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最上のわざ

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10/8/2017







I'm forcing me to go out and do something.
と、義母は言っていた。「時には無理をしてでも外へ出るようにしている」。
定年してからは特にそうしているとのことだった。実際、彼女はよくやっていると思う。教会の婦人会(とでも言うのかな?)に参加し、お葬式や教会での催しものの手伝いをしたり(これが結構、頻回にある。特にお葬式)、meals on wheelsのボランティアもやっている。毎週火曜日のレディースゴルフ、ズンバのレッスンなどは自分自身の楽しみとして続けているし、フットボールの観戦も同じだ。

義母は去年、乳癌の手術を受けた。幸い、初期の段階だったので、手術範囲は小さくて済んだ。手術後には何クールかの放射線治療を受け、今はチェックアップのみとなっている。母親を乳癌で亡くしている義母は、毎年の乳癌検診を怠ったことがない。義母の妹は、もう随分前に乳癌のために片側の乳棒切除術を受けているし、何年か前には再発してもう片方も手術となった。なので、義母は常にいつかは自分も、という恐怖心を持っていたらしい。それが現実となったのが昨年のことだった。
治療のために色々な制限を受けた時期があり、少しずつ、元の生活に戻そうと努力をしているのが今の義母の状況だ。体力的なことだけでなく、精神的に「何もせずにゆっくりしていたい」と思うことが多々あるそうだ。それでも奮起して「家の中だけにいないようにしている」のには、それをしてしまうとなかなかそこから這い上がれなくなるかもしれない、という思いもあるからだと言う。それは本当にそうだと思う。


友人がこんなことを言った。
彼女の義母もまた、教会の手伝いや地域の子供達の世話など色々なボランティアをしていたらしいが、「今は老人ホームに入って、テレビをずーっと見てるだけよ」。
この話を聞いた時、少し胸が痛んだのだが、同時に、それもまた役割なのかもしれない、と思った。
わたしの母はホームではなく在宅なので、デイの皆さんにお世話になりながら暮らしている。身体的な機能の衰えとともに認知症の方もどんどん進行し、母と一緒に暮らす姉の苦労は大変なものだ。だが、それでも母には生きる意味があるし、そういう母の姿を見ながら、わたしたちは生かされている。
我が家に飾られている一編の詩を思い出した。


最上のわざ  ヘルマン・ホイヴェルス

 この世の最上のわざは何?
 楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
 若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。
 老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。
 まことのふるさとへ行くために。
 おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつ外ずしていくのは、真にえらい仕事。
 こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。
 神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
 それは祈りだ。
 手は何もできない。
 けれども最後まで合掌できる。
 愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
 すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。







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