始業の祈り
6月
21日
昨夜は度々起こされた。
母は何やら不安が強かったのだろうか。9時頃にベッドへ誘導したのだが、11時に1度、12時から2時頃まで10〜15分置き、3時半にトイレへ誘導、その後も4時半、5時半。
蒸し暑かったのもあるかもしれない。トイレ誘導した際、かなり汗をかいていたので着替えさせた。あけがたの大雨で蒸し暑さが少し和らいだ。
6時40分、飛び起きて母に声をかけた。(わたし自身、眠れなかったので寝過ごしてしまったかと焦った!)
母、とても穏やか。トイレへ誘導、モーニングケア。
お迎えの時にも穏やかだった。ほっと安堵。
「待っとれよー」
と言いながらデイへ。「行ってらっしゃい!」
母の調子の維持はなかなか難しい。良いときもあるのだが(以前に比べれば格段に良い)、ささいなことで不安定になってしまう。
昨夜は、帰宅時には表情が硬かった。何かあったのだな、と推測。
帳面に排便があったことが記されていた。トイレで出来なかった様子。原因はこれか・・・と納得。
母は、失敗すると落ち込むのだ。
母には尿意も便意もあるので、間に合わなかったりすると、酷く落ち込む。周囲の人に迷惑をかけてしまったという気持ちと、自分で出来ないはがゆさと。そういうものを母はまだ持ち合わせている。
昨夜も、トイレへ誘導して排尿があった時、「出たよー」と嬉しそうだった。完全な失禁状態ではないことは、母にとっては大事な砦なのだと思う。
昨夜はベッドへ行くまでの間、唄を歌ったり昔話をしたりした。母は、昔の暮らしと今の暮らしを比較し、時代が変わった、と言っていた。思考が混沌としている時もあるが、昨夜はとてもクリアーだった。姉も一緒に3人で「とっちぶる」の唄を歌ったりもした。母に笑顔が多く見られ、楽しい夜だった。
そういえば、帰宅後に軽い食事(とっちぶるを煮たもの)を出したところ、手を合わせてお祈りを始めた。それはいわゆる「食前の祈り」ではなかったのだが、「聖霊来たり給え・・・」と始まり、案外長いお祈りをはっきりと唱えた。その間わたしも手を合わせて一緒に祈り(母の記憶の良さに驚きながら)、最後の「アーメン」だけをふたりで締めた。今、検索してみたところ、どうやら母が唱えていたのは「始業の祈り」だったようだ。
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「始業の祈り」
聖霊来たり給え、信者の心に充ち給え。
主の愛熱の火を我らに燃えしめ給え。
主よ、聖霊を遣わし給え、しかしてよろずのものは造られん。
地の面は新たにならん。
祈願、聖霊の光をもって信者の心を照らし給いし天主、
同じく聖霊を持って我らに正しきことを悟らしめ、
その恩慰めによりて常に喜ぶを得しめたまえ。
われらの主キリストによりて願い奉る。
アーメン。
・・・
母は素晴らしい。
本当に素晴らしい。
母の信仰に胸を打たれる。
夜中に不安定だったことなど、なんてことない。
神さま、ありがとう。
今日、母がデイで穏やかでありますように。