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合氣道練心館 館長所感集

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 合氣道 練心館道場
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恐怖を超えてゆけ♪

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 趣味である神社仏閣参拝後に不...  趣味である神社仏閣参拝後に不思議な雲が現れるのはいつものことですが、令和2(2020)年8月。千葉県君津市の三石山観音寺、加名盛観音堂、安房郡の保田神社、市原市の養老山立國寺(出世観音)に参拝した帰りには、空に翼を広げた巨大鳳凰が現れました。
 その直後に、かつての練心館道場の生徒さんで、鳥好きで有名なフリーアナウンサー、新井恵理那さんから素敵な残暑お見舞いの品を頂いたので、今思えば、この鳳凰はその予兆だったのかも(?)知れません。
恐怖を超えてゆけ♪
 




 皆様、明けましておめでとうございます。


 今年は残念ながら、合氣道練心館最大のイベントである「鏡開き・新年祝賀会」が、社会状況に鑑みて中止となってしまいました。
 鏡開きでは例年、館長年頭挨拶として「今年の練心館のテーマ」を発表するのが恒例です。

 今回は、生徒さんや保護者の方々を前にした口頭での大演説(?)は無しとして、先ずはこのブログにて新年のご挨拶と「今年の練心館のテーマ」を発表させて頂きたいと思います。


 令和3(2021)年の合氣道練心館道場のテーマは、「恐怖を超えてゆけ」。


 これで行くことに決めました。


 お気付きの方も多いでしょう。ハッキリ言って便乗させてもらいました。ですので、どうぞ星野源さんのヒット曲『恋』のメロディーに乗せて脳内再生して頂ければと思います。
 正月2日にTBSテレビで放送された「『逃げるは恥だが役に立つ』ガンバレ人類!新春スペシャル!!」をご覧になられた方も多いと思いますが、ご存知の通り当道場は、新垣結衣さん星野源さんご本人たちが「恋ダンス」を練習した、世界で唯一の武道道場ですので、これも「ご縁」と言うか「必然」ということでお許し頂ければと思います。

http://jp.bloguru.com/renshinkan/286079/2016-12-20

 現在、世界は恐怖に包まれていると言えます。そして、この恐怖はいつ収束するのか、まだ先の見えない状況です。
 もちろん、こんな異常な世界がいつまでも続いて良いはずもなく、いずれ必ず光は見えて来ることでしょう。
 しかしこの、世界に蔓延する「恐怖」こそが、医療や保健・衛生の専門家が対峙する問題とは別に、合氣道家としての、自分が対峙すべき大切な問題なのではないかと考えるのです。




 合氣道の「合」は「愛」に通じ、合氣道とはまさに「愛の武道」なのだと言われます。
 開祖、植芝盛平先生は仰います。

「合気道の極意は、己れの邪気をはらい、己れを宇宙の動きと調和させ、己れを宇宙そのものと一致させることにある。
          (  中  略  )
 では、いかにしたら、己れの邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるであろうか。
 それには、まず宇宙の心を、己れの心とすることだ。宇宙の心とは何か? これは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまで及ぶ偉大なる『愛』である。」
          (『合気神髄』P34)


 世界が恐怖に包まれている今、私たちが気を付けるべきこととは、むしろ、心を恐怖に乗っ取られ、心を恐怖に支配されないようにすることではないかと思います。

 人間は恐怖に支配された時、正しくものを見ることや冷静に物事を判断すること、延いては自分の頭で根本的に物事を考えるということが出来なくなり、思考停止、判断停止に陥りやすいと言われます。
 そしてそれ以上に危険なのは、人間は恐怖に支配された時、平時では考えられないような残忍さや冷酷さを発揮してしまいがちだということです。
 まさに「愛」を失ってしまうということです。


 悲しいかな人類は、歴史上、数多くの戦争、虐殺、粛清を繰り返してきました。
 特に世界の近現代史を俯瞰すると、まるで虐殺史の様相を呈している、というのはちょっと言い過ぎでしょうか・・・?。
 人類学者でカリフォルニア大学のジャレド・ダイアモンド教授は、伝統的部族社会の頃と近現代社会を比べれば、虐殺によって殺された人数は圧倒的に近現代社会の方が多いが、総人口の内、虐殺によって殺された人数の割合を調査すれば、その割合は伝統的部族社会の方が逆に多いということが判り、人類社会は曲がりなりにもちゃんと進歩しているのだと主張されていました。
 これを聞いた時は「なるほど!」と頭では理解出来たものの、心の中ではモヤモヤが消えませんでした。

