《三千世界一度に開く梅の花》
2月に母・祖母のお墓参りに行った時、寺の境内に咲いていた蠟梅です。
この寺の先代御住職は、世界的な仏教学者で、天道流合気道の清水健二先生の高弟でもあり、『禅と合気道』の著者としても有名な故鎌田茂雄先生でした。
これも自分と合氣道を結ぶ不思議なご縁の一つです。
以前このブログで、合氣道の稽古は「愛し愛され方の練習」ではないか、といったことを書きました。
「愛し上手 愛され上手 『愛』に関する考察③」
http://jp.bloguru.com/renshinkan/236429/2015-04-07
人間は愛さずにはいられない存在です。
そしてこの「愛」とは、もちろん「男女の恋愛」といった狭義の意味に限定されるものではありません。
私たちが誰かに対して、優しく親切にしたりする時はもちろんですが、腹を立てたり、失望したり、嫉妬したりする時も、大概そこには「愛」があります。
時には「愛」があるからこそ、誰かに対して、敢えて厳しい態度で接したり、突き放したりすることもよくあるものです。
いずれにせよ人間が、愛さずにはいられない存在ならば、せめて出来るだけ上手に、スマートに愛せないものか、「合氣道の技」はそんな「愛し方」の練習だとも言えます。
そして、世の中の人間誰もが皆、上手に、スマートに愛せる人ばかりとは限りません。
中には、不器用にしか愛せないような人もいます。そんな不器用な「愛」に出会った時、いちいち傷付いたりしないようにできないものか、「合氣道の受け身」はそんな「愛され方」の練習だとも言えます。
毎年、新年度が始まり、新入生や新入社員など、多くの人が新たな環境の中でスタートするこの時期になると、いつもそのことについて考えます。
そんな中、今年も「愛」についてあれこれ考えていると、合氣道は「愛」の学びであると同時に、仏教的な「縁」の学びでもあるのではないか?・・・、という考えがふと心の中に閃きました。
「因縁」という仏教用語があります。
この言葉は「因」と「縁」から成り立っています。
そしてこの「因」と「縁」がどのようなものであるか説明するために、植物が成長する上での「種」と「それを育む環境」に譬えた話を読んだことがありました。
植物が芽を出し成長し、いずれは花を咲かせたり実を結んだりする上では、「種」が直接的な「因」となります。
しかし、「種」だけが単独で存在していても、そこには何の変化も進展も起こりません。
「種」が花を咲かせたり実を結んだりするためには、また別の間接的な要因が必要で、それらが「土、そこに含まれる水分や養分、日光、二酸化炭素、成長するために適度な気温」などであり、これらが「縁」ということになります。
そして、この「因」と「縁」は、合氣道の稽古にもぴったり当てはまるものだと今更ながら気付かされました。
言うなれば、合氣道の技は「縁を結ぶ」稽古であり、考え様によっては、仏教の教えである、「悪縁」も自らの心の持ち方次第で「善縁」に変えてしまう、という稽古ではないかと思えるのです。
合氣道の形稽古は、基本的に、二人で一対一組となり向き合うところから始まります。
そして、このままお互いに何もしなければ何も始まらず、この状態では、それぞれは単独で存在する「種」のようなもの、つまり「因」に譬えられます。
しかし、ひとたび「受け」の者が「胸突き」や「正面打ち」などの所謂「攻撃」を仕掛けた瞬間、そこに「縁」が生じます。
「投げ」の者は、この「縁」に自らを調和させ一体化させなければなりません。まさに、「縁結び」です。
したがって、合氣道の「受け」の者が仕掛ける「突き」や「打ち」または「取り」は、敵の「攻撃」というよりは、むしろ、自身に訪れた結ぶべき「縁」であると捉えた方が稽古の質も高まるでしょう。
もちろん、そのままその場所にまごまご突っ立っていたら短刀で突かれ、刀で斬られてしまうではないか、と考えれば、やはりそれは敵の「攻撃」と捉えることもできます。
そう考えるならば、「受け」の者の仕掛けてきた「突き」や「打ち」「取り」は、不意に我が身に降り掛かってきた「悪縁」という捉え方もできます。
しかし、「悪縁」も自らの心次第で「善縁」に変えられるという仏教の教え通り、合氣道ではそんな「縁」に対してもしっかりと調和し「縁結び」します。
そしてお互いを一体化させたまま協力して、一つの美しい形を創り上げるのです。
合氣道の稽古とは、一粒の「種」のように「因」にしか過ぎなかった者が、「受け」の仕掛けてくれた「縁」に対して誠実に「縁結び」することで、その瞬間、その場所にだけ生起する、一期一会の美しい花を咲かせる練習だとも言えるのではないでしょうか?。
ところで、人間社会のあらゆる場所でさまざまな「縁」が生じ、それらが複雑に入り組んで、響き合い、重なり合っている様子は、まるで海上を波が覆い尽すようにうねっている姿に似ています。
太陽の熱によって地球上の大気は大循環を起こし、そこに地球の自転が加わり貿易風や偏西風といった風が生まれます。
地球の重力と月や太陽、惑星の重力が引き合うことで、潮の干満、潮流が生まれます。
海上の波は、そういった風と天体の重力の影響が複雑に絡み合って生じるといいます。
同じ様に、人間社会にも、絶えずさまざまな要因が複雑に絡み合い、波が海上を覆い尽すように、「縁」もこの世界を覆い尽しているのでしょう。
そして日々の生活の中でも、私たちには、さまざまな「縁」が次々と訪れ、時には「悪縁」や「腐れ縁」が身に降り掛かって来ることもあります。
私たちは、「善縁」はしっかりと結んで逃がさず、「悪縁」も自らの心持ち次第で「善縁」に変えていけるよう努力しなければならないのでしょう。
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