私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。
「おまえのうちに平和があるように。」
私たちの神、主の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。
詩篇122篇8-9節
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて悔い改めさせるためである。
ルカによる福音書5章32節、共同訳
もの言う牧師のエッセー 第131話 再投稿
「 立派な兵士」
去る一月に、元陸軍少尉、小野田寛郎さんが亡くなった時、ニューヨーク・タイムズ紙は、「任務への忠誠心と忍耐力を体現し、戦後の繁栄と物質主義の広がりの中で、多くの日本人が失われたと感じていた誇りを呼び覚ました」と評しているが、まさに至言である。つい先ごろ東京都千代田区で開かれた小野田さんお別れの会にも、若者ら2000人が参列したというから驚く。
フィリピン・ルパング島で30年近く潜伏していた彼は、別に隠れていたわけではなく、逃げていたのでもない、“戦っていた”のである。何と言っても彼は謎の多い陸軍中野学校出身の猛者だ。彼らは極秘裏に組織された諜報部隊で、日本軍一般とは異なり、「生きて虜囚の辱めを受けても」なお生き残り、最後まで敵を撹乱し任務を遂行する。当然 “玉砕” は御法度とされ、現に自害用に母親から手渡された短刀も使うことなく、帰国後に彼女に返却している。したがって同校生徒らにとって“八紘一宇”や“鬼畜米英”などのスローガンは全く無視され、天皇制の是非についてさえ討論されたという。敵の奥深く潜行し、味方さえ欺くために、軍服を着用せず普段から平服に長髪でいることが推奨された。それゆえ、周囲から “非国民” とののしられ、スパイとして教育を受けている以上は親にも理由を明かせず苦労したと言われる。
さらに驚くべきは、生徒の9割以上が一般大学出身者で、東京帝大が最も多く、早稲田、慶応、明大等が続いた。その理由は、職業軍人にありがちな偏った知識を避け、諜報員として幅広く高い学識と冷静な視点が求められ、商社マンなどの民間人を装って活動するためであった。実際、徴兵前に小野田さんは中国勤めの商社マンだった。
そんな聡明な彼だから、日本が復興したことや皇太子の結婚などのニュースは全て知っていた。それどころか入手したラジオで日本の競馬中継を聞きながら仲間と賭けを楽しんでさえいた。野生の牛を捕獲して乾燥肉を作り、ヤシの実を食し、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率良く摂取して健康を保ち、投降式の際にはマルコス大統領から「立派な軍人」とまで評された。 聖書には
「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみを共にしてください。
兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者は誰もありません。
それは徴募した者を喜ばせるためです。」 2テモテへの手紙2章3-4節
とあるが、見ての通りクリスチャンは “キリストの兵士“ とたとえられている。確かに教会は”駆け込み寺”であり、迷える羊の導き手ではある。が、一たびキリストを心から信じ、彼の聖霊によって強くされた者は、今度は兵士となって、神を愛し人を愛することによってキリストに身を捧げるのである。笑われることもあろう。苦しい時もあろう。しかしやがて到来する「神の国」を信じて耐え忍び、聖書の言葉による豊かな栄養を取り、時には娯楽に講じながら歩むのである。愛する日本と家族たちのために、小野田さんが最後まで敗戦を認めなかったように、クリスチャンもまた、愛する神と人たちのために、負けることなくキリストの立派な兵士として戦い続けるのである。 2014-3-28
害になることを起こそうとする時、権力は必要なのだ。
しかし、他の全てを成すには、愛で十分だ。
チャップリン
もの言う牧師のエッセー 第130話 「 ゾウさん」
日本人には馴染みが深い二人の詩人が相次いで亡くなった。一人は童謡「ゾウさん」で知られる、まど・みちおさんだ。仲の良いゾウさん親子を描いたと解釈されることの多いこの詩ではあるが、「お~鼻が長いのね」は、「象の鼻が長すぎることをからかった意地悪と読めないこともない。ところが、そういう意地悪すら『そうよ。母さんも長いのよ~』が見事に肩すかしを食わせるのである」と、解釈したのが2ヶ月前に亡くなったもう一人の詩人、吉野弘さんだ。
大好きなお母さんの鼻も長いことを誇らしげに答え、自分をいじめる者の悪意を吹き飛ばした子象の痛快さである。詩はそれぞれ好きに読んでくれれば良いというまどさんだったが、「吉野さんの解釈が一番その通りという気がします」と言い残している。「自分はこの世に生かされてるんだという誇り。他とは違うからこそ、嬉しいんです」と、まどさんは語っていた。
そう言えば吉野さんも、彼の詩「生命は」において、「虫や風が訪れて、めしべとおしべを仲立ちする。生命は、その中に欠如を抱き 、それを他者から満たしてもらうのだ。」と、麗しい花が、長いおしべと短いめしべのせいで実は難しい受精のために、風や時には醜いアブの助けを借りることを優しく描いていた。人はそれぞれ違うし欠点もあるが、皆それぞれが尊敬し合い、支え合うことの大切さを、これほどまでに分かりやすく表現し、日本人の心に響く詩は容易には見つかるまい。
他者を愛し支えるということに関しては、右に出るものがないと言っても過言ではないのが、神の愛を描いた聖書である。それは、この人間の相互依存性ともいうべき問題を、人間の体にたとえて説明している。
「 目が手に向かって、『私はあなたを必要としない。』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない。』と言うこともできません。それどころか、体の中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。それは、体の中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であって、一人ひとりは各器官なのです。」
1コリント人への手紙12章21-22,25-27、
と。 さすが人間の創造者である神は言うことが合理的だ。しかし問題は、 “キリストの体であって” の一言である。これは神の家族たる教会を指すが、かと言って、これは日曜日ごとに教会に通い「アーメン」と三唱する類のことではない。神を全ての創造主として信じ、罪に堕ちた人間の救いのために、身代わりとなったキリストを心に受け入れ、彼から聖霊をいただいた者同士のことを言う。残念ながら、神を拒否し、「キリストの体」を形成することを抜きにしての “利他愛” などは、単なる耳障りの良い夢物語でしかない。キリストの体の一部となって初めて、鼻の低い人も高い人も仲良くやっていけるのである。 2014-3-21
ブリトの中身はや野菜たっぷりツナサンド、
トルティア生地の中身はチキンのチーズ和え、激ウマ!
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