、その頃になるとさすがに父も根負けして「そんなに言うなら一旦飲むのをやめてみよう」とやっとのことで折れてくれました。
 そのお茶を飲むのをやめた途端、父の湿疹はきれいに治ったのは言うまでもありません。
 「だから最初から言わんこっちゃない」「人騒がせな」と家族から顰蹙を買ってしまったちょっと可哀想な父のエピソードでした。



 さて、コロナ騒動が始まって丸3年経ちました。
 強毒株として恐れられていた武漢株やアルファ株、ベータ株が猛威を振るい、社会をパニックに陥れていた令和2(2020)年。
 蓋を開けてみれば、超過死亡数は前年比で約九千人も減少していました。
 しかし、令和3(2021)年の春以降、日本の超過死亡数は異常な上昇を見せ、その年は戦後最大の記録を出してしまいました。
 そして昨年の令和4(2022)年。日本の超過死亡数は更に尋常ではない数を記録し、現在日本の死者数はまるで戦時中と言っても過言ではない状況だそうです(これ程の異常事態になっているにも関わらず、マスメディアが余りにもきちんと報道しないことに違和感を禁じ得ませんが・・・)。
 一体何が日本人をそこまで死に至らしめているのか?
 自分は「あれ」以外に理由は考えられないと思っています。
 もちろん、真相は複雑な要因が絡んでいるのかも知れませんし、専門家でもない一介の町道場の師範が断定できるような問題ではないことは言うまでもありませんが・・・。



 いずれにせよ、我々市井に暮らす庶民がこのような激動の時代を正しく生き抜く智恵として、理屈抜きに直感的にものごとを「感じ取る力」というのは決して無駄にはならないと思われます。



 今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」。
 そんな訳で、今年も合氣道練心館道場を宜しくお願い申し上げます。
#コロナ騒動 #ブログ #仏教 #合気道 #弓道 #新型コロナウイルス #武術 #武道

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心の世界を求め、心で目的を達成する

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中学生が揃って杖術の型を披露し... 中学生が揃って杖術の型を披露しました。 女子高校生の演武。袴姿が凛々し... 女子高校生の演武。袴姿が凛々しいですね。 70代でも現役で稽古を続けられ... 70代でも現役で稽古を続けられ、日々向上し続けることができる。これも合氣道の素晴らしさです。 今年の館長演武は「胸突き自由技... 今年の館長演武は「胸突き自由技」「正面打ち自由技」「杖取り」「太刀取り」をやりました。 道場でキッズダンスチームを編成... 道場でキッズダンスチームを編成して、Foorinの「パプリカ」を踊りました。練心館道場37年の歴史の中で初の試みです。



 お久し振りです。
 3月18日(水)放送のテレビ朝日『あいつ今何してる?』にて、フリーアナウンサーとして活躍する新井恵理那さんが通っていた合氣道道場として当道場が紹介されました。
 ご覧になって下さった方々から、たくさんの反響を頂き、誠にありがとうございました。
 この件に関しましては、また次回のブログにでも書こうかと思っております。



 思い起こせば、3か月前の1月19日(日)に道場の「鏡開き」のイベントが無事終わり、ホッとしたのも束の間、突然親族の不幸があり、そんな状況下で何とか確定申告を済ませ、今度は全国放送のテレビ番組で道場を紹介してもらうという栄誉にあずかり(私も出演致しました)、そうこうしているうちに世界は新型コロナウィルスの感染拡大で大変なことに・・・。
 全く、人生は流転し、世の中は激しく移り変わって行くものです・・・。



 ところで、例年通り今年も「鏡開き」の館長挨拶では、「練心館の今年のテーマ」を発表させて頂きました。
 あれから3か月経ってしまいましたが、例によって今回も予めの原稿などはありません。
 取り敢えずは、3か月前のことを色々と思い出しながらここに書き記して置こうと思います。



 皆様、明けましておめでとうございます。

 昨年の練心館道場のテーマは「型(形)を信頼する」でした。
 劇作家で批評家の福田恆存氏の論考などを引用して、「型(形)」があるからこそ人間は救われるのだ、といったお話をしたと思います。

(※参照)https://jp.bloguru.com/renshinkan/342729/2019-02-13

 それは確か、曹洞宗の大本山である總持寺の僧侶のお話から着想を得たものでした。



 早速ですが、今年の練心館道場のテーマは、「心の世界を求め、心で目的を達成する」で行こうと思います。



 今回のテーマに思い至った経緯は、漢方医として活躍され、一般向けの著書も多数書かれている桜井竜生(さくらいりゅうせい)さんのエッセイを読んだことが切っ掛けです。
 そのエッセイの内容は、桜井氏が、『日本の弓術』(ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルが日本滞在中に弓道の伝説的名人、阿波研造(あわけんぞう)に入門し、数多のカルチャーショックを乗り越えながら修業に没頭してゆく様が書かれた名著)を読んで衝撃を受け、ご自身の漢方医としての仕事にも照らし合わせて深く考えさせられた、というものでした。


 ドイツ人であるオイゲン・ヘリゲルは、当初、日本の弓術もヨーロッパのアーチェリーや射撃と同じ、所謂「スポーツ」であろうと考えていましたが、その予想は阿波先生によって真っ向から打ち砕かれます。

*「弓術はスポーツではない」

*「弓は筋肉を弛めて力を抜いて、心で引く」

*「無心になれ」

*「的を狙ってはいけない」

*「弓を引いたら矢がひとりでに離れるまで待つ」

 等々。

 的に矢を当てるためのテクニックやコツを習得するよりも、力を抜き、無心になり、自然に矢が的と一体となる感覚を掴め、という阿波先生の教えは、漢方医としても、無理に治すことだけに執着せず、無心を追求してただ診察治療することで患者さんが快方への良い流れに乗る、という、診療現場でもしばしば起こる現象に何か通じるものを感じる、とのことでした。

 そして、物事を成し遂げる時には、二種類の達成方法があるのではないか、と桜井氏は言われます。

 一つはスポーツや現代医学のように、徹底的にテクニックを磨きコツを掴み、鍛錬を通して達成するという方法であり、もう一つは、阿波先生が説かれたような、力を抜き、我を捨て去ることで、現状を、目標となる状態に自然と一体化させていく、という精神的な方法だと言います。
 いずれにせよ、後者のような「心の世界を求め、心で目的を達成する」という精神的な方法を我々日本人は過去に持っていたということを忘れてはいけない、と『日本の弓術』は思い出させてくれた、とのことでした。



 ここではいつも言っていることですが、合氣道はスポーツ化を免れた現代では稀有な武道です。

 完全にスポーツ化し、「いかに相手より先に多くのポイントを取るか」「いかに相手をK.O.するか」の観点ならば、科学的かつ合理的にフィジカルを鍛錬し、徹底的にテクニックを追求する方が確かな結果を得られることは確実でしょう。
 それらはオリンピックや国際大会で活躍するアスリートの姿を見れば自明のことです。
 しかし、これもいつも言うことですが、そうなってしまった時点で、我々の世界では、それらはやはり厳密には「武道」と呼ぶに相応しくないのではないか?というのが自分の本音です。



 先程いくつか簡単にまとめた、弓聖、阿波研造先生が『日本の弓術』の中で説かれている教えは、合氣道風にアレンジすれば、そのまま合氣道にもぴったり当てはまります。

*「合氣道はスポーツではない」
 オイゲン・ヘリゲル風(柴田治三郎訳)に言うのならば、合氣の「術」とは、主として肉体的な修練によって誰でも多少は会得することのできるスポーツの能力、すなわち「相手を倒す」がその標準と考えられるような能力、ではなく、日本弓術と同様に、それとは別の精神的な鍛練に起源が求められるものだ、と言えます。

*「合氣道の技は筋肉を弛め力を抜いて、心を積極的に駆使することでより理想的に成立する」
 リラックスして心と身体を完全に一体化させた「心身統一体」になることで、身体の重心や臍下丹田(腹圧)の力といった、むしろ強大な力が自在に扱えるようになるものです。

*「我を捨て去り、いかに無心になれるかどうかも技の完成度を大きく左右する」
 心の中での「我」、すなわち拘りや思い込みが強過ぎると、それはすぐさま身体の力みや強張りに直結します。それでは「心身統一体」は成立しません。

*「相手に技を掛けてやろう、倒してやろう、と狙ってはいけない」
 これらがまさに克服すべき「我」そのものであり、この「我」は、事に臨んでの臨機応変が求められる武道では、却って心身の自由を制限しパフォーマンスを下げてしまう要因となります。

*「相手の意思を尊重してやれば相手を正しく導くことができ、結果相手は喜んで倒れる」
 相手の攻撃の軌道は、相手の意思そのものの方向性であり、相手の氣の流れそのものです。それらを邪魔することなく尊重してやれば相手を正しく導くことができ、結果として相手は喜んで倒れてくれます。



 科学万能の時代とも言える昨今では、「心の世界を求め、心で目的を達成する」ような方法は、非効率的で費用対効果の悪い、時代遅れのものだと言われてしまうかもしれません。
 明治の近代化・西洋化以降、日本人は具体的に可視化されたテクニック(技術)や数値化して比較考量できる成果を追い求め、それなりに大きな成果を出してきたという歴史があります。
 最近ではそこに「情報」という要素も追加され、情報収集の能力こそが物事の結果を左右するとまで喧伝されるようになってきました。

 しかし、今の時代に、逆に「心の世界を求め、心で目的を達成する」方法だからこそ得られる、大切なものもあるのではないかと思うのです。



 合氣道家としても名高い哲学者・思想家の内田樹先生は、我々が真に「ものを学ぶ」とは、自身の「価値観そのものが変容し進化する」ことだと以前から頻りに説かれています。
 それは譬えるならば、「便利で有用そうなアプリを手っ取り早く自身にダウンロードする」という作業では決してなく、「自身を根本から突き動かしている基本OS(Operating System)そのものを書き換える」ことだと言えます。

(※参照)https://jp.bloguru.com/renshinkan/278405/2016-10-05


 目に見える上達のスピードは確かに遅いのかもしれませんが、「心の世界を求め、心で目的を達成する」方法で何らかの技芸を身に付けた者は、稽古・修行を通して、「価値観そのものが変容し進化」している、ということが言えるのだと思います。
 そしてそれこそが、昔から武道や芸事などで重視されてきた、稽古・修行を通して技だけではなく、心・魂を磨き、人間を磨くということの真相なのではないでしょうか。


 「心の世界を求め、心で目的を達成する」という方法は、確かに明確な具体性に欠けた、曖昧で、雲を掴むような話に聞こえるかもしれません。
 しかし、画一的な近代学校教育や西洋式軍隊、近代スポーツなどが導入される前の江戸時代以前の日本では、意外と誰もが普通にやっていたことなのではないか?とも思うのです。
 そして本来、そういったやり方こそが、あるべき日本の伝統に則った武道や芸事の稽古・修行のあり方なのではないかと思います。
 これもいつも言うことかもしれませんが、「稽古」とは、「古(いにしえ)を稽(かんが)える」という意味ですから・・・。


 今年の合氣道練心館道場のテーマは、「心の世界を求め、心で目的を達成する」。


 もちろん、そればかりでは習う側の生徒さん達は大変でしょうから、要所要所ポイントを押さえて、きちんとテクニックやコツもお伝えします。
 しかし一方で、「心の世界を求め、心で目的を達成する」という方法で身に付けた技芸は、血肉化し、魂にまでも深く浸透すると言えます。
 そして、それらは年齢をいくら重ねても決して衰えることはない筈です。
 心も、魂も、そして生き様までもが合氣道家になれてこそ「~道」と呼ぶに相応しいものであり、そういったものこそがテクニック(技術)の巧拙を超えた「本物」であると言えるのだと思います。


 今年の合氣道練心館道場のテーマは、「心の世界を求め、心で目的を達成する」。

 本年も皆様からの温かなご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。
 ご清聴ありがとうございました。
#ブログ #合気道 #弓道 #武術 #武道

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実戦は当身が七分(ななぶ)

