護られなかった者たちへ~権利と義務、実態とイメージの狭間で~
3月
23日
※映画がすごく気になってネタバレありの感想を読み漁りつつも、
実際には未だ視聴せずにいる人間が好き勝手に書いてるだけの記事です。
※映画や原作小説が好きな方、ネタバレが嫌な方はご注意ください。
図らずも原作本のレビューを見て、
「ああ、やっぱりな」と思ってしまった。
この作品はおそらく、現場をわかっていない。
現場をわからないままに、現場を描いている。
現場の人間の心情がわからないままに、
現場の人間の心情を描いている。
わかったつもりで、描いている。
だから、「知っている」人間にとっては耐えられない。
きっとそこを、なんとかしようともがいたのが映画な気がする。
少しでも現場を知ろうともがき、伝えようとあがいた結果、
メッセージ性が薄まってしまったのかもしれない。
動機が弱まってしまったのかもしれない。
特に、被害者3人を善人の仮面を被った完全な悪人から、
善も悪も併せ持った、でも実はどこにでもいそうな人間に変えてしまったことが、
一部の原作支持者から、どうやら不評を買っているらしい。
だけどこの点に関しては、私はたぶん映画を支持する。
完全な善人がいないのと同じように、完全な悪人もいない。
現場を知らない人間が中途半端に知ったかぶって、
現場に悪を押し付けたのであれば、それは心底辟易するし、
自分を安全地帯に置いたうえで、
身勝手に「悪人」叩きをするのであれば、それは軽蔑に値する。
だから、一部の原作ファンを敵に回しつつも、
そこに果敢にチャレンジしたらしい映画を、見てみたい気にもなった。
ただ、映画も大事な視点が欠けているのではないかという気がしている。
なぜ、国が制度を厳格化したのか。
きっとその背景が欠けている。
「不正が横行したから」や「不正に対応するため」は、
理由であると同時に、理由にはならない。
「不正」という概念が曖昧なまま、
「制度」に対する理解も乏しいままで、
言葉だけが独り歩きしてしまっているという現状がある。
概念や理解が曖昧なままで、無責任な正義を振りかざす、
マスコミや世論の存在がある。
現場はいつだって板挟み状態で、
だからこそ余計に、犯人の動機には納得ができない。
映画では現場をわかろうともがいた結果、
それぞれの人間を複合的に描こうとした結果、
それでも大筋は原作をなぞるしかなかった結果、
伝えたいことがぼやけてしまったというか、
中途半端な作品になってしまったのかなぁと思う。