【アートとコーチングの交差点】対話型鑑賞から見えた“聴く”ということ
7月
10日
こんにちは、nemigiです。
先日対話型鑑賞の勉強会に参加してきました。
アート作品を前に「この絵から何が読み取れるか」「作者は何を意図していたのか」「そして自分は何を感じるのか」を、
他の参加者と一緒に、言葉を交わしながら深めていく場でした。
アート作品を前に「この絵から何が読み取れるか」「作者は何を意図していたのか」「そして自分は何を感じるのか」を、
他の参加者と一緒に、言葉を交わしながら深めていく場でした。
この体験が想像以上に深かった。
そして何より、コーチとしての在り方を改めて見つめ直すきっかけになりました。
鑑賞のプロセスはどこかコーチングのセッションと似ています。
最初は「自分はどう感じたか?」という素直な印象から始まり、
そこに他者の視点や異なる見方が加わることで、
「そういう見方もあるのか」「自分はなぜそう感じたんだろう?」と思考が内側に深く潜っていく。
そこに他者の視点や異なる見方が加わることで、
「そういう見方もあるのか」「自分はなぜそう感じたんだろう?」と思考が内側に深く潜っていく。
まさに問いと対話によって「見えていなかったものが立ち上がってくる」時間でした。
面白かったのは、
「言葉にしようとすることで、感じていたはずの何かが急にぼやける」
あるいは
「誰かの表現に刺激されて、自分の感覚が整理されてくる」
そんな感覚の行き来があったことです。
言葉にすることで輪郭が見えることもあれば、
言葉にしようとして失われることもある。
言葉にしようとして失われることもある。
それでも「感じたことを言葉にする」「誰かの言葉を受け取る」ことをあきらめない。
このプロセスがまさに“対話”の本質なのだと思いました。
このプロセスがまさに“対話”の本質なのだと思いました。
私は今、アートとコーチングの両方を学びながら、
この2つが決して別のものではなく、
“人と人が出会うための方法”として根っこでつながっていることを強く感じています。
作品を鑑賞することも、クライアントの言葉を聴くことも、
「理解する」より先に「受け取ろうとする」姿勢が必要で、
そこには正解がなく、時間と余白が必要で——
だからこそ、丁寧に向き合いたいと思える営みです。
「理解する」より先に「受け取ろうとする」姿勢が必要で、
そこには正解がなく、時間と余白が必要で——
だからこそ、丁寧に向き合いたいと思える営みです。
今回の対話型鑑賞は私にとって
「コーチングは“聴くこと”であり、“共に見ること”なのだ」という原点の確認になりました。
言葉にならない感覚に耳を澄ませる。
他者の視点を否定せず、自分の感覚とも重ねてみる。
その中で少しずつ立ち上がる「自分だけの答え」。
他者の視点を否定せず、自分の感覚とも重ねてみる。
その中で少しずつ立ち上がる「自分だけの答え」。
それは、まさにコーチングのプロセスと重なるものだと思います。
これからもアートや感性の学びを通じてコーチとしての根っこを深めていきたい。
そんな想いを、改めて感じた一日でした。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。