 戦争による大都市への無差別攻撃に始まり、スターリンによる大粛清、南京事件(※日本では見解が分かれる所ですが、元日本兵の証言全てが嘘だとも思えず、戦争という時代状況の中、規模の如何に拘わらず何らかの残虐行為はあったのだろうと考えます)、ホロコースト、原爆投下、文化大革命、ポル・ポトによる大虐殺、記憶に新しいものとしては1990年代中頃にルワンダ大虐殺というものもありました。
 それでも人類社会は進歩していると言えるのか?、未だにモヤモヤは消えない所です。

 なぜ、人間はこれ程にまで残虐で冷酷になってしまえるのか?

 自分は、この根本的原因こそ人間の心に巣食う「恐怖の心」だと思っています。

 そして、チンピラが喧嘩の強さに憧れるのも、海外で人々が護身のために銃を買い求めるのも、国家間の際限なき軍拡競争も、根本は皆同じ、全て人間の「恐怖の心」だと考えます。



 武術とは、そのルーツをたどれば戦争における殺人術でした。
 そこには敵を恐れる「恐怖心」は切っても切り離せないものがあります。しかし、合氣道開祖、植芝盛平先生は、厳しい修行の末に、この「恐怖の心」を真に克服する術を知ったのだと思います。それは自らが最強になること等では決してなく、「愛」を以て全てを包み込む以外にあり得ないということでした。

http://jp.bloguru.com/renshinkan/326709/2018-06-14

 人間という存在は、予め危険を察知するために、意識を「恐怖」の対象へと強く向ける性質を、生存本能として持ち合わせています。
 現代社会では、この人間の本能を利用して、人々を恐怖で支配しコントロールしようとする「恐怖マーケティング」があらゆる分野で常套手段となっています。
 私たちは生活する上で、この手法に余りにも慣れ過ぎてしまっている嫌いがありますが、やはり恐怖に支配された人間は、特にそれが群集心理と結びついた場合など、時として普段では考えられないような残忍さや冷酷さを発揮してしまう、という事実を私たちは決して忘れてはいけないと思います。
 このまま行って近い将来、現実に戦争や虐殺・粛清が起こるとは、さすがに自分も思ってはいませんし、思いたくもないですが、普段は優しく思いやりに溢れていたような人が恐怖に囚われた結果、人が変わったように差別やいじめに加担してしまう、というのは現実にあるような気がしてとても心配です。




 ところで、話はガラッと変わりますが、こんな状況でも漫画・アニメ『鬼滅の刃』が大ブームになっていますね。
 練心館でも「子どもクラス」や若い生徒さんの間でファンが結構居り、合氣道界でも、武術描写の中に合氣道の極意に通じるものが多く描かれていると話題になっていて、自分もずっと気になっていました。
 今回、年末年始に録り溜めていたアニメの総集編を見て、『鬼滅の刃』に関して、個人的にとても評価すべき点がありましたので是非ともここで語らせて下さい(それ程詳しい訳でもないのにすみません)。

 アニメ『鬼滅の刃』は、子どもが見るには残酷な描写も多く、決して合氣道の心を余す所なく表現したアニメと言えるものではありません。
 しかし、「これは合氣道の説く『愛』にも通じるのではないか?」と個人的に強く心に残ったのは、主人公、竃門炭治郎(かまどたんじろう)が、鬼殺隊の任務として討伐する対象である「鬼」に対しても、常に憐みや慈悲の心を持ち続けているという点でした。
 その心は、鬼に家族を惨殺され、妹、禰豆子(ねずこ)だけが唯一生き残ったものの、彼女は鬼の返り血を浴び感染することで鬼に変貌してしまい、炭治郎は最愛の妹を人間に戻す手掛かりを得るために鬼殺隊に入ったものの、鬼である禰豆子は、すでに幾度か鬼殺隊に殺されそうになっている、という苦い経験から来るものでした。
 炭治郎は鬼を憎みながらも鬼を愛するという、アンビバレントな感情を抱いたまま熾烈な戦いへと進むのですが、この点こそが、この作品世界を大変味わい深いものにしているのではないかと個人的には思いました。

 もしも『鬼滅の刃』が、「兄であり鬼殺隊員である炭治郎が、同じ人間である最愛の妹、禰豆子を邪悪な鬼から守る」という話だったら、自分にとっては面白くも何ともなかったと思います。