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        (※写真①)「...         (※写真①)「密着した状態(0距離)からの打撃」
 ミット代わりのタウンページにピタリと拳を当てた状態から、瞬間的に拳の先の一点に「氣」と「重心」を集中させます。
 昔、ブルース・リーが公開し世界に衝撃を与えた中国武術の技法「寸勁(ワンインチパンチ)」ならぬ「ゼロインチパンチ」ですね。
 生命に係わる危険な技法なので、練習では絶対に身体に直接当てないことです。
        (※写真②)「...         (※写真②)「松濤會空手(江上茂先生)の突き」
 先代館長、藤野進先生直伝の松濤會空手独特の「スー突き」です。
 伝説の空手家、江上茂先生により打撃力よりも貫通力を目指して考案されました。
 全身をリラックスさせ、拳の先端から伸びやかに「すぅー」っと突きます。
 本来は「中高一本拳」で行うものですが、ここでは「平拳」になっていることはご容赦下さい。
        (※写真③)「...         (※写真③)「システマのストライクに似た打撃」
 松濤會空手の「スー突き」をコンパクトにアレンジすると、システマに似た打撃になります。
 「スー突き」同様に全身の脱力が大事ですが、特に、肘、肩のリラックスが要となります。
 システマのストライクは、破壊を否定した「非破壊の打撃術」なのだそうです。合氣道の崇高な理念にも通じる、ある意味、究極の打撃、当身なのではないかと思います。
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 お久し振りです。

 いきなり「らしくない」タイトルで始まりました。なので皆様には先に謝っておきます。

 日頃、「戦争やテロの惨禍を知らず、平和な日本で暮らしてきた者が、気軽に『実戦』などという言葉を使うべきではない」と主張してきた自分ですが、
 https://jp.bloguru.com/renshinkan/242691/2015-06-23
今回のブログのタイトルを決める上で、やはり一番キャッチーでインパクトのあるフレーズが、もともとは合氣道開祖、植芝盛平先生の言葉であり、養神館合気道創始者、塩田剛三先生も著書の中で力説されていた「実戦における合気道は、当身が七分(ななぶ)」というものでした。

 なので、今回ばかりは柄にもないタイトルで恐縮ですが、ご勘弁頂きたいと存じます。



 さて、巷でよく言われる「合氣道の技は実戦では使えない」という言葉、全くその通りであると同時に全く見当違いな意見でもあります。

 空手の型や中国武術の套路(※とうろ、型の意)は基本、独りでやるものですが、日本武道の伝統では「受け(打太刀)」と「捕り(仕太刀)」が二者一対でやるため、どうしても「形」そのものを実戦での敵の制圧方法だと勘違いされがちなのでしょう。

 古流剣術や古流柔術でも、現代武道の合氣道でも、「形」は、その流儀の本質的な身体や心の使い方を学び、それらを繰り返すことでその理合、術理を心身に染み付かせていくための「教材」に過ぎません。
 まさに「型(形)は実戦の雛型ではない」ということですね。
 https://jp.bloguru.com/renshinkan/306291/2017-09-13

 柔道家やレスラーにがっちり組み付かれた状態を呼吸投げで投げようとしたり、ボクサーのパンチを取って小手返しを決めようなどというのは、ナンセンス以外の何物でもありません。
 いざ命の懸かった実戦になれば、感覚・感性を研ぎ澄まし、身体能力や周囲の環境をフル動員させて、その瞬間瞬間の閃きで動く以外に方法はありません。

 結果として、開祖や塩田剛三先生の仰る通り、「実戦における合気道は、当身が七分」ということになるのだと思います。



「死ぬか生きるかというような状況に身をさらした場合や、多勢を相手にした場合などは、一瞬の勝負になりますので、当身や瞬間の投げじゃないと身を守り切れません。逆に言えば合気道の本質は、そういうギリギリの闘いにおいて発揮されると言ってもいいでしょう。
 さて、当身といっても、合気道の場合は拳や蹴りなどにこだわりません。体中いたるところが当身の武器になります。(中略)触れたところがそのまま当身となるわけです。
 これは、相手の攻撃をよけてから反撃するのではなく、逆にその攻撃の中に入っていくことによって可能となる技です。といっても、ただやみくもに体を相手にぶつければいいのではなく、そこに体全体から発する力を集中させなければなりません。」
 (塩田剛三『合気道 修行』竹内書店新社 P33~34 より)



 合氣道の稽古では、「受け」が「取ろうとする」「打とうとする」「突こうとする」瞬間に「投げ」は相手と氣を結び、心を合わせ身体を合わせるという高度な技法が要求されます。

 初心者の方にはまだその実感が得られず、一体何のことやら?と思われるかも知れませんが、これを「空間の合氣」と呼ぶ方も居られるようで、それぞれレベルの差はあれど、合氣道の稽古では誰もが意識するしないに関わらず、自然にやっていることです。

 その、相手と氣を結び心を合わせる瞬間は、決して「争い」ではなく、目には見えない氣を媒介とした互いの心身の「調和」が生まれます。
 そして実は、我々がいつも稽古でやっているこの相手と氣を結び、心を合わせる瞬間こそが、実戦では捨身で入身して当身を入れる瞬間です。

 合気会師範として長年活躍され、柔道、空手道、居合道、杖道、などの他武道の経験も豊富だった西尾昭二先生は、「当身の呼吸」という言葉を使ってこれを説明されています。



「我々の体技の投げ、押さえに必要な、つくり、崩しは、ほとんど当身なんです。私の場合、当身の手法と呼吸を、つくりや崩しに使っています。
 私が入った頃は合気道には投げ技なんてほとんどなかったんです。入身投げ、四方投げ、小手返ししかないんです。
 ( 中 略 )
 投げというのは、つくり、崩し、掛け、が三位一体になっているもの。(中略)それを私の場合は、当身の呼吸でもって、つくり、崩しをやっているのです。
 よく相手を倒して押さえてから、『やぁーっ』なんてやっていますが、あれは合気道ではありません。本来はやる前に、一緒に当身が入るべきなのです。
 それを我々はやるわけにはいかないから、その呼吸で相手を崩して、投げ、押さえの形で、合気道らしい表現でやるんですね。実際は当身なのです。」
 (『決定版 開祖を語る直弟子たち 植芝盛平と合気道Ⅱ』合気ニュース P144~146 より)



 また、塩田剛三先生はもっと平易な「タイミング」という言葉を使ってこの「当身の呼吸」を説明されています。



「何が大切かというと、タイミングです。
 ボクシングなんかを見ていても、何げなく出したパンチで相手がKOされてしまうことがよくあります。これなどは、相手の動きの変化と、こちらの出したパンチが、ちょうどいいタイミングでぶつかった例です。
 相手の動きの一瞬の状態を察知して、ここぞというときに突きを出すことが大切なのです。
 それは相手の出鼻を叩く場合もありますし、逆に、相手が空振りして体が伸び切ったところを叩く場合もあります。
 面白いもので、タイミングさえちゃんと合えば、こちらはさほど力を使わずとも突きが効くのです。拳が痛いだのなんだのということはありませんし、衝撃が反発力となって自分に返ってくるようなこともありません。
 ちょうど野球のバッティングで、ジャストミートしたときにほとんどボールの勢いを感じないのと同じです。」
 (塩田剛三『合気道 修行』竹内書店新社 P42~43 より)



「相手の出鼻を叩く」というのは剣術で言うところの「先の先(せんのん)」であり、「相手が空振りして体が伸び切ったところを叩く」というのは「後の先(ごのせん)」ですね。

 因みに、自分も稽古中に技の説明をする時はこの「先の先」「対の先(ついのせん)」「後の先」という剣術用語を度々使用してしまうことがありますが、開祖、植芝盛平先生はこれらの用語があまりお好きでなかったと聞きます。
 確かに、これらの用語は合氣道の理想である「宇宙と完全に一体化した敵味方もない絶対的境地」から見れば、空間的な分断と時間的な対立を感じさせます。
 結局は、相対的な勝ち負けの域を出ない次元の低いものと言わざるを得ないのかも知れません・・・。



 話を元に戻します。

 当身をするタイミング(呼吸)は、確かに剣術における「先(せん)の理」であり、我々がいつも稽古でやっている「相手と氣を結び、心、身体を一致させる」瞬間ですが、それと並行して、ボクシングの「パンチ」や空手の「突き」とは根本的に性質の違う、合氣道(※柔術)の「当身」の技法を我々はマスターしなければなりません。

 合氣道(※柔術)における「当身」とは、一言でいえば「重心移動」そして延いては「重心操作」です。

 そのために何よりも一番大切な事は「リラックス・脱力」と「一点への集中」です。
 更に付け加えるならば、「股関節、膝関節、肩甲骨の柔らかさと動きの滑らかさ」「体軸の確立」「呼吸法と腹圧の感覚の養成」「心身統一体」等々、書き連ねていくときりがないのでやめて置きますが、この感覚をどうやって身に付けていくかといえば、要は、普段やっているいつもの合氣道の稽古を、いかに緻密に丁寧に行うかということです。

 塩田剛三先生も次のように仰っています。



「首を傾げる人もいるでしょう。突きで勝負を決めるなら、よほどその一発に威力が無ければダメだ。しかし、合気道の道場で空手やボクシングのようにパンチ力を鍛える稽古をしているなんて、聞いたことがないぞ、と。
 確かにそのとおりです。合気道では普通、巻藁を叩いたり、レンガを割ったりというようなことはやらないわけですから。
 ところが、じつは突きの稽古をちゃんとやっているのです。何も特別なことではありません。道場生の皆さんがいつも繰り返している基本動作や基本技、あれがそのまま突きの稽古になっているのです。
 突きが威力を発揮するために必要なことといったら何でしょうか。それは、右足なら右足から踏みこんだときに、体全体の重心がそれに乗るかどうかということです。
 乗ったら効くのです。
 ( 中 略 )
 踏みこんだときに膝がなめらかに前にせり出し、重心をそのまま前へ伝えることができるかどうかなのです。これができると、体全体の力が拳に乗って、大きな威力を生み出すことができます。これが集中力です。そのとき当然、前の膝のせり出しと腰の前進にともなって、後足が引きつけられる形となります。
(中略)合気道の最も基本的な体の前進動作は、そのまま突きの動きとして応用できるというわけです。
 ( 中 略 )
 要は、重心の移動、それを前に伝えること、そして拳にその力を乗せること、この三つをすべて一致させた動作ができればいいのです。」
 (塩田剛三『合気道 修行』竹内書店新社 P35~39 )



 リラックスと心身統一を忘れず、感覚を研ぎ澄ませて丁寧に基本技や基本動作を繰り返し稽古していると、自ずと「重心移動」の感覚が分かってきます。それが更に進んでいくと、自身の体内で自在に「重心操作」が行えるようになってきます。

 そしてこの修練には中国武術、特に太極拳、形意拳、八卦掌(拳)などの内家拳の技法が非常に参考になります。

 中国武術では「重心移動(操作)」と「氣の集中」で生み出す力を「勁力(けいりょく)」として、「沈墜勁(ちんついけい)」「撞勁(とうけい)」「靠勁(こうけい)」「纏糸勁(てんしけい)」「十字勁(じゅうじけい)」等々、様々に分類され綿密に体系付けられています。これらを参考にすると体得するための大きなヒントとなるかも知れません。



(※写真①)をご覧下さい。

 胸に当てたミット代わりのタウンページに拳をぴったり当てた状態で脱力します。瞬間的な重心操作で拳の先端に重心を集中させると重い衝撃波が相手に伝わります。
 ただ、ここで重要なことは、この練習をする場合は安全を考慮して、絶対に直接人体には当てず、必ずミットや座布団、分厚い辞書や電話帳などを間に入れること。これが鉄則です。

 実はこの打撃法は、昔の武術における、一撃で相手の内臓を破壊する暗殺術でした。

 約20年前、自分がまだ高校の教員だった頃、当時世間では格闘技が大ブームでした。そんな男子生徒の中に、是非ともこの「勁力」を体験したいという者がいたので、胸に分厚い教科書や資料集などを数冊当てさせ、この打撃をやったことがありました。
 その生徒は口から霧のようなものを吹きながら、教壇の前から教室の後ろのロッカーまで吹っ飛び、ロッカーに背中を強打してそのまま尻もちを着いて倒れてしまいました。
 幸い、何とか大事には至らないで済んだのですが、あの時は、可愛い生徒を自らの手で殺してしまったのではないかと心底焦りました。この一件以来、自分はもう大幅に手加減した打ち方でしかこの打撃はやったことがありません・・・。

 しかしその後、更に研究を進めて判ったことがありました。

 派手に後ろに吹っ飛ばす打ち方は、ダメージも体内を通り抜け後ろに突き抜けていくむしろ安全なやり方で、「勁力」が体内に留まるような打ち方こそが、ダメージも体内に残留させ相手を殺傷してしまう本当に危険な打ち方だということでした。
 そして、重心操作さえできれば身体のどの部位でもこの打撃はできますが、中国の伝説的武術家、李書文の「二の打ち要らず」の逸話通り、有名な八極拳の「頂肘(ちょうちゅう)」が中国武術の中でも最強の威力だと言われるように、「肘」での打撃が一番威力があるということでした。



