Dodgeball
8月
27日
昨日TVを見ていたら某番組の紹介クリップでDodgeballという文字が出て来た。
ドッジボール?ドッジボールって、あのドッジボールか?と思う。で、夫に訊いてみた。
ードッジボールって知ってる?
ーもちろん知ってる。
ーやってたの?子供の頃?
ーああ、大好きだった!
ーえ、、、、わたし、大嫌いだったよ、、、、
もしかしたら言ってる競技そのものが違うものかもしれないと思い、わたしの言うところのドッジボールについて説明したら「そうそう、それ」と言われた。そっか、アメリカでもドッジボールってあったのか、と思う。実を言うと、あれは競技というより子供の遊びだと思っていた。そして、子供の遊びを体育の時間にさせる体育の先生を恨んだものだ。
何が嫌だったかと言うと、相手チームのボールを持った子の目だ。真剣に喜んでいるあの目。やっつけてやる、というあの目つき。あれが怖ろしくてたまらなかった。目が合うとそれこそ狙い打ちされてしまうから、視線を合わせないようにしたものだ。そして、必死で逃げる。そもそも、Dodgeという意味は「避ける」という意味で、もちろんそんなことは小学生だった自分には知る由もないのだけれど、とにかく、ボールを受けてやる!という気色は一切、なかった。逃げるしかないのだ。
でも、たまに、真正面にボールが来てしまうことがある。逃げられない、と悟る。そんなとき、一瞬、頭の中では鮮やかにボールを受け、すかさず相手チームに投げる自分の勇姿が見えたりした。しかし現実にはそうは行かない。あっという間に退場だ。でも、その、退場できるその瞬間が至福のひとときだった。あぁこれでもう安泰。
正直、ゲームが始まるや否や、もういいから当ててくれ、外に出させてくれ、と願ったものだ。逃げまどう、あの時間の怖ろしさを思うと、最初から戦線離脱を希望したほうが余程良い。そんなわたしの考えを、体育教師はすかさず捉え、「おーいm!ちゃんと参加しろ!」とか「m!わざと当てられたなー」とか、言っていた。先生、それは違う。わざと当てられるほどの勇気はない。なんつったって、向こうは真剣に投げてくるのだ。あんなのに当てられたい、と思うのは無理でしょう。
あぁ嫌いだった、体育の時間。なんで授業に体育なんてあるんだ、と思ったものだ。なんで遊びが授業になるの。遊びだと面白いのに。
そう。
だった。
遊びでドッジボールをする時は面白かった。なんでだ?
まず、コート(というのか?)の境界線が曖昧だったな。それから、参加者が多種多様。ちっさい子も混じっていたし、もちろん男女問わず。それに、チーム分けもその時々の子供たちの気分で決めた。今思い返せば、決めるときに何かしらの遊び心があった。例えば、うちの近所にある「ファチマ橋」の北側と南側で別れるとか、リーダーを先に選んで(これが不思議と満場一致で簡単に選べたものだ)そのリーダーがチームメイトを一人ずつ取っていく、とか。それから、チーム内の仲間意識がやたら高かった。わたしの場合、同じチームの強そうな子に「守られている感」があった。○○と○○がいるから大丈夫、みたいな。それは不思議な力となって、自分も積極的に遊べだ。つまり、ボールを受けようとしたり、相手を当てようとしたりしちゃっていた。結構、楽しくやっていたのだ。
そっか、自分が苦手だったのは「体育」という授業か、と思う。授業が嫌いだったのか、授業だから他の生徒が違っちゃったのか、ちょっとよくわからないけれど、とにかく、授業のドッジボールは怖ろしい競技でしかなかった。
そんな話を夫にしたら、彼は笑いながら、シンプルで楽しい競技でしかなかったけどね、とか言っていた。一定以上の力のある者にとってはそうなのだろう。
大嫌いだった体育の先生は小学6年の時の担任でもあった。毎朝、両腕で椅子を水平に持ち上げ、30秒だか1分だか3分だか、どれくらいの時間かはもう忘れてしまったけれど、あんなことをさせるなんて、今の世の中じゃ体罰になってしまうのではなかろうか?少なくとも当時のわたしにとっては拷問だった。でも、それは問題にはならなかったし、クラスメイトの中でも「辛い〜」とか「もう嫌だ〜」とか先生のいないところで冗談ぽく言い合うだけで、みんなが本気で嫌がっているようには見えなかった。だからわたしも頑張ったのだ。みんなに合わせなくちゃ、って。あああああなんて不憫な。
なんてことを、色々と思い出した次第。
ちなみに、先のドッジボールの番組というのはこれ。
ま、こうなるともうドッジボールじゃぁない。
・・・
今日はDの誕生日だ。15歳になる筈だった。
DはB&Pと虹の橋の向こうで楽しんでいる。びゅんびゅん駆け回ってもふもふ寝てる。
Dちゃん、君は本当に最高の犬!