 先程、合氣道開祖、植芝盛平先生の言葉を引用しましたが、合氣道の説く「愛」とは、「宇宙の愛」であって「人間の愛」とは違います。
 この「宇宙の愛」とは如何なるものか、説明するのは非常に難しいのですが、近いものとしてはイエス・キリストの説く「神の愛」、若しくは仏教における「仏の慈悲」といった、極めて宗教的な情操に根差したものであると言えると思います。

http://jp.bloguru.com/renshinkan/233975/2015-03-10

 イエス・キリストは言います。

「汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。これ天にいます汝らの父の子とならん為なり。天の父はその日を悪しき者のうへにも、善き者のうへにも昇らせ、雨を正しき者にも、正しからぬ者にも降らせ給ふなり。なんぢら己を愛する者を愛すとも何の報をか得べき、取税人も然するにあらずや。兄弟にのみ挨拶すとも何の勝ることかある、異邦人も然するにあらずや。然らば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ。」
          (マタイ5:44~48)

「なんぢらの仇を愛し汝らを憎む者を善くし、汝らを辱しむる者のために祈れ。(中略)なんぢら己を愛する者を愛せばとて、何の嘉すべき事あらん、罪人にても己を愛する者を愛するなり。汝等おのれに善をなす者に善を為すとも、何の嘉すべき事あらん、罪人にても然するなり。(中略)至高者は恩を知らぬもの、悪しき者にも仁慈あるなり、汝らの父の慈悲なるごとく、汝らも慈悲なれ。」
          (ルカ6:27~36)

 自分はひねくれ者(?)なので、『鬼滅の刃』を世間一般で言われるような「美しい兄妹愛、家族愛の物語」としての評価はしません。
 多少意地悪な言い方になってしまいますが、新約聖書の言葉にあるように、誰だって自分を愛してくれる者を愛するのは当たり前であって、自分の大切な家族を愛すること等どんな犯罪者でもやっていることです。
 『鬼滅の刃』の最大のポイントは、鬼殺隊員として鬼を討伐する任務を負った主人公、炭治郎の、最愛の妹、禰豆子が鬼である、という点に尽きると思います。
 この作品において、もしも禰豆子が普通の人間という設定だったら、炭治郎にとって鬼とは単なる恐怖と憎悪の対象に過ぎず、炭治郎はむしろ、鬼に対してどこまでも残忍で冷酷になれていただろうと思うのです。
 そして皮肉なことに、「禰豆子を守る」という強い気持、つまり妹を大切に思う兄妹愛、家族愛といった「人間の愛」が強ければ強い程、それを脅かす存在である鬼への恐怖と憎悪は際限なく増大してしまうはずです。




 話を元に戻しましょう。
 人間は恐怖に支配されてしまった時、普段では考えられないような残忍さや冷酷さをを発揮して、「愛」を失いがちだと言いました。
 もちろんこの「愛」とは決して「人間の愛」ではなく、むしろ「宇宙の愛」「神の愛」に近いものです。
 自分は「人間の愛」を決して否定する訳ではありません。この「人間の愛」は、人間であれば誰でも当たり前に持ち合わせているものです。
 しかし一方で、この「人間の愛」は歴史上、時として恐怖や憎悪を煽るために悪用されがちであるということも、私たちは心の片隅に置いておくべきではないかと思います。

 国家などの巨大な権力が人々を支配・コントロールして戦争に駆り出そうとする時、「愛する家族、友人、恋人の命を守れ!」と煽り立てることによって人々の恐怖や憎悪を煽り、戦意を高揚させて戦場に駆り立てていくというのは、今も昔も変わらぬ常套手段ではないでしょうか・・・。




 今年の練心館道場のテーマは「恐怖を超えてゆけ」。

 これはもちろん、恐怖を誤魔化して怖くない振りをしろとか、蛮勇を発揮して無茶をしろ、などという意味では決してありません。
 怖いものは怖いままで良いのです。恐怖は小さくまとめて常に心の片隅に置いておくことで、正しく怖がれば良いのです。
 しかし、心が恐怖に乗っ取られて恐怖に支配されてしまっては、私たちは正しいものの見方を失い、正しい判断力を失い、延いては自分の頭で根本的に物事を考えることを止め、思考停止、判断停止に陥ってしまいます。また、恐怖に支配されてしまった人間は、時として平時では考えられないような残忍さや冷酷さを発揮してしまうことがあり、まさに「愛(※『宇宙の愛』『神の愛』)」を失ってしまうのです。