 続いて(※写真②)をご覧下さい。

 打撃を受けるモデル(実験台?)になって下さったのは、武道・格闘技好きで自身も武道家でいらっしゃる某情報誌編集者のKさんです。

 Kさんの個人ブログでは「合気道で吹っ飛ばされた!」とありますが、実は正直に白状すると、(※写真②)のこの突きは合氣道の当身ではなく、練心館先代館長、藤野進先生直伝の、日本空手道松濤會、江上茂先生が考案し伝授された、全身をリラックスさせて先端から伸びやかに「すぅー」っと突く、所謂「スー突き」というやつです。
 https://lineblog.me/youngdellneng/archives/1549861.html

 先代館長の藤野進先生は、合氣道に転向する以前、この江上茂先生門下で松濤會空手を最高段位まで修行されていました。
 因みに、新体道・剣武天真流創始者の青木宏之先生は兄弟子になります。

 江上茂先生は、沖縄から本土に初めて空手を伝えた松濤館流空手創始者、船越義珍先生の高弟でしたが、自身の空手修行に限界を感じ、その時運命的に出会った「親英体道」の井上鑑昭(※いのうえのりあき、植芝盛平の甥で元々は合氣道の指導者だった)先生に師事し、柔らかく伸びやかな、全く新しい異次元の空手を創始されました。

 この松濤會空手独特の「スー突き」ですが、「鍛え上げられた空手家のボディには空手の突きが一番効かなかった」という衝撃の事実から研究を重ね、鋼のようなボディにも確実に効かせるため、「衝撃力」ではなく「貫通力」を求めて創始されたものだそうです。
 やはり、人間の身体は瓦やレンガとは違うということでしょう。



 更に(※写真③)をご覧下さい。

 ここ数年の自分の主要な研究テーマだったのが、臍下丹田の力や「勁力」のような破壊的な力ではなく、合氣道で高度な「氣結び」の技を行う時のような、体軸も丹田も消し去って相手と共に宇宙そのものに溶け込むような、そんな高次元の合氣の当身はできないものか、というものでした。

 そんな自分にヒントをもたらしてくれたのが、ロシア武術「システマ」独特の打撃である「ストライク」でした。

 そして、全身をリラックスさせて先端から伸びやかに突く松濤會空手の「スー突き」を、動きをコンパクトにして、自然に立った状態から肩、肘をリラックスして先端から伸びやかに出すと、システマの「ストライク」のようなものになることを発見しました。

 システマの「ストライク」の理念は、打撃技でありながら「破壊の否定」であり、まさに「非破壊の打撃術」なのだそうです。

 これはある意味、合氣道の目指す理想である、愛と調和、そして平和への道にも通じるもので、これこそが究極の打撃、究極の当身だと言えるのかも知れません。

 システマは、もともとは旧ソ連の特殊部隊兵士のために開発されたものだそうですが、なぜか合氣道にも通じる高度な精神性を持ち合わせています。
 合氣道も、戦時中は旧日本軍で採用されていましたが、戦後、愛と調和、平和への道として新たにスタートしたという点では、システマと何か共通するものがあるのかも知れません。

 今後、我々合氣道家が「システマ」から学ぶべきことは多そうです・・・。
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型(形)を信頼する―合氣道はなぜ人を救うのか―

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子どもたちが6人揃って杖術の型... 子どもたちが6人揃って杖術の型を披露しました。 中学生も大人に交じって頑張って... 中学生も大人に交じって頑張っています。 夫婦円満の秘訣は合氣道。息もぴ... 夫婦円満の秘訣は合氣道。息もぴったりです。 70代でも現役で日々向上し続け... 70代でも現役で日々向上し続けられる。これも合氣道の素晴らしさです。 今年の館長演武は、後ろ手首取り... 今年の館長演武は、後ろ手首取り、後ろ両肩取り、をやりました。





 大変遅くなってしまいましたが、平成31年「鏡開き」での年頭挨拶を記して置こうと思います。

 例年通り、今年の「練心館のテーマ」を発表させて頂きました。
 今年の合氣道練心館道場のテーマは、「型(形)を信頼する」です。
 これもまた例年通りですが、あらかじめ原稿などは特に用意せず、頭の中にある内容を、その場の勢いだけでお話したので、当日の話の内容とは一字一句同じではありません。
 以下、あれこれと思い出しながら書き記していこうと思います。




 皆様、明けましておめでとうございます。
 本日はこうして大勢の方々にお集まり頂き、心より感謝申し上げます。

 さて、毎年、鏡開きの年頭挨拶では、「練心館の今年のテーマ」を発表しております。
 昨年は「人類の進化」でした。そして一昨年は確か「世界平和」でしたね。

 今、改めて思い返すと、住宅街の片隅にある小さな町道場が、人類がどうとか、世界がどうとか、何たる誇大妄想を・・・、と失笑を禁じ得ませんが、まあ、この合氣道という道を通して、本当にごくわずかな微力でも「世界平和」や「人類の進化」に貢献できるよう、自分なりに頑張ってきたつもりです。

 今年はもう「世界」とか「人類」といった壮大なテーマは掲げず、もっと地に足着いた具体的なテーマにします。
 とは言っても、やっていることが「己を宇宙と一体化させる修行の道(氣に合するの道)」である「合氣道」ですから、その意味する所はどうしても「世界の生成発展」とか「宇宙の真理」とかになってしまうのは避けられません・・・。




 話を本題に戻しますが、ズバリ、今年の合氣道練心館道場のテーマは、「型(形)を信頼する」でいこうと思います。

 実は、今回のこのテーマを思い付いた切っ掛けは、昨年秋に放送していたあるテレビ番組でした。

 そこでは、横浜市鶴見区にある曹洞宗の大本山、總持寺での禅の修行が紹介されていました。
 そして修行僧の指導役である単頭(※たんとう)を務められる、柴田康裕(しばたこうゆう)さんという方がお話されていた内容に深い感銘を受けました。


 柴田康裕さん曰く、
「今、『型』が無いわけではないが崩れている時代です。それでいて自由だとか個性だとか、あるいは創造なんて言います。でも元々の『型』が崩れているから不安定なんです。だから皆、不安なんですよ。でも、ここには釈迦より2500年続いてきた信頼できる『型』がある。そこが何か安心するのではないでしょうか・・・。」




 合氣道はスポーツ競技化を免れた数少ない現代武道です。
 私たち合氣道家は、ごく一部の例外を除いて、乱取り稽古や試合はしません。
 ひたすら繰り返すのは「型(形)稽古」です。
 それも、独りで行う「空手の型」や「中国武術の套路」と違い、「打太刀」と「仕太刀」が二者一対となって行う、日本伝統の「型(形)稽古」です。

 手前味噌な話で恐縮ですが、ここ練心館道場にも、日本の侍が数百年守り通してきた伝統に基づいた、信頼できる「型(形)」がある、と言えるのではないかと思います。
 そして、合氣道の「型(形)稽古」は、力まず、ぶつからず、争わず、相手と調和し、相手を正しく導き、延いては宇宙そのものと調和する心で行うことが肝要だと言われます。

 この日本剣術由来の「二者一対となって型(形)を成す」という「型(形)稽古」の方法は、ある意味、宇宙の真理の体現でもあると言えるのです。




 私たちが暮らすこの宇宙には陰陽(マイナスとプラス)異なるエネルギーが存在します。
 例えば、男と女、天と地、太陽と月、昼と夜、夏と冬、生と死、動と静、N極とS極、陽子と電子、遠心力と求心力、斥力と引力、等々、言い出したら切りがありません。

 合氣道開祖、植芝盛平先生の説かれた古神道由来の教えの中に「一霊四魂三元八力(いちれいしこんさんげんはちりき)」というものがあります。
 「一霊」とは「直霊(なおひ)」、「四魂」とは「荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)」、「三元」とは「剛、柔、流」、そして「八力」とは「解と凝、動と静、引と弛、合と分」ですが、この「八力」こそが宇宙に存在する陰陽異なるエネルギーそのものだと言えます。

 そしてこの、陰陽異なるエネルギーが存在するおかげで、世界に「エネルギーの循環」が発生します。
 この陰陽異なるエネルギーが織りなす「エネルギーの循環」こそが、実はこの世界の生成発展の原動力になっているのです。
 難しいことを説明しなくても、「男(オス)と女(メス)が織りなす様々なドラマ」=「エネルギーの循環」こそが、全ての生物の繁栄の基本だと言えば簡単ですね・・・。

 そしてこの世界の生成発展の原動力である「エネルギーの循環」が、つつがなく、滞りなく、行われるためには、まずは陰陽異なるエネルギーが美しく調和するということが求められます。
 要するに、男(オス)と女(メス)が敵対して、いがみ合ってばかりいたら、全ての生物は絶滅してしまう、という例を考えれば簡単です・・・。


 そしてここで一番大切なのは、伝統的日本剣術や合氣道の、二者一対で行う「型(形)稽古」は、単に「敵を倒す」などといった狭義の解釈で理解するものではなく、この宇宙に存在する陰陽の調和とエネルギーの循環、更にはそれによる世界の生成発展をも含んだ、宇宙の真理の体現なのだ、と理解することです。

 打太刀(受け)は打太刀(受け)として自身がやるべきことを全うし、仕太刀(投げ)は仕太刀(投げ)として己のすべきことを全うする。そして両者が美しく調和した時、私たちは、ちっぽけな自我から脱却し、「型(形)」そのものに完全に同化したかのような感覚を覚えます。それは延いては、宇宙そのものとの同化であり、天から与えられたかけがえのない命としての、純粋な生の充実、まさに本当の「安心」を得ることができるのです。




 以前から自分は、「合氣道にはなぜ人を救う力があるのか?」という問題について考えていました。

 そして、学生時代に読んだ、劇作家で評論家の福田恆存氏の論考が、30年近く経った今頃になって、改めて、武道の「型(形)稽古」というものの持つ深い意味を理解するために、大きなヒントを与えてくれていることに気付かされました。
 今回、自分の言葉で上手くまとめようと試みたのですが、どうも上手くいかなかったので、ここで直接、引用させて頂きます。



「私たちが個人の全体性を恢復する唯一の道は、自分が部分にすぎぬことを覚悟し、意識的に部分としての自己を味わいつくすこと、その味わいの過程において、全体性が象徴的に甦る。
 よくいわれる自我の確立というのは、そういうことだ。」
               (『人間・この劇的なるもの』より)

「私たちが型に頼らなければ生の充実をはかりえぬのは、すでに私たち以前に、自然が型によって動いていたからにほかならぬ。生命が周期をもった型であるという概念を、私たちは、ほかならぬ自然から学び知ったのだ。自然の生成に必然の型があればこそ、私たちはそれにくりかえし慣れ、習熟することができる。そして偶然に支配されがちの無意味で不必要な行動から解放される。なぜなら、型にしたがった行動は、その一区切り一区切りが必然であり、それぞれが他に従属しながら、しかもそれぞれがみずから目的となる。一つの行動が他の行動にとって、たんなる前提となり、手段となるような日常的因果関係のなかでは、そのときどきの判断によって採用された行動は、たいてい無意味で不必要な結果に終る。個人の判断が、その必然性の一貫にどれほど緻密な計算をはたらかせようとも、それはほとんどつねに偶然の手にゆだねられる。
 必然とは部分が全体につながっているということであり、偶然とは部分が全体から脱落したことである。
     ( 中 略 )
 型にしたがった行動は、(中略)行動をそれ自体として純粋に味わいうるようにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱卻し、それ自身において完全な、生命そのものの根源につながることができるのだ。」
               (『人間・この劇的なるもの』より)



 私たちがいつも当たり前のように行っている「型(形)稽古」の「型(形)」は、「世界の生成発展の原動力の象徴」であり、「宇宙の真理の体現」そのものでもあります。

 また同時に、福田恆存風に言うならば、断片としての部分に過ぎず、何事も単なる偶然性に支配されがちな「個人」が、「必然性」や「全体性」を回復するための「型(形)稽古」であり、真に生の充実を図るための、生命そのものの根源につながるための大切な「型(形)稽古」なのです。

 様々な分野で型が崩れ、それでいて自由や個性、創造などと要求され、あらゆるものが不安定であるが故に、不安を抱えた現代社会。
 やはり合氣道には信頼できる「型(形)」があり、大きな「安心」があるのだと言えます。
 合氣道にはなぜ人を救う力があるのか?、その辺に答えがあるのでしょう。




 ところで、古来より日本の芸事の修業では「型(形)」が重視されてきたというのは言うまでもありませんが、そこでは「守→破→離」という段階をきちんと順を追って進むことが肝要とされてきました。
 この「守破離」とは元々は千利休の言葉だそうですが、これは簡単に言えば、「初心者→上手→名人」という過程です。

 「守」は、基本の型(技)を確実に身につける段階。
 「破」は、それら基本を更に発展させる段階。
 そして「離」は、独自のスタイルや新しいものを確立する段階だと言われ、この「離」こそがまさに時流の「自由・個性・創造」そのものだと言えるでしょう。

 そして、これと関連して、昔から大切な戒めとして言われてきたのが「型破り」と「形なし」です。

 「型(形)」を確実に身に付けている者だけが、大胆な「型破り」にもなれるのだが、一方で、基本的な「型(形)」すら体得していない者がそれを真似た所で、所詮は「形なし」に終わってしまう、というやつです。

 私たちはそんな「形なし」にならない様、くれぐれも注意しなければなりません。
 そしてできることならば、昨今の時代の要請でもある「自由・個性・創造」にもきちんと応えられるような人間になることが望ましいのかも知れません。
 言わばそんな「型破り」な人間になるためにも、まずはきちんと「型(形)」を身に付けるということを忘れてはいけないのでしょう。

 そのためにも、まず、私たちが最初にやらなければならないのは、目の前にある合氣道の「型(形)を信頼する」ということ以外にないのではないかと思います。



 そんな訳で、本年も、皆様からの温かなご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。
 ご清聴、ありがとうございました。      
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合氣道開祖 植芝盛平 翁 降臨???

