《公開捜索》【京都新聞】【プロ野球】
OBONソサエティは現在、日本遺族会、京都府遺族会と合同で「天川清三郎」命のご遺族を公開で捜索しております。天川清三郎 命は従軍前は「甲子園優勝投手」そして「南海軍のプロ野球選手」でした。お心当たりのあります方がいらっしゃいましたらご連絡頂けますと幸いです。
ー80年前戦禍に散った甲子園優勝投手の遺品見つかる 京都府代表・龍谷大平安右腕 遺族どこにー
甲子園球場で球児たちが熱戦を繰り広げている全国高校野球選手権大会。戦時下の86年前の夏に京都代表として悲願の優勝を遂げた右腕で、後にプロ野球選手となるも、戦禍に散った元球児の遺品が見つかった。チームメートが寄せ書きした日の丸の旗だ。
旗の所有者は、平安中(現・龍谷大平安高)の天川清三郎さん。直球とスローカーブを投げ分けて打者を翻弄し、エースとしてチームをけん引した。
当時の京都新聞紙面によると、1938年8月21日、甲子園球場で行われた全国中学優勝野球大会(現在の高校野球選手権大会)の決勝では「柔よく剛を制す快投」を披露した。1点をリードされた最終回には打者としても出塁し、優勝を決めるサヨナラ勝ちのホームを踏んだ。
翌年にプロ野球の南海軍(現・ソフトバンクホークス)へ入団したが、わずか1年あまりで召集された。1941年、第16師団歩兵第9連隊第2大隊に所属し、南方戦線へ。1944年、フィリピン・レイテ島での激戦で、24歳の若さで亡くなった。
日の丸の旗は、交戦した米兵が持ち帰ったとみられ、その遺族が戦争遺品の返還に取り組む米NPO「OBON(オボン)ソサエティ」に相談。京都府遺族会が昨年11月から協力し、調査を続けているがいまだ遺族は見つかっておらず、情報を募っている。
京都府遺族会075(393)6050=月・水・金の午前11時~午後3時。