心の世界を求め、心で目的を達成する
4月
20日
お久し振りです。
3月18日(水)放送のテレビ朝日『あいつ今何してる?』にて、フリーアナウンサーとして活躍する新井恵理那さんが通っていた合氣道道場として当道場が紹介されました。
ご覧になって下さった方々から、たくさんの反響を頂き、誠にありがとうございました。
この件に関しましては、また次回のブログにでも書こうかと思っております。
思い起こせば、3か月前の1月19日(日)に道場の「鏡開き」のイベントが無事終わり、ホッとしたのも束の間、突然親族の不幸があり、そんな状況下で何とか確定申告を済ませ、今度は全国放送のテレビ番組で道場を紹介してもらうという栄誉にあずかり(私も出演致しました)、そうこうしているうちに世界は新型コロナウィルスの感染拡大で大変なことに・・・。
全く、人生は流転し、世の中は激しく移り変わって行くものです・・・。
ところで、例年通り今年も「鏡開き」の館長挨拶では、「練心館の今年のテーマ」を発表させて頂きました。
あれから3か月経ってしまいましたが、例によって今回も予めの原稿などはありません。
取り敢えずは、3か月前のことを色々と思い出しながらここに書き記して置こうと思います。
皆様、明けましておめでとうございます。
昨年の練心館道場のテーマは「型(形)を信頼する」でした。
劇作家で批評家の福田恆存氏の論考などを引用して、「型(形)」があるからこそ人間は救われるのだ、といったお話をしたと思います。
(※参照)https://jp.bloguru.com/renshinkan/342729/2019-02-13
それは確か、曹洞宗の大本山である總持寺の僧侶のお話から着想を得たものでした。
早速ですが、今年の練心館道場のテーマは、「心の世界を求め、心で目的を達成する」で行こうと思います。
今回のテーマに思い至った経緯は、漢方医として活躍され、一般向けの著書も多数書かれている桜井竜生(さくらいりゅうせい)さんのエッセイを読んだことが切っ掛けです。
そのエッセイの内容は、桜井氏が、『日本の弓術』(ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルが日本滞在中に弓道の伝説的名人、阿波研造(あわけんぞう)に入門し、数多のカルチャーショックを乗り越えながら修業に没頭してゆく様が書かれた名著)を読んで衝撃を受け、ご自身の漢方医としての仕事にも照らし合わせて深く考えさせられた、というものでした。
ドイツ人であるオイゲン・ヘリゲルは、当初、日本の弓術もヨーロッパのアーチェリーや射撃と同じ、所謂「スポーツ」であろうと考えていましたが、その予想は阿波先生によって真っ向から打ち砕かれます。
*「弓術はスポーツではない」
*「弓は筋肉を弛めて力を抜いて、心で引く」
*「無心になれ」
*「的を狙ってはいけない」
*「弓を引いたら矢がひとりでに離れるまで待つ」
等々。
的に矢を当てるためのテクニックやコツを習得するよりも、力を抜き、無心になり、自然に矢が的と一体となる感覚を掴め、という阿波先生の教えは、漢方医としても、無理に治すことだけに執着せず、無心を追求してただ診察治療することで患者さんが快方への良い流れに乗る、という、診療現場でもしばしば起こる現象に何か通じるものを感じる、とのことでした。
そして、物事を成し遂げる時には、二種類の達成方法があるのではないか、と桜井氏は言われます。
一つはスポーツや現代医学のように、徹底的にテクニックを磨きコツを掴み、鍛錬を通して達成するという方法であり、もう一つは、阿波先生が説かれたような、力を抜き、我を捨て去ることで、現状を、目標となる状態に自然と一体化させていく、という精神的な方法だと言います。
いずれにせよ、後者のような「心の世界を求め、心で目的を達成する」という精神的な方法を我々日本人は過去に持っていたということを忘れてはいけない、と『日本の弓術』は思い出させてくれた、とのことでした。
ここではいつも言っていることですが、合氣道はスポーツ化を免れた現代では稀有な武道です。
完全にスポーツ化し、「いかに相手より先に多くのポイントを取るか」「いかに相手をK.O.するか」の観点ならば、科学的かつ合理的にフィジカルを鍛錬し、徹底的にテクニックを追求する方が確かな結果を得られることは確実でしょう。
それらはオリンピックや国際大会で活躍するアスリートの姿を見れば自明のことです。
しかし、これもいつも言うことですが、そうなってしまった時点で、我々の世界では、それらはやはり厳密には「武道」と呼ぶに相応しくないのではないか?というのが自分の本音です。
先程いくつか簡単にまとめた、弓聖、阿波研造先生が『日本の弓術』の中で説かれている教えは、合氣道風にアレンジすれば、そのまま合氣道にもぴったり当てはまります。