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       (※写真1)  ...        (※写真1)
 平成25(2013)年、1月1日12時23分、横浜市都筑区牛久保西一丁目の天照皇大神に隣接する公園にて撮影。
 どことなく、合氣道開祖、植芝盛平 先生に似ていないだろうか?。
       (※写真2)  ...        (※写真2)
 平成25年(2013)年、1月1日12時21分、横浜市都筑区牛久保西一丁目の天照皇大神に隣接する公園にて撮影。
 是非、逆さにしてご覧下さい。やはり、額に円型の飾りを付け、立派な顎鬚を生やした御顔が確認できます。
       (※写真3)  ...        (※写真3)
 平成25(2013)年、1月1日8時00分、横浜市戸塚区舞岡町の舞岡八幡宮にて撮影。
 まるで龍神のように、東の空へ猛スピードで飛び去って行きました。
               ...                 (※写真4)
               合氣道開祖、植芝盛平 先生です。
               ...                  (※写真5)
 合氣道開祖 植芝盛平 先生が師と仰いだ宗教家、「大本」の出口王仁三郎 聖師です。日本神話の神、素戔嗚尊に扮装された御姿です。
 額に円型の飾りを付けておられます。
 




 合氣道練心館館長を継いでからの自分は、かつての趣味がそのまま仕事になってしまった感があり、合氣道やその他武術研究以外に何か他に趣味はないか、と問われると、恥ずかしながらすぐには思い浮かびません。
 しかし、そんな自分の数少ない趣味として挙げられるのが、神社仏閣や聖地(サンクチュアリ)に参拝することだと言えるかも知れません。



 自分の家は臨済宗円覚寺派の檀家です。それはそれで大切に思っていますが、自分には、自らが何かしら特定の宗教の信者であるという自覚は、正直、余りありません。
 そういった意味では、自分はごく一般的、典型的な「日本人」だと言えます。
 それでも、自分の思想・信条を強いて言えというのならば、合氣道開祖、植芝盛平先生の言葉「合氣道は武道であって宗教なのじゃ」に倣って、植芝盛平先生の説かれた合氣道の愛と調和、そして平和の教え、言うなれば「合氣道教!?」の信者ということになるのかも知れません・・・(※そんな団体・組織を作る気は毛頭ないのでご安心下さい)。



 そんな自分ですが、実は、子どもの頃から不思議な体験や不思議なシンクロニシティを数多く体験してきました。たぶん少しだけ、俗にいう「霊感体質」というやつなのかも(?)知れません。
 また、父方の祖父がキリスト教神学校出身で、母方の祖父が寺の住職の息子、更には大学、大学院時代にお世話になった指導教授がもともとは宗教学者(ご自身は神道の神主の資格を持ちながら、キリスト教や仏教も幅広く研究されていました)だったこともあり、自然と人智を超えたものや神聖なるものへの畏怖や憧憬が培われていった、というのはかなりあると思います。


 したがって傍から見たら、自分は立派な(?)「スピリチュアル系男子」だと思います。


 そんな「スピ系男子(?)」の自分は、ここ数年は神社仏閣に参拝した時はいつも空の雲を気にしています。
 理由は、なぜか不思議な雲が現れることが多いからです。
 その切っ掛けは、平成25(2013)年の元日の初詣でした。



 平成25(2013)年の元日の朝、当時入院中の母の病気平癒の祈願も兼ねて、以前は家族で初詣に行っていた横浜市戸塚区の舞岡八幡宮に一人でお詣りに行きました。
 ちょうど朝の8時頃でした。
 神社の石段を登ろうとした時、突然「あの雲をご覧なさい!」と50代後半くらいの、どことなく知的で落ち着いた雰囲気のある、見知らぬ紳士に声を掛けられました。
 その男性の指さす方向を見ると、一匹の龍か大蛇のような一筋の雲が、猛スピードで東の空へ飛び去って行く様子が見えました。
 自分は急いで携帯電話のカメラで写真を撮影し(※写真3)、巳年の初詣に空に大蛇を見たのか、あるいは飛び去っていく辰年の龍を見たのか、何れにせよ、新年の始まりである元旦から非常に縁起の良いものが見られたことを喜びました。
 そしてその日はずっと、空の雲が気になって仕方ありませんでした。



 お昼頃、練心館に戻り、地元の氏神様である横浜市都筑区にある天照皇大神(てんしょうこうたいじん)に参拝して空を眺めると、朝に舞岡八幡宮で目撃した龍のような雲が、何本も風に乗って上空を猛スピードで飛んでいました。

 「何だ・・・、今日は偶々こういう雲がたくさん飛ぶ気象条件だったというだけで、別に珍しくも何ともなかったのか・・・」

 とやや落胆しましたが、そんな時、猛スピードで飛ぶ二匹の龍雲が真上で激しく衝突し、上空に「X」の姿を作りました。
 それはそれでとても珍しい出来事のような気がして、思わず携帯電話のカメラで写真を撮りました。


 帰宅してから「X」状の龍雲の写真を見て驚きました。


 「X」の交差する部分に、額に円型の飾りを付け、立派な顎鬚を生やした、老人の顔のようなものが写っており、全体を見ると、褌を一つだけまとった仙人の様な老人が脚を広げ両腕を思い切り伸ばしてバンザイしている姿に見えるではありませんか・・・。
 しかも、最初に撮った写真は脚が上で頭が下ですが(※写真2)、その2分後に撮ったより判りやすい方の写真は頭が上、脚が下で(※写真1)、どちらも御顔には、額に円型の飾りを付け、立派な顎鬚を生やしている姿が確認できます。


 この立派な顎鬚を生やした御顔は、何処となく、合氣道開祖、植芝盛平先生の御姿に似ているとは言えないでしょうか?(※写真4)・・・。


 実際、合氣道の稽古では相手の側面にバンザイをして飛び込む動作が多々あり、そう考えると、遥か上空で、植芝盛平先生が伸び伸びと合氣道の稽古をされている御姿にも見えなくもありません。
 まあ、身に付けられている物が褌一丁だけというのが少々解せない様にも思われますが・・・。



 額に付けた円型の飾りに関しては、植芝盛平先生が心の師として仰がれた「大本」の出口王仁三郎聖師が日本神話に登場する神々等に扮装された時に、よくこの様な円形の飾りを額に付けられていた様です(※写真5)。これは「太陽」または「月」あるいは「後光」を表しているのでしょうか?・・・。
 正直、自分にはよく解かりません・・・。



 これらの写真が、果たして、スピリチュアルや霊能の「本職」の人たちからはどう解釈されるのかも自分にはよく判りません。
 そんなものは信じないという方から見れば、ただの偶然、無理矢理なこじつけだと一笑に付されてしまうでしょう。


 しかし、元日の神社に初詣に行って現れた不思議な雲ですから、きっと神様が御降臨して御姿を現して下さったか?・・・、あるいは、本当に神界にいらっしゃる合氣道開祖、植芝盛平先生が御降臨下さり、御姿を現して下さったのか?・・・、何れにせよありがたく、おめでたく、縁起の良い写真としてこれからも大切にしていきたいと思っています。


 これをご覧になった皆様にも何かしらの御利益があったら?・・・嬉しいです。
 信じるか信じないかはあなた次第です・・・。
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合氣道は「護身術」なのか?

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戦後日本の殺人事件被害者数の推... 戦後日本の殺人事件被害者数の推移です(※年次統計より)
ピークだった1955年では「10万人中/2.4人」
2012年には「10万人中/0.3人」
60年で8分の1にまで減少しています
世界的に見ても驚異的な少なさだといいます





 合氣道はなんの目的で、この世に出てきたのか。その目的を知らずに、合氣道の稽古をしているのが、ほとんどの人であろう。
 合氣道は護身術に良いらしい。健康法としていいらしい。精神修養に良いと思う。などと、様々な考えで入ってきたのではなかろうか。それぞれの考えは、それぞれの人々の目的であって、合氣道の目的ではないように思うのである。合氣道は、それ等の考えを満たすものがあるかもしれないが、それは一部分に過ぎない。
     ( 中 略 )
 合氣道の稽古も、それぞれの目的で始めても、合氣道そのものの、真の目的を知らずにやっていると、大きな過ちを犯すようなことになるのである。
     (砂泊諴秀『合氣道で悟る』たま出版 P64より)





 合氣道をはじめとした、特に伝統的な日本の武術・武道の形が、現代に通じる護身術としての合理性と有効性を追求したものとはちょっと違う、と改めて気付かされたのはもう20年以上前のことです。
 元傭兵で対テロ訓練等の軍事教官経験があり、現在は危機管理コンサルタント、軍事アドバイザーとして活躍されている毛利元貞さんの著書を読んで、妙に腑に落ちる所がありました。





 戦闘護身術は武道なのか。答えは否だ。武道とは明らかな違いがある。それは戦闘護身術が敵を即座に殺傷することを目的としているからである。
 武道の道場ではつねに、師範がこう教えるはずである。武道は決してケンカの道具ではなく、心身を鍛え、道を極めるためのものだから悪用してはならぬ、と。
 だが軍隊では、生き残ったものが勝ちである。だからつねに、汚く戦って生き残れ、と叩き込まれる。相手を倒しさえすればそれでよい、殺される前に殺せ、というのが最大原則なのだ。ここが武道との根本的な違いだ。
     ( 中 略 )
 全身の動きと力を必要とする空手の攻撃技は、10キロ以上の装備を背中や腰に吊した状態では十分に威力を発揮できない。柔道技は相手をつかまなければ話にならないし、狭い室内や機内では投げ技を駆使するスペースがないことも多い。少林寺拳法や合気道の、型通りの関節技も実戦ではあまり効果的でない。興奮から大量のアドレナリンが分泌され、神経が鈍感になった相手に、関節技をキメるのは難しいからだ。こういう相手には当て身もあまり効かない。
     (毛利元貞『軍隊流護身術』並木書房 より)

 これ(※武道の意)は現地の兵隊に教えても時間がかかりすぎるという最大の欠点があるからだ。
 空手では「握り三年」とよく言われる。つまり、拳の握りだけに三年間の修行が必要、ということである。同様に柔道でも、受け身を完全にマスターして投げられ上手になるまで、半年から一年間は必要である。そして、何度も投げられながら、技を覚えていく。
 これでは戦場では役に立たない。修得するのにこんなに時間がかかるようでは、新兵を訓練して前線へ投入するのは不可能である。その前に紛争自体が終結してしまうだろう。
     (毛利元貞『新・傭兵マニュアル完全版』並木書房 より)





 あれから20年以上経ち、最近ではイスラエル軍格闘術「クラヴ・マガ」に代表されるような、純粋に護身術・制圧術としての合理性・有効性のみを追求した様々な新しい武術が、一般でも習えるようになってきました。それら「実戦護身術」として優れた物とはどういうものか、私なりに定義すれば、それは「素人でも手っ取り早く身に付いてそれなりに使えるようになるもの」ということになります。

