親と犬
6月
15日
わたしは、自分のことを良い親ではないと思っている。
以前は、もしかしたら自分は毒親なのかもしれない、いやきっとそうに違いない、と思っていた。
でも今は、毒親は言い過ぎだろう、と、自分に甘くなった。現実はどうかわからないけれど。
ただ、良い親だとは今でも思わない。どちらかと言うと、とんでもない親だと思う。せめて、「普通の」親だと思いたいが、そうじゃないことはわかっている。
色々な人の、親の話、というのを目にすると、あぁこの人の親は素晴らしいなぁとか、良い親を持てて良かったね・・・とか、少しばかりの罪悪感とともに思う。それはブログだったり、インタビュー記事だったりするのだが、かつて子どもだった人が大人になってから親のことを回想するもので、大人になったかつての子どもは、その時の親の視点とか気持ちとかを汲み取って言葉にしている。そして、彼らの親のことを(きっと無意識なのだろうけれど)誇らしく感じている。ように思える。
わたしの知り得ないことももちろんあったのだろうけれど(それはきっと伏せられているのだろうけれど)、大人になった彼らは親のことを新しい目で見ていて、その視線はとても穏やかで、優しい。
わたしは幼い頃に父を亡くして、父の記憶というものは殆どなく、それでも兄貴や姉たちの話から父のことを思い出していた。その中の父は、変な話、神格化されていて、まるで聖人と言っても良いくらい。それは兄貴や姉たちの中でも同じだったのだと思う。
それが大人になって、たぶん物事の複雑さも少しずつわかってきて、時を同じくいわゆる文字の如しの子育てから解放された母親から生前の父の様子なども聞くようになり、なんだ、父も一人の人間だったんだ、と思うようになった。なんだ、父は相当な変わり者だったのか、とも思ったし、何それちょっと暴君的?とも感じたり。時代が時代だったし、父の数奇な人生背景からすると、理解できなくもないが、母はよくまぁ尽くしたものだ、と思った。
母を亡くしてからは、姉たちと母の思い出話をしながら、母もまた一人の人間で、母なりの歩みで人生を全うしたのだなぁ、と思う。昔は理解しなかった母の多様さを、なんとなくわかるような気がしている。それはもちろん、わたしたちなりの解釈なのだけど。
今日、辻仁成氏の滞仏日記を読んで、かつて娘に言った言葉を思い出した。犬が欲しい、と懇願する娘に「今はダメ」と言い続けた。最初は「アメリカに引っ越すから」、次は「アパートだから」。娘は、アメリカに来たら犬を飼ってもいいって言った!と、食い下がったが、最初はアパート暮らしだったので、家を購入するまでは待て、と言い続けた。理由も説明したが、当時暮らしていたアパートで大型犬を飼っている家庭がいくつかあったので、娘には理解できなかったと思う。
結果から言うと、そのアパートにいたのは3ヶ月程で、家を購入してからすぐに犬を迎え入れた。わたしたちは元からそのつもりでいたが、娘にとっては待ち続けた口約がやっと果たされたのだった。
大人になった娘は、あの頃の彼女の待ちこがれる気持ちや何度か味わった「まだその時じゃない」とわかった時の悲しみは忘れられないみたいで、時々そういう話になる。
この、「犬はダメ」言動については、わたしたちの考えを娘に理解してもらいたいとは思っていない(それは彼女の問題だ)。だが、わたしの中では、数少ない、「自分、よくやったぞ」と思えるもので、先の辻氏のブログを読み、あらためて、過去の自分に「それがベストだったぞ」、と言ってあげたくなった。
てか、ぶっちゃけ、犬がいるから良かった!特に娘が巣立ってからは、犬がいてくれてどれだけ救われてるか知れないよ。
老夫婦に犬2頭。この組み合わせ、かなり大事。