大変遅くなってしまいましたが、平成31年「鏡開き」での年頭挨拶を記して置こうと思います。 例年通り、今年の「練心館のテーマ」を発表させて頂きました。 今年の合氣道練心館道場のテーマは、「型(形)を信頼する」です。 これもまた例年通りですが、あらかじめ原稿などは特に用意せず、頭の中にある内容を、その場の勢いだけでお話したので、当日の話の内容とは一字一句同じではありません。 以下、あれこれと思い出しながら書き記していこうと思います。 皆様、明けましておめでとうございます。 本日はこうして大勢の方々にお集まり頂き、心より感謝申し上げます。 さて、毎年、鏡開きの年頭挨拶では、「練心館の今年のテーマ」を発表しております。 昨年は「人類の進化」でした。そして一昨年は確か「世界平和」でしたね。 今、改めて思い返すと、住宅街の片隅にある小さな町道場が、人類がどうとか、世界がどうとか、何たる誇大妄想を・・・、と失笑を禁じ得ませんが、まあ、この合氣道という道を通して、本当にごくわずかな微力でも「世界平和」や「人類の進化」に貢献できるよう、自分なりに頑張ってきたつもりです。 今年はもう「世界」とか「人類」といった壮大なテーマは掲げず、もっと地に足着いた具体的なテーマにします。 とは言っても、やっていることが「己を宇宙と一体化させる修行の道(氣に合するの道)」である「合氣道」ですから、その意味する所はどうしても「世界の生成発展」とか「宇宙の真理」とかになってしまうのは避けられません・・・。 話を本題に戻しますが、ズバリ、今年の合氣道練心館道場のテーマは、「型(形)を信頼する」でいこうと思います。 実は、今回のこのテーマを思い付いた切っ掛けは、昨年秋に放送していたあるテレビ番組でした。 そこでは、横浜市鶴見区にある曹洞宗の大本山、總持寺での禅の修行が紹介されていました。 そして修行僧の指導役である単頭(※たんとう)を務められる、柴田康裕(しばたこうゆう)さんという方がお話されていた内容に深い感銘を受けました。 柴田康裕さん曰く、 「今、『型』が無いわけではないが崩れている時代です。それでいて自由だとか個性だとか、あるいは創造なんて言います。でも元々の『型』が崩れているから不安定なんです。だから皆、不安なんですよ。でも、ここには釈迦より2500年続いてきた信頼できる『型』がある。そこが何か安心するのではないでしょうか・・・。」 合氣道はスポーツ競技化を免れた数少ない現代武道です。 私たち合氣道家は、ごく一部の例外を除いて、乱取り稽古や試合はしません。 ひたすら繰り返すのは「型(形)稽古」です。 それも、独りで行う「空手の型」や「中国武術の套路」と違い、「打太刀」と「仕太刀」が二者一対となって行う、日本伝統の「型(形)稽古」です。 手前味噌な話で恐縮ですが、ここ練心館道場にも、日本の侍が数百年守り通してきた伝統に基づいた、信頼できる「型(形)」がある、と言えるのではないかと思います。 そして、合氣道の「型(形)稽古」は、力まず、ぶつからず、争わず、相手と調和し、相手を正しく導き、延いては宇宙そのものと調和する心で行うことが肝要だと言われます。 この日本剣術由来の「二者一対となって型(形)を成す」という「型(形)稽古」の方法は、ある意味、宇宙の真理の体現でもあると言えるのです。 私たちが暮らすこの宇宙には陰陽(マイナスとプラス)異なるエネルギーが存在します。 例えば、男と女、天と地、太陽と月、昼と夜、夏と冬、生と死、動と静、N極とS極、陽子と電子、遠心力と求心力、斥力と引力、等々、言い出したら切りがありません。 合氣道開祖、植芝盛平先生の説かれた古神道由来の教えの中に「一霊四魂三元八力(いちれいしこんさんげんはちりき)」というものがあります。 「一霊」とは「直霊(なおひ)」、「四魂」とは「荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)」、「三元」とは「剛、柔、流」、そして「八力」とは「解と凝、動と静、引と弛、合と分」ですが、この「八力」こそが宇宙に存在する陰陽異なるエネルギーそのものだと言えます。 そしてこの、陰陽異なるエネルギーが存在するおかげで、世界に「エネルギーの循環」が発生します。 この陰陽異なるエネルギーが織りなす「エネルギーの循環」こそが、実はこの世界の生成発展の原動力になっているのです。 難しいことを説明しなくても、「男(オス)と女(メス)が織りなす様々なドラマ」=「エネルギーの循環」こそが、全ての生物の繁栄の基本だと言えば簡単ですね・・・。 そしてこの世界の生成発展の原動力である「エネルギーの循環」が、つつがなく、滞りなく、行われるためには、まずは陰陽異なるエネルギーが美しく調和するということが求められます。 要するに、男(オス)と女(メス)が敵対して、いがみ合ってばかりいたら、全ての生物は絶滅してしまう、という例を考えれば簡単です・・・。 そしてここで一番大切なのは、伝統的日本剣術や合氣道の、二者一対で行う「型(形)稽古」は、単に「敵を倒す」などといった狭義の解釈で理解するものではなく、この宇宙に存在する陰陽の調和とエネルギーの循環、更にはそれによる世界の生成発展をも含んだ、宇宙の真理の体現なのだ、と理解することです。 