 幕末に、討幕派と佐幕派が真剣での壮絶な斬り合いを演じていた時もそうであったように、実戦では高度な技法の数々や深淵な奥義などというものは無用の長物です。生きるか死ぬかの一瞬の駆け引きでは、シンプルな技法のみが信頼性の高い有効な技法だと言われます。毛利元貞さんの仰る通り、修得するのに膨大な年月が掛かり、古臭く、高度で繊細な技法の数々や深淵なる奥義を擁する伝統的武術や武道は、実戦ではあまり効果的でないと言わざるを得ないでしょう。

 一方で、そんな合理的で有効な「実戦護身術」を、逆に軍事教官でもない一般の人々が生涯を賭けて究める価値があるのか?と問われれば、私の答えは否です。
 伝統的武術や武道は、修得するためには多くの年月を要し、高度で繊細な数々の技法と道を究めるための奥深い精神性を併せ持つものですが、こういったものこそが真に、己の心を豊かにし、人生をより豊かなものにするためにも、生涯を賭けて稽古し探究するに値するものだと思います。

 それ故、自分で言うのも何ですが、練心館道場で教えていることはある意味、「実戦護身術」とは対極のものだと言えるかも知れません。
 うちでは全ての伝統的武術・武道に通じる普遍的な「本質」を何よりも重視します。それは丹田・体軸・脱力といった武術的身体感覚、そして心身統一、氣の原理、といったもので、これらは武技の質を高める効果もありますが、人生全般をより良く、心豊かに生きるためにも活かすことのできる優れた智恵の宝物となります。




 実はこんな自分でも、「実戦護身術」的なものも、教えようと思えばある程度は教えられるという自負を持っています。

 以前、ある公務員の女性から「職場の防犯訓練で犯人に襲われる役を押し付けられた、癪に障るので護身術を教えて欲しい。」という依頼を受けたことがありました。
 自分は合氣道の体捌きをベースに軍隊式格闘術を参考にして、それこそ普段道場で教えている深遠なる合氣道とは対極の、「素人でも手っ取り早く身に付いてそれなりに使えるようになる物」を1~2時間程レクチャーしました。
 訓練当日、怒声と共に迫真の演技で模擬包丁を突き付け迫り来る犯人役の警察官を、彼女は咄嗟に体捌きでかわし、模擬包丁を奪って壊してしまったそうです。そのせいで防犯訓練が一時中断になってしまったと聞き、間接的にとはいえ警察の方にもご迷惑を掛けてしまったかな?・・・と少し反省しました。
 小柄な一般女性が屈強な警察官の攻撃を退けてしまったと言えば、多少痛快な話にも聞こえるかも知れませんが、しかしここで絶対に勘違いしてはいけないのは「実戦で有効だった」などと早計に判断することです。訓練は飽くまでも訓練で実戦とは違います。
 犯人役の警察官の方も訓練で女性に怪我をさせる訳にはいかず、細心の注意を払っていたであろうし、まさか小柄な女性がいきなり護身技を仕掛けてくるとも思わず、虚を衝かれてしまっただけでしょう。
 昔から「生兵法は大怪我の基」と言われているように、「護身術を身に付けたから」「自分は強いから」などと言って己を過信することは、実戦では却って自らを窮地に追い込む結果となり、「百害あって一利なし」です。



 
 正直に白状すると、練心館で「女性クラス」をスタートさせた時、希望があれば「護身術」もレクチャーします、という触れ込みでした。
 しかし、合氣道の深い精神性とその技法の奥深さや面白さに比べて、「護身術」つまり「素人でも手っ取り早く身に付いてそれなりに使えるようになるもの」は、自分にとっては余りに薄っぺらく即物的で、どうしても魅力を感じませんでした。その結果、いつしか「女性クラス」でも本物の「合氣道」以外は余りやらなくなりました。




 現在、合氣道は様々な流派に分かれ、色々な価値観を持った指導者が教え広めています。
 中には「護身術」というキャッチフレーズを前面に押し出しているような所もあるかも知れませんが、個人的には、それは間違っていると思います。

 先程申しました通り、今の時代は、純粋に「護身術」としての合理性・有効性のみを追求した様々な新しい武術が、広く一般でも習えるようになってきました。
 冷静になって客観的に見れば、合氣道や伝統的武術・武道に比べて、それら「実戦護身術」の方が遥かに護身のためには合理的に出来ています。また、それら新興武術は、時代と共に変化する犯罪やテロの手口に合わせて常に刻一刻と進化し続けています。

 一方で合氣道や伝統武術・武道は、時代の変化や流行などを超越した普遍的な「本質・真理」を探究するものです。
 日本では古来、あらゆる芸事の練習を「稽古」する、と表現しましたが、「稽古」とは「古(いにしえ)を稽(かんが)える」という意味であり、合氣道や伝統武術・武道の形を、より純粋にその「本質」を学べるように変更するならまだしも、犯罪や武器の変化に合わせたり、表面的な実戦性・有効性に合わせたりして徒に変えてしまったならば、それはもう「稽古」とは呼べません。

 ましてや合氣道の場合、「護身術」を前面に押し出すことが果たして開祖、植芝盛平先生の遺志に適うのか、という合氣道のアイデンティティに関わる重大な問題もあり、極端なことを言えば、自分などは、「護身術」を前面に押し出すというのならば、代わりに「合氣道」の看板を降ろすべきではないのか?とまで思ってしまいます。
 実戦合氣道の達人として、もはや伝説的人物となっている養神館合気道創始者、塩田剛三先生ですら、晩年、「もう合気道が実戦で使われる必要はない。私が最後で良い。これからは和合の道として世の中の役に立てば良い。」と仰っていたと聞きます。
 私たち合氣道修行者は、この伝説的先人の言葉を、今後、合氣道が間違った道に進まずきちんと正しい発展をするよう願う、塩田先生の本心から出た嘘偽りのない言葉として、もっと重く受け止めるべきでしょう。




 世の中で、武道を習い始める人の動機の多くが「強くなりたい」というのは今でもあるのかも知れません。しかし、「強さ」とは一体何でしょうか?
 殴る、蹴る、投げ飛ばす、締め上げる、といった暴力を駆使して人を傷付け、制圧するスキルの高い人間を「強い」人間というのでしょうか?
 中にはそういった粗暴な者を「強い」人間だと思っている人もいるのかも知れませんが、本来、人間修行の道である「武道」が目指す「強さ」とは、決してそういったものではない筈です。

 元格闘家で、今は様々なジャンルで活躍されている須藤元気さんが、嘗て格闘技選手を引退する時、「現役選手として格闘技を闘っているうちは、いつまで経っても、自分の考える本当の意味での強い人間にはなれない、ということに気付いた」という興味深いことを仰っていました。
 プロの格闘家として闘っている以上は、常に自分より強い対戦相手を恐れ、自分がそれ以上強くなるよう追い込み続けなくてはなりません。それは青少年に人気の格闘漫画と一緒で、強い敵を倒しても次はもっと強い敵が現れ、それよりも強くなってその敵を倒しても、次には更にもっと強い敵が現れる、といった形で止まることがありません。それを「男のロマン」と呼ぶ人もいるのかも知れませんが、古く仏教ではそれを「修羅道地獄」「等活地獄」などと言ったのでしょう。

 人間修行の道である「武道」が目指す真の人間としての「強さ」とは、「心の強さ」「魂の強さ」です。
 イエスキリストは言います。
 「なんぢらの仇を愛し汝らを憎む者を善くし、汝らを詛ふ者を祝し、汝らを辱しむる者のために祈れ。なんぢの頬を打つ者には、他の頬をも向けよ。なんぢの上衣を取る者には下衣をも拒むな。」(ルカ6:27~29)
 どんなに敬虔なクリスチャンでも、日常生活でこの聖句をそのまま実践することは至難の技でしょう。しかし新約聖書のこの言葉に、自分は究極の「強さ」を見る思いがします。そして「武道」が求めるべき人間としての真の「強さ」も、こういったものではないかと思うのです。
 相手を倒すような「強さ」に憧れ、それを追い求めているうちは、それは、いつも何かに怯えて震えている人間が、「やられる前にやってやる!」と向きになって息巻いているのと同じで、結局は心が弱い証拠、つまり弱い人間ということです。
 むしろ、そういった「強さ」に一切憧れる気持ちなどなくなったとしたら、私たちは人間として真に「強く」なったと言えるのではないでしょうか?。




 「護身術」を前面に押し出している流派や道場では、生徒募集をする上では、必然的に暴力や犯罪に対する危機感・恐怖心を煽るような方法を採らざるを得ません。
 「世の中は暴力に溢れている、あなたは身を護れますか?」「街中の犯罪者はあなたを狙っている、あなたは生き残れますか?」「弱いといじめの標的になる、そうなったら君の人生お先真っ暗かもよ?」等々。
 しかしこの構図は、世の中に暴力や犯罪が蔓延すればするほど人々はその恐怖と危機感に囚われ、疑心暗鬼に陥り、護身のために銃を買い求め、結果として商売は大繁盛するという、俗に言う「死の商人(武器商人)」と何ら変わりはありません。
 「国難だ!」などと必要以上に煽り立てていると、いつの間にか心底「国難」を待ち望むような人間になりかねないのと一緒で、我々のような武術・武道を教える立場の人間が、たとえ人助けのつもりでも、「護身術」を前面に押し出すことが、必然的にいじめや暴力、犯罪の増加を心の奥底では期待するような(その結果商売は繁盛する)、そんな社会に呪いを掛ける行為に繋がりかねないというジレンマに、我々はもっと自覚的であるべきです。




 マスメディアでは連日のように凄惨な暴力・殺人事件が報道されています。
 最近も、身勝手な動機からの、世間を騒がす傷害・殺人事件が大きく報道されました。
 (※亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りすると共に、怪我をされた方々、事件に遭遇して心に深い傷を負った方々にも心よりお見舞い申し上げます。)

 こんな時は自分も正直、不幸にも事件の被害者になられた方が、もしも多少なりとも何らかの武術・武道の心得があったならば、せめて殺されずに重傷で済んだのではないか?、重傷ではなく軽傷で済んだのではないか?、上手く逃げることもできたのではないか?、などと色々と考えてしまいます。考えた所で失われてしまった尊い命は二度と戻っては来ませんが・・・。




 しかし、ここで敢えて、私たちにとって一番大切なのは、感情に流されず飽くまでも冷静で客観的な判断を失わないことではないか、と思うのです。

 今、日本では凄惨な殺人事件、傷害事件が著しく増加しているのか?と問われれば、決してそんなことはありません。

 戦後の「※年次統計」によれば、日本での殺人事件の被害者数は、ピークだった1955年の「10万人中/2.4人」から、2012年には「10万人中/0.3人」と、60年で8分の1にまで減少しています。
 この数値はここ数年もほぼ横這いを維持しており、日本での殺人事件の件数は世界的に見ても驚異的な少なさだといいます。
 日本が世界に向けて最も誇れるもの、それが比較的「平和で安全な社会」であって、殊更に我々のような立場の人間が「護身術」を標榜して人々に危機感を煽るようなことをするのは、まさに本末転倒だと言えるでしょう。

 子どもの頃よく視ていたテレビアニメ「ヤッターマン」の敵「ドロンボー一味」は、毎回インチキ商売でメカ作りの資金集めをしていました。
 いつの回でどんな話だったかはよく覚えていませんが、敵のキャラクター「ボヤッキー」が「人々の危機感を煽るのがインチキ商売の鉄則よ!」と嘯いていたのが今でも忘れられません。やはり、人々に徒に危機感を煽るようなやり方は「ドロンボー一味」のインチキ商売と本質的に変わらないのだと思います・・・。




 冒頭で、万生館合氣道創始者、砂泊諴秀先生の著書から引用をさせて頂きましたが、やはり、「合氣道には合氣道そのものの目的がある」ということを私たち合氣道修行者は忘れてはいけないと思います。
 以下、合氣道開祖、植芝盛平先生の言葉を引用して終わりたいと思います。





 ただ強ければよい、負けなければよい、と力と力とで争い、弱いもの小さいものをあなどり、それを乗り取ろうとする侵略主義になろうとしている、その魔を切り払い、地上天国建設精神にご奉公をするのが、合気の根本の目的なのであります。
     (『武産合氣』P111)

 一国を侵略して一人を殺すことではなく、みなそれぞれに処を得させて生かし、世界大家族としての集いとなって、一元の営みの分身分業として働けるようにするのが、合気道の目標であり、宇宙建国の大精神であります。
     (『武産合氣』P128)

 争いもない、戦争もない、美しいよろこびの世界を作るのが合気道である。
 合気は宇宙の生ける活動の姿であり、万有の使命の上に、息吹きするのである。空気となり、光となり塩となり、皆の前にご奉仕するのが合気道の合気たる由縁で、決して争いの道ではない。万有愛護の使命の達成をのぞいて、合気の使命は他にありません。
     (『武産合氣』P140)

 植芝の合気道には敵がないのです。相手があり敵があって、それより強くなりそれを倒すのが武道であると思ったら違います。
 真の武道には相手もない、敵もない。真の武道とは、宇宙そのものと一つになることなのです。宇宙の中心に帰一することなのです。合気道においては、強くなろう、相手を倒してやろうと錬磨するのではなく、世界人類の平和のため、少しでもお役に立とうと、自己を宇宙の中心に帰一しようとする心が必要なのです。合気道とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり愛の道なのです。
     (『武産合氣』P192) 
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合氣道で人類の進化!ー平成30年鏡開き年頭挨拶ー

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今年の館長演武は座技をやりまし... 今年の館長演武は座技をやりました。地味ですが「動きの質」を高めるためには必須です。 女子中高生による演武です。この... 女子中高生による演武です。この子は居合道もやっているだけあって、なかなか姿勢が定まっています。 小学1年生と(幼)年長さんの演... 小学1年生と(幼)年長さんの演武です。堂々としっかりやってくれました。君たちこそ「進化した人類」です。がんばれ!