*「合氣道はスポーツではない」
オイゲン・ヘリゲル風(柴田治三郎訳)に言うのならば、合氣の「術」とは、主として肉体的な修練によって誰でも多少は会得することのできるスポーツの能力、すなわち「相手を倒す」がその標準と考えられるような能力、ではなく、日本弓術と同様に、それとは別の精神的な鍛練に起源が求められるものだ、と言えます。
*「合氣道の技は筋肉を弛め力を抜いて、心を積極的に駆使することでより理想的に成立する」
リラックスして心と身体を完全に一体化させた「心身統一体」になることで、身体の重心や臍下丹田(腹圧)の力といった、むしろ強大な力が自在に扱えるようになるものです。
*「我を捨て去り、いかに無心になれるかどうかも技の完成度を大きく左右する」
心の中での「我」、すなわち拘りや思い込みが強過ぎると、それはすぐさま身体の力みや強張りに直結します。それでは「心身統一体」は成立しません。
*「相手に技を掛けてやろう、倒してやろう、と狙ってはいけない」
これらがまさに克服すべき「我」そのものであり、この「我」は、事に臨んでの臨機応変が求められる武道では、却って心身の自由を制限しパフォーマンスを下げてしまう要因となります。
*「相手の意思を尊重してやれば相手を正しく導くことができ、結果相手は喜んで倒れる」
相手の攻撃の軌道は、相手の意思そのものの方向性であり、相手の氣の流れそのものです。それらを邪魔することなく尊重してやれば相手を正しく導くことができ、結果として相手は喜んで倒れてくれます。
科学万能の時代とも言える昨今では、「心の世界を求め、心で目的を達成する」ような方法は、非効率的で費用対効果の悪い、時代遅れのものだと言われてしまうかもしれません。
明治の近代化・西洋化以降、日本人は具体的に可視化されたテクニック(技術)や数値化して比較考量できる成果を追い求め、それなりに大きな成果を出してきたという歴史があります。
最近ではそこに「情報」という要素も追加され、情報収集の能力こそが物事の結果を左右するとまで喧伝されるようになってきました。
しかし、今の時代に、逆に「心の世界を求め、心で目的を達成する」方法だからこそ得られる、大切なものもあるのではないかと思うのです。
合氣道家としても名高い哲学者・思想家の内田樹先生は、我々が真に「ものを学ぶ」とは、自身の「価値観そのものが変容し進化する」ことだと以前から頻りに説かれています。
それは譬えるならば、「便利で有用そうなアプリを手っ取り早く自身にダウンロードする」という作業では決してなく、「自身を根本から突き動かしている基本OS(Operating System)そのものを書き換える」ことだと言えます。
(※参照)https://jp.bloguru.com/renshinkan/278405/2016-10-05
目に見える上達のスピードは確かに遅いのかもしれませんが、「心の世界を求め、心で目的を達成する」方法で何らかの技芸を身に付けた者は、稽古・修行を通して、「価値観そのものが変容し進化」している、ということが言えるのだと思います。
そしてそれこそが、昔から武道や芸事などで重視されてきた、稽古・修行を通して技だけではなく、心・魂を磨き、人間を磨くということの真相なのではないでしょうか。
「心の世界を求め、心で目的を達成する」という方法は、確かに明確な具体性に欠けた、曖昧で、雲を掴むような話に聞こえるかもしれません。
しかし、画一的な近代学校教育や西洋式軍隊、近代スポーツなどが導入される前の江戸時代以前の日本では、意外と誰もが普通にやっていたことなのではないか?とも思うのです。
そして本来、そういったやり方こそが、あるべき日本の伝統に則った武道や芸事の稽古・修行のあり方なのではないかと思います。
これもいつも言うことかもしれませんが、「稽古」とは、「古(いにしえ)を稽(かんが)える」という意味ですから・・・。
今年の合氣道練心館道場のテーマは、「心の世界を求め、心で目的を達成する」。
もちろん、そればかりでは習う側の生徒さん達は大変でしょうから、要所要所ポイントを押さえて、きちんとテクニックやコツもお伝えします。
しかし一方で、「心の世界を求め、心で目的を達成する」という方法で身に付けた技芸は、血肉化し、魂にまでも深く浸透すると言えます。
そして、それらは年齢をいくら重ねても決して衰えることはない筈です。
心も、魂も、そして生き様までもが合氣道家になれてこそ「~道」と呼ぶに相応しいものであり、そういったものこそがテクニック(技術)の巧拙を超えた「本物」であると言えるのだと思います。
今年の合氣道練心館道場のテーマは、「心の世界を求め、心で目的を達成する」。
本年も皆様からの温かなご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。
ご清聴ありがとうございました。