謎と必然性のバランス2
2月
6日
そういう意味ではさ。
大河「麒麟がくる」は大成功だと思うのよ。
「光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか」という
歴史上の大きな謎を、
丁寧に描き切ろうとしているわけだから。
宴の席での信長による
公開パワハラは有名だけどさ。
でも、この物語ではずっと、
「信長様であれば、麒麟を連れて来れるかもしれぬ」って
流れで来てたわけじゃない。
それが、いったいどこから
二人の歯車が噛み合わなくなってしまうのか。
いったいどうして、
長谷川光秀が染谷信長を殺すに至るのか。
その過程を追うのが、
すごくおもしろいんだよね。
途中、オリキャラ出過ぎで批判もあったけど、
オリキャラのパートを飛ばして見てた視聴者もいるけど、
それでも見放さずについてきた人、
けっこういるわけじゃない?
それってやっぱり、この世紀の謎を、
この作品ではどう描くのかを、
見届けたいからだと思うんだよね。
だから、「謎」を謎のままにして物語を展開し、
最後まで視聴者を惹きつけることは、
すごく重要なことだけど。
それをするためには、
起承転結の「起」から「転」に至る過程、
つまりは「承」を丁寧に描く必要があるんだよね。
それなしに、矢継ぎ早に
「転」と「結」をやられても、
わからんのだよ。
大げさな例を挙げるとすれば。
信長との初対面時に、
「信長様ならば、麒麟を連れて来れるかもしれぬ」って言って、
その日の夜に、「膳が違うっ!!」と公開パワハラを受けて、
翌日に本能寺の変を起こして、その次の日に秀吉に敵討ちされる、
そんな、「3日天下」ならぬ、
「3日物語」みたいな状態じゃあ、わけわからん、って話です。
感動も何もないだろ、って話です。
どうして、信長ならば麒麟を連れて来れるかもしれないと、
思うに至ったのか。
そして、そう思ったにも関わらず、
信長も光秀を重用していたにも関わらず、
どうして二人の間に溝ができたのか。
そしてそれがどう、
本能寺の変に発展していくのか。
そこら辺を描かないと、
視聴者は置いてけぼりを食らうわけです。
そして、それを丁寧に描いているからこそ、
少しずつ、少しずつ謎が解明されていくからこそ、
微妙な心情の変化がわかってくるからこそ、
最後まで見たいと思うんです。
それなのに、貴重なパーツを
うまくつなぎ合わせようとしないどころか、
単なる「雰囲気作りのための小道具」として
かき集めて使い捨てにしてたんじゃあ、
「雰囲気だけで内容の薄いミュージックビデオ」と
酷評されても仕方ないと思う。