 いつの頃からか、鏡開きの年頭挨拶では「練心館道場の今年のテーマ」を発表するのが恒例行事となってしまいました。
 例年通り、今年も原稿などは全く用意せず、頭の中に大雑把にある内容を思い付くままにお話させて頂きました。

 以下、今年の鏡開きでの年頭挨拶を思い出しながら書き留めて置こうと思います。話の内容としては、鏡開き当日と、まあ、大体ほぼ同じ(?)になるのではないか・・・と思います。



 皆様、新年おめでとうございます。
 今年もこうして大勢の方々にお越し頂き、心より御礼申し上げます。


 さて、鏡開きに毎年来られている方は既に御存知でいらっしゃると思いますが、今回も例年通り「練心館道場の今年のテーマ」を発表させて頂きます。
 昨年のテーマは、確か「世界平和」でした。
 住宅街の片隅にある小さな町道場が、また随分誇大なことを・・・、と呆れてしまわれた方も居られるかも知れません。
 しかし性懲りもなく、今年も大風呂敷を広げさせて頂きたいと思います。


 ずばり、今年の合氣道練心館道場のテーマは、「人類の進化!」で行こうと思います。


 昔から(※特に子どもたちにとって)合氣道の稽古を通して得られる大切な素養として、「争わずに物事を処理し、争わずに問題を解決する力」が身に付く、というのがありました。
 合氣道の技は全て、「力まない」「ぶつからない」「争わない」、そして「相手と調和し」「相手を導く」、つまり「争わざるの理」によって成り立っています。そんな合氣道の技を繰り返し稽古することによって、理屈ではなく、心と身体を通して自然に「争わざるの理」が身に付いていくと言われていました。
 この「争わずに物事を処理し、争わずに問題を解決する能力」とは、真に社会のリーダーに求められる必須の素養であり、帝王学の神髄とも言うべきものであります。
(※参照 http://jp.bloguru.com/renshinkan/230219/2015-01-28 )
 
 昨今、子どもたちに競争ばかりさせ、他人を打ち負かし自分が勝ち誇る練習ばかりさせている傾向は相変わらず否めませんが、やはりそんなことでは真のリーダーとしての器は育ちません。

 いつも申し上げていることですが、世の中で、争って白黒はっきりと勝ち負けを付けることで物事が処理できるのはスポーツの試合だけです。それはやはり、スポーツというものが本質的にただの「遊び」に過ぎないからだと言えます。
 現実社会での国際間の様々な対立や紛争で、争って白黒はっきり勝ち負けを付けた所で、根本的に何ら問題は解決せず、却って未来に根深い遺恨を遺したり、憎しみや復讐心を増長させたりするだけなのは自明のことでしょう。
 もしも現実に、争って白黒はっきり勝ち負けを付けることで、何の遺恨もなく問題を完全に解決させようとするならば、突き詰めれば、対立する異なる立場の者を皆殺しにして根絶やしにする以外に方法はないのではないか?と思います。
 もちろん、そんなことは人間のすることではなく悪魔の所業です。
 それ故、争って白黒はっきり勝ち負けを付けることでしか物事を処理し問題を解決できないような人間が社会のリーダーになったり、一国のリーダーになったりすることは、人類全てにとっての悲劇だと言えるのではないでしょうか・・・。



 合氣道の世界では昔から言われている「争わざるの理」、「争わずに物事を処理し、争わずに問題を解決する力」ですが、この能力は、これから先人類が、どういった方向に進化すべきなのか、その「進化の方向性」を示唆する大きな指針となるのではないか?。昨年のある日、自分にふとそんなインスピレーションが降りて来ました。
 その直感は、まさに遠い宇宙、M78星雲の彼方からやって来たのかも知れません・・・、などと申しますと、皆さんの中にはぎょっとされて「とうとう館長はおかしくなってしまったのか・・・?」と心配される方も居られるかも知れません。
 まあ、安心して聞いて下さい。



 昨年は「ウルトラセブン」放送50周年ということで、地上波の「東京MX2」と「TVK」で懐かしの「ウルトラセブン」を放送していました。
 たまたま偶然、第1話を視たことから、何となく最終の第49話まで、とうとう毎週楽しみに視る羽目になってしまいました。
 この歳になって改めて視てみると、「ウルトラセブン」は一見、勧善懲悪の子ども向け特撮ヒーロー番組の様でいて、実は、色々と考えさせられる深いテーマを持った作品だったのだなぁ・・・と今更ながらに気付かされました。
 現在も第一線で活躍する多くのクリエイター達が、「ウルトラセブン」から多大なる影響を受けていると言われているのも、本当に頷けます。

 その中でも、自分が特に印象に残った忘れられない回は、第26話「超兵器R1号」と第42話「ノンマルトの使者」です。


 「超兵器R1号」はこんな話でした。
 地球防衛軍が一発で惑星を消滅させてしまう程の超破壊兵器「R1号」を完成させます。
 ウルトラ警備隊の隊員たちも皆、それが侵略者を威嚇し、地球の平和のための強力な抑止力になると手放しで喜ぶ中、ただ一人、人類よりも遥かに進化した宇宙人であるダン隊員(ウルトラセブン)だけは悩んでいました。
 超破壊兵器の開発は、結局は地球人類が、宇宙規模での恐怖と疑心暗鬼に囚われた軍拡競争のいたちごっこに陥ることであり、それはまさに「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」である、と。
 そんなダン隊員(ウルトラセブン)の思いとは裏腹に、「R1号」の爆破実証実験には、地球から遠く生物の住んでいないとされるギエロン星が選ばれ、ギエロン星は人類の手によって一瞬で破壊され消滅してしまいます。
 しかし、ギエロン星には本当は生物が住んでいたのでした。
 「R1号」の爆発のショックと放射能の影響で、その生物は巨大怪獣「ギエロン星獣」へと変異し地球へ復讐しにやって来ます。
 ウルトラセブンは地球人類を守るために仕方なく、大量の返り血を浴びながらアイスラッガーでギエロン星獣を惨殺します。
 右腕を引き千切られ断末魔の叫び声を上げながら、最期は喉を切られ力尽きるギエロン星獣の姿が本当に哀れで仕方ありませんでした。


 また「ノンマルトの使者」は、地球の先住民は「ノンマルト」で、人類こそが侵略者だったという衝撃的な話でした。
 攻撃的で好戦的な我々人類によって住む場所を追われたノンマルトは、海底を住処とし、そこで静かに暮らしていました。ところが、人類による海底開発が激化し危機感を覚えたノンマルトは、とうとう自衛のための戦いに打って出たのでした。
 しかしノンマルトは人類に比べて戦闘には余り長けた種ではなく、ウルトラセブンと地球防衛軍の敵ではありませんでした。
 ノンマルトの海底都市を見付けたウルトラ警備隊は、「もしもこれが宇宙人の侵略基地だったら放って置けない」と総攻撃を仕掛け、街を徹底的に破壊し、ノンマルトを絶滅させてしまうのです。

 この、海の底で正義と悪の逆転する結末は、後にガンダムの富野由悠季監督が手掛けたアニメ版「海のトリトン」の原点なのでしょう。
 まさに、世の中に「正義」程あてにならないものはない、「正義」などというものは、立場の違いや時代の変化、時の為政者の都合でコロコロ変わるということでしょう。「正義」の反対は「悪」ではなく「また別の正義」であり、我々に必要なのは「正義」ではなく「寛容」である、とはよく言ったものです。



 今回、改めて「ウルトラセブン」を視て思ったのは、セブンは心の奥底では地球人のことを「何とも未開で野蛮な種族」だと感じ、本当はそんな人類の浅ましさや粗暴さを見るにつけ、心底悲しんでいたのではないか?ということでした。
 現在の使命は「地球を守ること」かも知れないけれど、何百年かの後、また別の星を守る任務に就いた時、今度は侵略者としての地球人類と戦わなければならない時も来るのではないか・・・?、そんな一抹の不安も、心のどこかで抱えていたのではないかと思われて仕方ありませんでした。
 しかしウルトラセブンは、そんな「粗暴で野蛮な地球人類」を決して見捨てたりはしませんでした。最後は自らの命を削りボロボロになりながらも地球を守り続けたのです。
 地球人類には、果たして愛するだけの価値があるのかどうか?、そんなことはお構いなしにただひたすら愛し、守り続ける。
 これこそまさに「無償の愛」であり、これは「神の愛」ではないか?、とも考えさせられました。


 話が完全に「ウルトラセブン評論」になってしまったので元に戻します。


 真に人類が進化するとはどういうことか?

 それはAI技術が進歩することでも、誰もが体内にマイクロチップを埋め込むことでも、火星有人宇宙飛行を実現させることでも、ましてや軍事技術が進歩することでもないと思います。

 我々人類が「争わずに物事を処理し、争わずに問題を解決する」ことが出来るようになった時、私たちは初めて、胸を張って堂々と、本当に「進化した」と言えるのではないかと思います。
 それが果たして何百年後になるのか?、はたまた何千年後になるのか?は判りませんが、遠い未来、いずれ人類は皆「争わずに物事を処理し、争わずに問題を解決する」ことが当たり前になる日が来ると、自分は信じています。


 未だ人類が野蛮さから抜け切れていない21世紀のこの時代に、合氣道を通して「争わざるの理」を学ぶ私たちは、言わば「人類の進化」の先駆けだと言えます。
 このことを自らの自信と誇りにして、今年も稽古・修行を頑張って参りましょう!。


 合氣道練心館道場の今年のテーマは、「人類の進化!」。


 本年も、皆様からの温かなご支援を賜りたく、何卒、宜しくお願い申し上げます。
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合氣道は「質」の学び ―形稽古とは何か―

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8月に、1年振りに勝沼の大善寺... 8月に、1年振りに勝沼の大善寺にお参りしてきました。
ご住職の奥様と、お互いにそれぞれ「逃げ恥」のロケが来た時のことなどを話して、楽しい時間を過ごすことができました。
写真はその日、境内にある役行者を祀った「行者堂」に参拝した時、空に現われた「海老」です。
「海老」は「長寿」や「幸運」を表す非常に縁起の良いものだそうですね。





 以前自分は稽古の時、こんなたとえ話(馬鹿話)をしました。


 ある国に貧しいながらも大変優秀な発明家がいました。
 彼は苦心の末に、電磁石の力で車体を浮き上がらせて滑らかに、しかも高速で走行可能な、夢の列車(リニアモーターカー)を発明しました。
 リニアモーターカーが実現すれば、理論上は最高時速500kmを超えるのも夢ではなく、そうすれば遠い町までもあっという間に行くことができるようになるだろう、と大きな話題になりました。
 そしていつの頃からか人々の間では、「リニアモーターカー」とは、とにかくスピードの速さが取り柄で、高速移動のための夢の超特急であるという認識が定着していきました。

 そんな頃、ある別の事業家が、
 「俺こそが本物のリニアモーターカーを発明した!」
 「俺の発明したリニアモーターカーは時速800kmも出せるんだぞ!」
 と吹聴し、ド派手で格好いい試作車を大々的にお披露目しました。
 ところがその試作車は格好ばかりで、台車の後にロケットエンジンを載せて轟音と共に火炎を噴射しながら疾走する、「リニアモーターカー」というよりは「ロケットカー」と呼ぶべきものでした。