打太刀(受け)は打太刀(受け)として自身がやるべきことを全うし、仕太刀(投げ)は仕太刀(投げ)として己のすべきことを全うする。そして両者が美しく調和した時、私たちは、ちっぽけな自我から脱却し、「型(形)」そのものに完全に同化したかのような感覚を覚えます。それは延いては、宇宙そのものとの同化であり、天から与えられたかけがえのない命としての、純粋な生の充実、まさに本当の「安心」を得ることができるのです。 以前から自分は、「合氣道にはなぜ人を救う力があるのか?」という問題について考えていました。 そして、学生時代に読んだ、劇作家で評論家の福田恆存氏の論考が、30年近く経った今頃になって、改めて、武道の「型(形)稽古」というものの持つ深い意味を理解するために、大きなヒントを与えてくれていることに気付かされました。 今回、自分の言葉で上手くまとめようと試みたのですが、どうも上手くいかなかったので、ここで直接、引用させて頂きます。 「私たちが個人の全体性を恢復する唯一の道は、自分が部分にすぎぬことを覚悟し、意識的に部分としての自己を味わいつくすこと、その味わいの過程において、全体性が象徴的に甦る。 よくいわれる自我の確立というのは、そういうことだ。」 (『人間・この劇的なるもの』より) 「私たちが型に頼らなければ生の充実をはかりえぬのは、すでに私たち以前に、自然が型によって動いていたからにほかならぬ。生命が周期をもった型であるという概念を、私たちは、ほかならぬ自然から学び知ったのだ。自然の生成に必然の型があればこそ、私たちはそれにくりかえし慣れ、習熟することができる。そして偶然に支配されがちの無意味で不必要な行動から解放される。なぜなら、型にしたがった行動は、その一区切り一区切りが必然であり、それぞれが他に従属しながら、しかもそれぞれがみずから目的となる。一つの行動が他の行動にとって、たんなる前提となり、手段となるような日常的因果関係のなかでは、そのときどきの判断によって採用された行動は、たいてい無意味で不必要な結果に終る。個人の判断が、その必然性の一貫にどれほど緻密な計算をはたらかせようとも、それはほとんどつねに偶然の手にゆだねられる。 必然とは部分が全体につながっているということであり、偶然とは部分が全体から脱落したことである。 ( 中 略 ) 型にしたがった行動は、(中略)行動をそれ自体として純粋に味わいうるようにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱卻し、それ自身において完全な、生命そのものの根源につながることができるのだ。」 (『人間・この劇的なるもの』より) 私たちがいつも当たり前のように行っている「型(形)稽古」の「型(形)」は、「世界の生成発展の原動力の象徴」であり、「宇宙の真理の体現」そのものでもあります。 また同時に、福田恆存風に言うならば、断片としての部分に過ぎず、何事も単なる偶然性に支配されがちな「個人」が、「必然性」や「全体性」を回復するための「型(形)稽古」であり、真に生の充実を図るための、生命そのものの根源につながるための大切な「型(形)稽古」なのです。 様々な分野で型が崩れ、それでいて自由や個性、創造などと要求され、あらゆるものが不安定であるが故に、不安を抱えた現代社会。 やはり合氣道には信頼できる「型(形)」があり、大きな「安心」があるのだと言えます。 合氣道にはなぜ人を救う力があるのか?、その辺に答えがあるのでしょう。 ところで、古来より日本の芸事の修業では「型(形)」が重視されてきたというのは言うまでもありませんが、そこでは「守→破→離」という段階をきちんと順を追って進むことが肝要とされてきました。 この「守破離」とは元々は千利休の言葉だそうですが、これは簡単に言えば、「初心者→上手→名人」という過程です。 「守」は、基本の型(技)を確実に身につける段階。 「破」は、それら基本を更に発展させる段階。 そして「離」は、独自のスタイルや新しいものを確立する段階だと言われ、この「離」こそがまさに時流の「自由・個性・創造」そのものだと言えるでしょう。 そして、これと関連して、昔から大切な戒めとして言われてきたのが「型破り」と「形なし」です。 「型(形)」を確実に身に付けている者だけが、大胆な「型破り」にもなれるのだが、一方で、基本的な「型(形)」すら体得していない者がそれを真似た所で、所詮は「形なし」に終わってしまう、というやつです。 私たちはそんな「形なし」にならない様、くれぐれも注意しなければなりません。 そしてできることならば、昨今の時代の要請でもある「自由・個性・創造」にもきちんと応えられるような人間になることが望ましいのかも知れません。 言わばそんな「型破り」な人間になるためにも、まずはきちんと「型(形)」を身に付けるということを忘れてはいけないのでしょう。 そのためにも、まず、私たちが最初にやらなければならないのは、目の前にある合氣道の「型(形)を信頼する」ということ以外にないのではないかと思います。 そんな訳で、本年も、皆様からの温かなご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。 ご清聴、ありがとうございました。