「廃墟/廃屋」は、アートだ・・・・・と、 力んでいるつもりはありませんが、やはり古いというだけでなく、「滅びゆく哀愁」があるものです。 その佇まいは、「大正ロマン」や「昭和レトロ」とは違う人間の営みの終焉を感じさせます。
私たちもまた、時の流れの中で生きている。 今は輝いているものも、いつかは色褪せていく。 しかし、だからこそ一瞬一瞬がかけがえのないものに思える。 朽ちてゆく車や建物を前に、 私は無情の時の移り変わりを感じつつも、 その中にある温かな記憶や物語に、 そっと心を寄せたくなる。
朽ちてゆくものには、どこか哀愁が漂う。 人の手が離れ、自然の力に身を委ねるその姿は、無常という言葉を思い出させる。 すべてのものはやがて形を失い、土へと還っていく。 けれども、そこには悲しみだけでなく、静かな美しさがあるように思う。 錆びた鉄や崩れかけた壁に、時の流れが刻まれている。 それは、確かにここに人が生きていた証でもある。
かつてこの車も家も、新しい命を与えられ、人々の暮らしを支えていたのだろう。 車は家族を乗せてどこまでも走り、家は笑い声や食事の匂いで満ちていたに違いない。 しかし、時が経つにつれて人々の生活は移り変わり、 役目を終えた車や家は、静かに朽ちていく。
彼らの姿からは、単なるファッション以上のもの――人生をどう味わうか、時間をどう楽しむかという、内面から湧き出る豊かさが伝わってきます。 年齢を重ねることを恐れず、むしろ楽しむ。 その姿は、見る者に「自分もこんなふうに年を重ねたい」と思わせるほどの魅力に満ちていました。
細部にまで心を配った装いは、日々を大切に生きようとする意志そのものです。 「どうでもいい」と投げやりにならず、ひとつひとつを楽しみ、慈しむ。 帽子を選ぶ手、マフラーを巻く手、靴を磨く手には、人生そのものへの愛着と誇りが感じられます。
整えられた身なりは、周囲への礼儀でもあります。 「自分をどう見せるか」だけでなく、「相手への敬意」を込めた装いをしています。 出会う人々への温かなまなざしを、彼らは無言のうちに表現しているといえますね。
服や小物を選ぶセンスには、知識、感性、そして心の豊かさが反映されます。 磨かれた内面があるからこそ、派手さではない本物の洗練が生まれる。 彼らの装いは、人生を味わい尽くしてきた人にしか出せない、静かな深みをたたえています。