 発明家は言いました。
 「それはリニアモーターカーではない!」

 事業家も言い返します。
 「何を言う!俺の発明した方が本物のリニアモーターカーだ!」
 「お前の方こそフェイクだ!」

 両者の論争はいつまで経っても収まりません。

 人々も、当初は二人の論争を静観していましたが、そのうち「発明家派」と「事業家派」に分断され始め、激しく言い争い、いがみ合うようになってしまいました。

 とうとうある日、権威のある人間が両者の論争に終止符を打つための妙案を思い付きました。
 「このような論争を収めるなど、いともたやすいことではないか。リニアモーターカーの命はスピードの速さなのだから、両者が競走してみればいい。」
 「競走して勝った方を本物のリニアモーターカーと認定すればいい。これこそが公正な物事の決め方であり、きっと民意でもある。」

 人々は諸手を挙げてこの意見に賛同しました。
 「そうだ!そうだ!」
 「白黒ハッキリと勝負を付けるようにすれば、嘘は通用しなくなる筈だ!」
 「本物ならば結果を出して証明できる筈だ!」

 かくして、人々の莫大な血税が投入され、全長数十kmはあろうレース場が突貫工事で完成しました。

 レース当日。
 人々が固唾を呑んで見守る中、遂にスタートのランプが点灯しました。
 じわじわと加速する発明家の車両を後目に、事業家の車両は火を噴きながら轟音と共にあっという間に視界から消え去って行きました。
 結果は事業家の圧勝でした。
 その速さといったら、途中、音速をも超えていたそうです。

 白黒ハッキリと決着が付いたお陰でやっと論争は収まり、人々は言い争うこともなくなりました。
 しかしそれ以来、この国では「リニアモーターカー」とは火炎を噴射しながら轟音と共に疾走するもの、ということになりました。
 めでたし、めでたし。



 我ながら、実にくだらない馬鹿話だと感心してしまいますが、上記のような「馬鹿げたこと」は、現代社会のあらゆる場所、分野、業界で実際に起きていることに近いのではないか(?)と思います。
 そしてこれはもちろん、合氣道の世界でも十分起こり得ることとして注意しなければならないと思うのです。


 さいたま市で振武舘黒田道場を主宰し、代々伝わる家伝の武術を継承されておられる黒田鉄山先生は、長年、月刊「秘伝」誌上で読者からの質問に答えるコラムを担当されています。
 そして黒田鉄山先生は、誌上でもことある毎に「型は実戦の雛型ではない」と繰り返し仰っています。
 この「型は実戦の雛型ではない」という戒めは、現代の全ての武術・武道修行者が肝に銘じるべき、型(形)稽古の鉄則であり、合氣道の稽古においても忘れてはならないものだといえます。



 私たちは、形稽古を通して何を学ぶのか?

 練心館ではいつも言っていることですが、それは「質」です。
 そしてそれをより具体的に言い換えるならば、「心身統一」と「氣の原理」であり、もっと細かく言えば、「体軸の感覚」「脱力」「丹田の感覚」「腹圧」「勁力」「身体の結び」「氣の感覚」「氣の結び」「相手の氣を導く」といったことです。

 しかしながら、実際は、武術・武道を志す人間の多くが、たとえそれが合氣道や古流武術のような形稽古を主体とする流儀であっても、ついつい目先の「強さ」や「敵を倒す」といった、目に見える現象としての分かり易い成果を求めて稽古してしまうという傾向は、否めないのではないかと思います。
 理由としては、世の中の多くの現代武道がスポーツ競技化しており、それらの稽古は、多くの人が「体育の授業」や「部活動」等で培ってきたスポーツの練習法と同じ感覚でやっても、特に違和感を感じない、ということにあるのではないかと思います。

 スポーツ・格闘技として、試合で相手を圧倒し、ポイントを取ったりノックアウトしたりと、「勝利」という明確な結果を出す目的があるのなら、「強くなる」「敵を倒す」の一心で、「乱取り」や「スパーリング」に励むスタイルの練習で一向に構わないし、むしろその方が効果的な練習法だと言えるでしょう。

 しかし、その方法論をそのまま形稽古に当てはめて、闘争心に燃えながら合氣道や古流武術の練習をやってしまうと、「形稽古とは本来何のためにやるものなのか」といった根本的な意味の抜け落ちた、全く以て意味不明な、訳の分からないものになってしまいます。
 その結果、苦し紛れに、形そのものを競技化したり、ただ闇雲に形の迫力やスピードのアップを目指したり、結局は、「形稽古で覚えた技をスパーリングで使えるようにするのだ」等と言った、形稽古本来の意味から逸脱した、完全に的外れで頓珍漢なことになってしまう傾向は否めないと思うのです。

 この言葉は黒田鉄山先生の完全なる受け売りですが、やはり、「型(形)は実戦の雛型ではない」のです。

 そもそも合氣道では、相手に手首を掴ませた状態から入り身投げをしたり、呼吸投げをしたりする形が多数ありますが、常識的に、普通に考えれば、これらの形が実戦を想定した戦闘法である訳がないと、誰もが気付く筈ではないかと思うのですが・・・。



 練心館では、「質」を求めて稽古することを重視しています。
 それを長く続けていると、自ずと合氣道のそれぞれの形稽古の意味(※その形稽古を繰り返すことによってどういった「質」を学ぶのか)が見えてきます。

 そして練心館では、「強くなる」「相手を倒す」ことを目的にして稽古をするな、と厳しく戒めています。
 それをやってしまうと、天性のセンスのある人以外は皆、見た目の形は合氣道のような体をしていても、力み癖のある人は力んだまま、ぶつかる癖のある人はぶつかり合って、闘争心の強い人は激しく争って、或は、腕力で強引に人を捻じ伏せ押し倒したり、関節技で相手を痛め付けるといったような、お世辞にも「合氣道」と呼ぶには相応しくないモノになってしまう傾向があるからです。

 「質」を求めて稽古するということは、言い換えるならば、「センス」そのものを構築し磨き上げていく作業であるとも言えます。
 たとえ体格や体力に恵まれていなくても、運動が苦手でも、ゆっくりでも良いから、誰もが「質」としては達人・名人と同じ技を体現(※疑似体現)できるようにしていけるのも形稽古の優れた点です。
 その技を使って実際に暴れる暴漢を倒したり制圧したりできなくとも、達人・名人と同じ「質」の心や身体の使い方ができるようになったとしたら、それは、人生全般のあらゆる場面に応用して、有効に活かせる、素晴らしい「生きる知恵」の学びとなる筈です。
 たとえるならば、最高速度がたったの時速30kmしか出ないとしても、電磁石の力で車体を浮き上がらせて、滑るように走ることができたら、それは正真正銘、本物のリニアモーターカーだと言えるのです。
 先ずは、「正真正銘の本物のリニアモーター」を己自身の中に構築することさえできたなら、後は本人が最高速30kmのままでも良いと言うのなら、それはそれで一向に構わないですし、いずれは時速500kmを目指したり600kmを目指したいと言うのであれば、それはその後の本人の努力次第です。
 稽古の時に自分がよく言う「本物」であるかどうかというのは、この「質」の問題であって、強いか弱いか(※最高速が何kmかどうか)は正直、あまり重要視していません。
 ですので、練心館では屈強な男性よりも小柄な女性の方が中身の実力はずっと上だと評価されることがしょっちゅうです。

 また、練心館も含めた「藤平光一先生スタイル」の合氣道では、「心身統一体のテスト」と称して、「身体を押されてもグラつかないか」というテストをよく行います。
 この時も、ただ、押されて動かなかったら「勝ち」、押されて動いてしまったら「負け」といったような、「目に見える分かり易い現象としての結果」ばかりに囚われてしまうと、大切な「本質」を見失います。
 「心身統一体のテスト」とは、心と身体がどういう「質」の状態であるかを、お互いに気付き、更に修正、向上していくための大切な学びです。
 強く押されると「動くまい」としてついつい強張ってしまう人に対しては、「優しくそっと押された位ではびくともしない」という経験を重ねてもらうことで、「強張る必要はないのだ」ということを学んでもらうことが大切ですし、心の集中力が散漫でグラついてしまうような人(※子どもさんには多いです)には、多少の強張りには目を瞑ってあげて、「前に心(氣)を向け集中することで、少々押されてもびくともしなくなる強さが得られる」という経験を重ねてもらうことで、「心の強さや集中力(※氣を出すということ)」を学んでもらうことが大切です。



 そもそも、合氣道を「強くなろう」「相手を倒そう」と思って稽古することは間違っています。
 なぜなら、それは合氣道開祖である植芝盛平先生の教えに反するからです。
 世界中の「合氣道」の名前を冠した武道の修行者は、もっとこのことを肝に銘じなくてはならないと思います。


 植芝の合気道には敵がいないのだ。相手があり敵があって、それより強くなり、それを倒すのが武道であると思ったらそれは間違いである。真の武道には相手もない、敵もない。真の武道とは宇宙そのものと一つになることだ、宇宙の中心に帰一することだ。合気道では強くなろう、相手を倒してやろうと錬磨するのではなく、世界人類平和のため、少しでもお役に立とうと、自己を宇宙の中心に帰一すること、帰一しようとする心が必要なのである。合気道とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり、愛の道なのである。
                  (『合気神髄―合気道開祖・植芝盛平語録』P115より)
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合氣道は「縁」の学び

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 《三千世界一度に開く梅の花》...  《三千世界一度に開く梅の花》
 2月に母・祖母のお墓参りに行った時、寺の境内に咲いていた蠟梅です。
 この寺の先代御住職は、世界的な仏教学者で、天道流合気道の清水健二先生の高弟でもあり、『禅と合気道』の著者としても有名な故鎌田茂雄先生でした。
 これも自分と合氣道を結ぶ不思議なご縁の一つです。





 以前このブログで、合氣道の稽古は「愛し愛され方の練習」ではないか、といったことを書きました。

 「愛し上手 愛され上手 『愛』に関する考察③」
 http://jp.bloguru.com/renshinkan/236429/2015-04-07

 人間は愛さずにはいられない存在です。
 そしてこの「愛」とは、もちろん「男女の恋愛」といった狭義の意味に限定されるものではありません。
 私たちが誰かに対して、優しく親切にしたりする時はもちろんですが、腹を立てたり、失望したり、嫉妬したりする時も、大概そこには「愛」があります。
 時には「愛」があるからこそ、誰かに対して、敢えて厳しい態度で接したり、突き放したりすることもよくあるものです。

 いずれにせよ人間が、愛さずにはいられない存在ならば、せめて出来るだけ上手に、スマートに愛せないものか、「合氣道の技」はそんな「愛し方」の練習だとも言えます。

 そして、世の中の人間誰もが皆、上手に、スマートに愛せる人ばかりとは限りません。
 中には、不器用にしか愛せないような人もいます。そんな不器用な「愛」に出会った時、いちいち傷付いたりしないようにできないものか、「合氣道の受け身」はそんな「愛され方」の練習だとも言えます。

 毎年、新年度が始まり、新入生や新入社員など、多くの人が新たな環境の中でスタートするこの時期になると、いつもそのことについて考えます。

 そんな中、今年も「愛」についてあれこれ考えていると、合氣道は「愛」の学びであると同時に、仏教的な「縁」の学びでもあるのではないか?・・・、という考えがふと心の中に閃きました。



 「因縁」という仏教用語があります。

 この言葉は「因」と「縁」から成り立っています。

 そしてこの「因」と「縁」がどのようなものであるか説明するために、植物が成長する上での「種」と「それを育む環境」に譬えた話を読んだことがありました。


 植物が芽を出し成長し、いずれは花を咲かせたり実を結んだりする上では、「種」が直接的な「因」となります。
 しかし、「種」だけが単独で存在していても、そこには何の変化も進展も起こりません。
 「種」が花を咲かせたり実を結んだりするためには、また別の間接的な要因が必要で、それらが「土、そこに含まれる水分や養分、日光、二酸化炭素、成長するために適度な気温」などであり、これらが「縁」ということになります。

 そして、この「因」と「縁」は、合氣道の稽古にもぴったり当てはまるものだと今更ながら気付かされました。

 言うなれば、合氣道の技は「縁を結ぶ」稽古であり、考え様によっては、仏教の教えである、「悪縁」も自らの心の持ち方次第で「善縁」に変えてしまう、という稽古ではないかと思えるのです。



 合氣道の形稽古は、基本的に、二人で一対一組となり向き合うところから始まります。
 そして、このままお互いに何もしなければ何も始まらず、この状態では、それぞれは単独で存在する「種」のようなもの、つまり「因」に譬えられます。