 そんなことに陥らないためにも、私たちは今こそ、合氣道で培った「落ち着き」「前向きな心」「宇宙の愛」を活かすべき時です。


 まだ暫らくは、この辛い時代、異常な社会は続くかも知れませんが、本年も皆様からの温かなご理解、ご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。
 みんなで「恐怖を超えて」行きましょう!その先に明るい未来があることを信じて・・・。
#アニメ #キリスト教 #ブログ #合気道 #武道 #芸能

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「愛」に関する考察 ①

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合氣道の聖地。茨城県笠間市にあ... 合氣道の聖地。茨城県笠間市にある合氣神社です。 青山学院大学相模原キャンパスの... 青山学院大学相模原キャンパスのシンボル。ウェスレー・チャペルです。





 『ありのままで生きる 天と人をつなぐ法則』(矢作直樹/保江邦夫 著 マキノ出版)
という本を読んで色々と考えさせられました。

 著者の一人、保江邦夫先生は、ノートルダム清心女子大学教授で理論物理学者ですが、我々の世界では、大東流合気武術の伝説的名人、佐川幸義先生の門下で修行され、現在は「冠光寺眞法」なる独自の合気系武道を指導されていることで有名です。

 もう一人の著者である矢作直樹先生は、東京大学教授で同附属病院救急部・集中治療部部長をされているそうですが、現職のお医者様でありながら、霊魂の存在や死後の世界の存在を肯定され、啓蒙する活動をされています。

 お二人の対談内容は、臨死体験やあの世、霊魂、スピリチュアルヒーリング、挙句の果てにはUFOにまで及び、世間一般からは「トンデモ本」にジャンル分けされるのではないだろうか?!、と思いました。

 個人的には、私は、そういった話は決して否定派ではないので、興味深く読ませて頂きました。

 この本の中で保江邦夫先生は、ご自身の冠光寺眞法の技の原理を簡潔に述べられていましたが、これは、今現在、私が探究しているものと変わらないのではないか?と感じました。

 保江邦夫先生曰く、「技の原理を簡単にいえば、『愛とともに相手の魂を自分の魂で包む』というものです。」



 合氣道を修行する上で、「愛」の問題は避けては通れない重要なテーマです。

 合氣道開祖・植芝盛平先生は大正14年の春、黄金の光に包まれるという宗教的神秘体験をされ、武道の真理に開眼されたといいます。
 「その瞬間、私は、『武道の根源は、神の愛―万有愛護の精神―である』と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。」(『合気神髄』P54)

 また、合氣道の極意は己を宇宙と一致させ、我即宇宙となることだとし、そのためにも、まずは己の心を宇宙の心と一致させなくてはならないと説かれています。そして宇宙の心とは「愛」であると断言されました。
 「宇宙の心とは何か? これは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまで及ぶ偉大なる『愛』である。」(『合気神髄』P34)

 また、合氣道という名前も愛を連想させるからなのだと仰っています。
 「『合』は『愛』に通じるので、私は、私の会得した独自の道を「合気道」と呼ぶことにしたのである。」(『合気神髄』P41)



 私自身、30代の後半までは所謂武術的な技を行っていました。より具体的に言い換えるならば、中国武術でいう所の「勁力」を使っていました。

 一言で「勁力」と言っても専門的に言えば、明勁・暗勁・化勁の中での、一番の初歩である明勁の要素が強かったと思います。まあ、これが一番派手に相手を吹っ飛ばしたりできるもので、素人目に見ても比較的判り易いものですから・・・。

 「勁力」を使いこなす上でも、小手先の筋力等は一切不要なので、未熟な私は、「これこそが合氣道の奥義に違いない?!」と思っていました。

 しかし、万生館合氣道の先生方と運命的に一緒にお稽古する機会を得て、「質の違い」に気付かされました。(※このことはいずれまた詳しく書こうと思っています。)

 武術として相手により大きなダメージを与える方法としてなら「勁力」は有効です。
 しかし、万生館合氣道の先生方の行う「呼吸力」の技は、もっと柔らかく、「心」に直接働き掛けるような技でした。

 今まで自分が合氣道の奥義だと信じていたものは、単なる実戦武術の技法であって、それこそが開祖がいずれは捨て去らなくてはならないとした「魄」の土台であって、その上に、柔らかく「心」に直接働き掛けるような「氣結び」の「魂」の技を創り上げていかなくてはならないのだ、と気付かされました。