 しかし、ひとたび「受け」の者が「胸突き」や「正面打ち」などの所謂「攻撃」を仕掛けた瞬間、そこに「縁」が生じます。
 「投げ」の者は、この「縁」に自らを調和させ一体化させなければなりません。まさに、「縁結び」です。
 したがって、合氣道の「受け」の者が仕掛ける「突き」や「打ち」または「取り」は、敵の「攻撃」というよりは、むしろ、自身に訪れた結ぶべき「縁」であると捉えた方が稽古の質も高まるでしょう。

 もちろん、そのままその場所にまごまご突っ立っていたら短刀で突かれ、刀で斬られてしまうではないか、と考えれば、やはりそれは敵の「攻撃」と捉えることもできます。
 そう考えるならば、「受け」の者の仕掛けてきた「突き」や「打ち」「取り」は、不意に我が身に降り掛かってきた「悪縁」という捉え方もできます。
 しかし、「悪縁」も自らの心次第で「善縁」に変えられるという仏教の教え通り、合氣道ではそんな「縁」に対してもしっかりと調和し「縁結び」します。
 そしてお互いを一体化させたまま協力して、一つの美しい形を創り上げるのです。

 合氣道の稽古とは、一粒の「種」のように「因」にしか過ぎなかった者が、「受け」の仕掛けてくれた「縁」に対して誠実に「縁結び」することで、その瞬間、その場所にだけ生起する、一期一会の美しい花を咲かせる練習だとも言えるのではないでしょうか?。



 ところで、人間社会のあらゆる場所でさまざまな「縁」が生じ、それらが複雑に入り組んで、響き合い、重なり合っている様子は、まるで海上を波が覆い尽すようにうねっている姿に似ています。

 太陽の熱によって地球上の大気は大循環を起こし、そこに地球の自転が加わり貿易風や偏西風といった風が生まれます。
 地球の重力と月や太陽、惑星の重力が引き合うことで、潮の干満、潮流が生まれます。
 海上の波は、そういった風と天体の重力の影響が複雑に絡み合って生じるといいます。

 同じ様に、人間社会にも、絶えずさまざまな要因が複雑に絡み合い、波が海上を覆い尽すように、「縁」もこの世界を覆い尽しているのでしょう。

 そして日々の生活の中でも、私たちには、さまざまな「縁」が次々と訪れ、時には「悪縁」や「腐れ縁」が身に降り掛かって来ることもあります。

 私たちは、「善縁」はしっかりと結んで逃がさず、「悪縁」も自らの心持ち次第で「善縁」に変えていけるよう努力しなければならないのでしょう。
#ブログ #仏教 #合気道 #武術 #武道

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「折れない腕」の可能性―日本語学校での講習

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こちらは文中で言うところの「正... こちらは文中で言うところの「正しい例」です。
一切、押し返したり争ったりせず、その代わり、氣を出して(或いは氣を漲らせて)、後は、「心が折れてしまうこと」さえなければ、小柄な女性でも男性の力に負けません。
こちらが文中で言うところの「悪... こちらが文中で言うところの「悪い例」です。
争って力で押し返そうとすれば、男性の力に敵う訳がありません。このやり方で「負けない」ようにするためには、無駄に「相手より強く」なって、一々「相手を打ち負かす」必要が生じてしまいます。





 既に2か月以上前の話になってしまいましたが・・・。

 前回のブログにも書かせて頂きましたが、1月10日(火)に、新宿にある某日本語学校にて日本文化体験の催しがあり、外国人留学生たちに合氣道の体験講習をして参りました。


 生徒数百数十名、1コマたったの30分弱、そして午前中に6コマ、午後にも6コマという若干慌ただしいスケジュールの中で、留学生たちに対し、合氣道の何を伝えることができるか?、色々悩みましたが、まず最初に「これだけは絶対に避けよう」と考えたのは、短時間でチャチャッとやれそうなこととしては一番安易な内容とも言える、単なる「護身術講座」になってしまうことでした。

 素人相手に、「相手がこう攻撃してきたらこう反撃する」とか「相手にこう掴まれたらこう反撃する」といったような安易な内容のものをレクチャーして、それを「合氣道」と呼ぶことに、自分は非常に抵抗があります。

 合氣道開祖・植芝盛平先生の教えを尊重するならば、「合氣道」とは、己の心身を通して宇宙との調和を学ぶ深奥なる道であり、宇宙の根源としての「愛」を学ぶ修行の道であります。
 ましてや、留学生たちは多種多様な国々から、様々な年齢の方々が来られています。
 中には、日本とは比較にならない程治安の悪い国から来られている方も居られるでしょうし、兵役を経験されて軍隊で戦闘訓練を受けられた方も居られるかも知れません。
 そんな方々に対し、日本人の自分が「護身術」を教えてやるなどと言うのは、笑止千万でしょう。


 初心者を対象として、短い時間で、しかも合氣道としての本質やその思想・哲学をも損なわない形で行える、何かよい講習内容はないものか?・・・、そこでふと思いついたのが「藤平先生スタイル」の合氣道では、「氣」の力を示し理解するための、もはや定番のパフォーマンスとなっている「折れない腕」をやることでした。


 「折れない腕」とは、一方が相手の手首と上腕二頭筋の辺りを掴んで、両手で力一杯相手の腕を折り曲げようとします。
 まずは「悪い例」として、相手にも「折られまい」と力一杯抵抗して、押し返してもらうようにします。
 しかし、相手は片腕なのに対して折る方は両手ですから、余程の力持ちでもない限り、腕は簡単に折り曲げられてしまいます。

 今度は「正しい例」として、一方は同じように力一杯相手の腕を折り曲げようとしますが、相手には一切抵抗したり、押し返したりしないようにしてもらいます。
 その代わりに、腕の先(指先)から「氣」のエネルギーが、遥か宇宙の彼方まで、鋭いレーザー光線のように迸り出ている、といったような強いイメージをしてもらいます。
 そして、どんなに強く押されて腕が辛くても、その強いイメージだけは絶対に切らさないようにしてもらいます。
 そうすると、相当な力で折り曲げようとしても、不思議と腕はびくともしなくなる、というものです。



 日頃、練心館の大人クラスに見学・体験の方が来られると、こちらとしても、何とか少しでも面白い体験をしてもらおうと色々なパフォーマンスを見せたりしていますが、女性や比較的華奢な体格の方にこの「折れない腕」をやってもらうと、自身の中にこんなパワーが眠っていたのか、と非常に感激して頂けます。

 それ以外にも、武術の好きそうな方には、丹田の力で木剣をふわっと落とすだけで相手の剣を弾き飛ばしたり、拳や肘を密着させたところから勁力(※武術的な力)で相手を弾き飛ばしたり、最近では、システマのストライクを真似た、見た目はゆるゆるでも異様に重たいパンチなども体験してもらったりしています。
 興味のある方は是非、見学・体験にいらして下さい。お待ちして居ります。
 (※いつも安全を考慮して、木剣は折れたりしないように、勁力も、内臓などにダメージが残留しないように、ミット越しに身体を貫通して抜けるよう、それも、相当手加減してやっていますのでご安心下さい。)



 話を元に戻します。



 この、昔から定番のパフォーマンスで、合氣道以外の武術・武道や一部のヨガ、気功などでも頻繁に行われてきた「折れない腕」ですが、正直、自分は、パフォーマンスとしてはやや華やかさに欠け、地味なものだなぁ・・・、などと思っていた節がありました。

 しかし、よくよく考えると、合氣道が合氣道たる所以としてのその本質や、またその思想・哲学をもきちんと兼ね備えた、なかなか奥深く、味わい深いものである、ということを、今更ながら気付かされました。



 「折れない腕」のよい点は、ほぼ全ての人がすぐにできるようになる、という点ではないかと思います。


 そのためにも、相手に腕を折り曲げられなかったら「勝ち」で折り曲げられてしまったら「負け」とか、逆に、相手の腕を折り曲げてやったら「勝ち」で折り曲げられなかったら「負け」、といったような勝ち負けゲームの感覚でやってしまったら大事な本質を見失います。
 まずは目に見える現象としての「腕が折れ曲がらない」ということよりも、「質」の違いを感じ分け、味わえるようにすることが肝心です。

 よって教える側は、最初は「悪い例」として、相手にわざと力んでもらって、争って押し返すようにしてもらうのがよいでしょう。

 まれに力自慢の人で、片腕でも力負けしないような人もいたりしますが、この耐え方で頑張ったところで、かなり体力を消耗してしまい、結局は疲れてしまいます。
 片腕の筋力に対して両腕を使った力で押される訳ですから、大概は、あっけなく折り曲げられてしまうのが殆どです。

 次に、手の先から「氣」が出ている強いイメージをしながら、一切、争って押し返したりしないようにしてもらいます。

 この時、折り曲げる側の人は、最初はそっと、徐々に力を強くしていくようなやり方が望ましいです。
 相手が華奢な女性だったりしたら、「どんなに腕が辛くても絶対に心では負けないで!」「信念は絶対に曲げないで!」などと励ましながらやるのも良いでしょう。
 そうすると、女性の細腕に対して男性が本気の力を掛けても、本当にびくともしなくなります。



 この「折れない腕」を通して、私たちは合氣道の大切な教えである「争わざるの理」を、身を以て学ぶことができます。


 「押された」ことに対して「押し返そう」とすれば、そこに争いが生じます。
 一旦、「争い」の構図にはまってしまうと、自分が「負けない」ためには相手を「打ち負かし」て相手に「勝つ」必要が生じてしまいます。
 そして今度は、常にそれを可能とするためには、「相手よりも強く在らなければならない」という必要性が生じます。
 一度この考え方に陥ってしまった者は、「いずれはもっと強い『敵』が出現するかもしれない」という不安に常に苛まれ続け、際限なく、相手を制圧するための「強さ」としての「力」を追い求めなくてはならなくなってしまいます。

 延いてはこれが、世界では、疑心暗鬼と恐怖に裏打ちされた軍拡競争へと繋がっているのだと言えます。


 一方で、どんなに強い力で押されても、一切争わず、押し返したりもせず、その代わり、しっかりと「氣」の力をイメージし、心の信念では絶対に負けないでいると、相当な力で押されてもびくともしなくなり、争うよりも却って強い状態でいられるのです。


 この現象から私たちは大切な真理を学ぶことができます。


 それは、「他人を打ち負かして勝ち誇ってやろう」などという邪なことを考えるから、無駄に「強く」ならなきゃいけない必要が生じる訳で、「争わない」「勝とうとしない」「いちいちやり返さない」、その代わり、「絶対に心の信念では負けない」という状態の方が、争うよりも却って強くいられるということです。
 これは人生全般に活かすことのできる教えであると同時に、今後、真に世界平和を実現するためにも鍵になるものではないかと思います。




 最後にちょっと技術的な解説を致します。


 先程、「折れない腕」は誰でもすぐにできるようになると申しましたが、実は、中身の質としては「初心者向けの折れない腕」と「上級者向けの折れない腕」の二種類が存在します。
 練心館では、初心者向けのものを「魄(はく)の折れない腕」、上級者向けのものを「魂(こん)の折れない腕」というふうに分類しています。

 初心者の人の多くは、純粋に「氣が出ている」ことと、それとは似て非なるものである「氣を漲らせる」ことの感覚の違いがまだ明確に分からない人が多く、その場合自分は、まずは「氣を漲らせる」ことから始めればよい、という考えでやっています。

 ここでいう「氣を漲らせた」腕というのは、筋肉にも硬直した張りがある状態ですが、決して単純に筋肉に力を込めて力んだ状態とは違います。
 この状態を表す具体例として参考になるのが、空手の「極め」の状態だといえます。
 この感覚は、武術において破壊力のある打撃をするためには必須の身体感覚だと言えます。

 この「氣を漲らせた」腕さえきちんとできてしまえば、抵抗して押し返したりせずとも、相当な力で折り曲げられてもびくともしなくなります。
 よって、目に見える現象としての「折れない腕」は、この段階で既に完成したとも言えるでしょう。
 しかし、中身の質を問うならば、これはまだ初心者向けの「魄(はく)の折れない腕」です。

 その次の段階として、「極め」を徐々に弛めていって「氣を漲らせる」のではなく「氣が出ている」状態を創っていき、その感覚を覚えます。
 そうすると、腕の筋肉は弛んだ状態でふにゃふにゃなのに、相当な力で折り曲げられてもびくともしなくなります。
 これが上級者向けの「魂(こん)の折れない腕」です。

 まさに、合氣道開祖・植芝盛平先生が、後年、繰り返し何度も仰った「魄(はく)は捨て去れ」ということですね。
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