 以来、自分なりに色々と試行錯誤して、「魂」の技、「氣結び」の技も少しは体現できるようになりました(まだまだ完成には程遠く、一生のテーマになりそうですが)。

 その中で見えてきたものは、「氣結び」の技をなそうとする時は、こちらの心の状態が技そのものに強く影響する、ということでした。

 経験上言えることは、こちらが「明るく朗らかで積極的な心」の状態の時、「氣結び」の技は上手くいく、というものです。



 保江邦夫先生が「愛とともに相手の魂を自分の魂で包む」と仰った冠光寺眞法の基本原理と、私が自分なりに行き着いた「明るく朗らかで積極的な心で氣結びする」という極意は、言わんとしている内容は全く同じことではないか、と思います。

 つまり保江邦夫先生が仰る「愛」とは、更に言うならば植芝盛平先生が説かれたような「宇宙のすみずみにまで及ぶ偉大なる『愛』」や、武道の根源としての神の「愛」といったような「愛」とは、極めて人間的な「好き」という感情等では決してなく、宇宙全体に広がる「明るく朗らかで常に積極的に前に進もうとする大きな意思のようなもの」と言えるのではないかと思うのです。
 そしてこの「愛」を少しでも多く自分の心に宿すことができると、相手の心に柔らかく直接働き掛けるような、「氣結び」の「魂」の技も比較的上手くいく、ということではないかと思うのです。



 この「愛」についてより深く考えるヒントとして、スウェーデンのキリスト教神学者ニーグレンの著書『アガペーとエロース』で主張した論が大きな示唆を与えてくれます。

 ニーグレンは、
 「エロース」とは、真・善・美をどこまでも追求するギリシャ哲学的愛であり、上昇を志向する愛であり、対象に何らかの価値を認めるが故の愛、自己追求の愛であるとしています。
 一方、「アガペー」とは、自分をどこまでも捨て去る愛であり、下降する愛であり、対象に愛する価値があるかどうか全く顧みない愛、自己放下の愛であるとしています。

 原始キリスト教における「愛」は「アガペーモチーフ」だったが、教会の世俗化とギリシャ哲学の影響により、いつの間にか人間的な「エロースモチーフ」に変換されてしまった。
 16世紀のルターの宗教改革はキリスト教における「愛」をもう一度本来の「アガペーモチーフ」に戻そうとする運動だった、ということです。

 そもそも「アガペー」とは、本来人間には不可能な「愛」なんだそうです。

 しかし、自分をどこまでも捨て去ることができた時、人間は、天から一方的に無限に降り注ぐ、神の偉大なる「愛」に気付くことができるのだそうです。
 そして自分が無限の神の「愛」に包まれていることを知った後は、鏡が太陽の光を反射するように、自分自身もただの鏡のようになって、周囲を神の「愛」で照らしてやればよいだけなのだそうです。



 保江邦夫先生が技の基本原理として仰った「愛とともに相手の魂を自分の魂で包む」場合の「愛」とは、人間的な「好き」という感情などでは決してないでしょう。人間の「好き」という感情は、ややもすれば簡単に「嫌い」へと揺れ動きます。

 キリスト教における神の「愛(アガペー)」や、合氣道開祖・植芝盛平先生が古神道的世界観と信仰によって感得した宇宙の本質としての「愛」、武道の根源としての「愛」。
 これらは本来、簡単に言葉で言い表すことのできないものなのかも知れません。
 しかし敢えて、無理にでも言葉に表現するならば、やはり「明るく朗らかで常に積極的に前に進もうとする大きな意思のようなもの」だと言えるのではないでしょうか。



 稽古・修行を通して己を宇宙そのものと完全に一致させることができた時、自身のちっぽけな「我」は完全に捨て去られ、己には宇宙の心、即ち偉大なる「愛」が無限に降り注ぎ包まれているということに気付くのでしょう。

 その時、人間はきっと意識して「愛そう」等としなくても、光の当たっている鏡が常にその光を反射して輝いているように、「愛している」のが自然で当たり前の状態になっているのかも知れません。

 そうなって初めて、理想の合氣道は完成するのでしょうか?・・・。

 生きているうちにそこまでの境地に辿り着きたいものです。
#キリスト教 #ブログ #合気道 #武術 #武道

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