【NHK WORLD】戦死した兄 取り戻したつながり(A brother killed in action, a connection restored.)
1月
19日
「兄がやっと帰ってきてくれた」
戦争で命を落とした家族とのつながり。私はそれをおよそ80年ぶりに取り戻した2人の女性を取材しました。90歳代の2人は札幌とオーストラリアに住んでいますが、ともに大好きだった兄を戦争で亡くしました。そして戦地から「亡くなった」という知らせだけを受け取り、遺骨も遺品も手元に届きませんでした。そんな2人のもとに兄の遺品が海を越えて届けられました。兄と“再会”する瞬間、2人は何を思ったのでしょうか。
沖縄で戦死した札幌の兄 木箱には…
「私にとっては、宝ですね。宝。命に代えられるぐらいの宝だと思います」
札幌市に住む児玉陽子さん(91)が語るのは、1枚の日章旗のこと。
兄の吉原一德さんが20歳で出征する時に身につけていたものです。
陽子さんの9歳年上で優しくてハンサムな“自慢の兄”でしたが、太平洋戦争末期の沖縄戦で亡くなりました。21歳でした。当時、幼かった陽子さんのもとに届いたのは、戦死の通知と1つの木箱でした。
児玉陽子さん
「こんな木箱ね、渡されたんですよね。母がね、『陽子、持ってみるかい』って言って、渡されたら、カラコンコロンって。見たら石ころ1つ入ってる、それだけです」
「こんな木箱ね、渡されたんですよね。母がね、『陽子、持ってみるかい』って言って、渡されたら、カラコンコロンって。見たら石ころ1つ入ってる、それだけです」
陽子さんのもとに一德さんの日章旗が戻ってくることになったきっかけは、アメリカのNPO「OBONソサエティ」に、あるアメリカ人男性から入った1本の連絡でした。
「亡くなった父が日本から持って帰った旗を、もとの持ち主に返したい」
日章旗は、アメリカ軍兵士が沖縄からアメリカに持ち帰っていたことがわかったのです。
日章旗は、アメリカ軍兵士が沖縄からアメリカに持ち帰っていたことがわかったのです。
旗には戦地での活躍を願う「敢闘必勝」ということばや、陽子さんの兄の名前が書かれていました。そして、旗を埋め尽くすほど多くの人の名前が寄せ書きされていました。当時、出征する兵士は、家族や同僚からこうした日章旗を贈られ、戦地に向かうのが習慣でした。
「OBONソサエティ」のメンバーで札幌市に住む工藤公督さんが、旗に書かれた名前をもとに遺族会などに問い合わせました。その結果、遺族が今も札幌に暮らしていることが判明。妹の陽子さんにたどりつきました。
寄せ書きは当時、一德さんが勤めていた札幌の百貨店の同僚たちが書いたものだということもわかりました。
NPO「OBONソサエティ」工藤公督さん
「ご遺族がまだ札幌に在住し、ごきょうだいがご高齢ながらもご存命であるということがわかり、これはもう一刻も早く返還しなくてはと思いました」
「ご遺族がまだ札幌に在住し、ごきょうだいがご高齢ながらもご存命であるということがわかり、これはもう一刻も早く返還しなくてはと思いました」
誰よりも母に報告したい
陽子さんに日章旗が返される当日、旗をアメリカに持ち帰った海兵隊員の息子グレッグ・マッコラムさんとその家族もアメリカから駆けつけました。
陽子さんに日章旗が返される当日、旗をアメリカに持ち帰った海兵隊員の息子グレッグ・マッコラムさんとその家族もアメリカから駆けつけました。
そしてマッコラムさんの手から、陽子さんに直接、日章旗が手渡されました。陽子さんは旗を両手で顔に押し当て、感情を抑えられない様子でした。
そして、母親の遺影を前に泣き崩れました。陽子さんは、兄の“帰還”を、誰よりも亡き母に報告したいと思っていました。
児玉陽子さん
「兄が肌身離さず身につけていた日章旗を大切に保管してくれてありがとうございます。母が生きていたら、いちばん喜んだと思います」
アメリカ人兵士の家族に感謝の言葉を伝えた陽子さん。
兄・一德さんとの“再会”を果たし、心に決めたことを話してくれました。
「日章旗は、私が“あちら”に行くときに持って行って、母に渡すことに決めているんです」
日章旗を返還したグレッグ・マッコラムさん
「遺品を家族に返すことで、私たちにとっても心の区切りになりました」
NPO「OBONソサエティ」工藤公督さん
「遺品が返還され、日本の遺族はお兄さんやお父さんをようやくちゃんと供養することができる。そしてアメリカ側にとっては、戦場から戦利品として持ち帰った遺品を、正当な所有者に返すことで、心の平安を取り戻すことになる。これが戦争をした国どうしの和解につながっているんだと思います。1枚の旗がどれほどの和解の力を持っているのか、ひしひしと感じます」
切り離された兄妹 オーストラリアにも
そして遠いオーストラリアに住むもう一人の女性についてです。
私は以前、オーストラリアに勤務していて、そこでも戦死した人の遺品が遺族に返される活動を取材したことがありました。
そして遠いオーストラリアに住むもう一人の女性についてです。
私は以前、オーストラリアに勤務していて、そこでも戦死した人の遺品が遺族に返される活動を取材したことがありました。
出会ったのは、北東部クイーンズランド州に住むケビン・ウェストさん。
ケビンさんのもとに小包がドイツから届きました。
ケビンさんのもとに小包がドイツから届きました。
入っていたのは、第2次世界大戦中、ドイツに撃ち落とされた軍用機の破片です。
搭乗していた兵士7人は全員、墜落で死亡しました。
このうちの1人が、ケビンさんの母の兄、ケビンさんにとって伯父にあたるオーストラリア人兵士でした。
ドイツで戦死したオーストラリア人兵士 フレデリック・ジョン・キングさん
ドイツの市民グループが軍用機の墜落地点で残骸を収集し、遺族を見つけ出して届ける活動を続けていて、ケビンさんのもとに届けられたのです。
ドイツの市民グループが軍用機の墜落地点で残骸を収集し、遺族を見つけ出して届ける活動を続けていて、ケビンさんのもとに届けられたのです。
原形がわからないほどゆがんだ、金属の破片。これをケビンさんは、母親のベリルさんに届けました。認知症で高齢者施設に入所しているベリルさん。どのような反応をするのか、ケビンさんも私も、わかりませんでした。
ケビンさんはベリルさんに「お兄さんが乗っていた飛行機の破片だよ」と説明し手渡しました。
受け取ったベリルさんは、「今、返ってくるなんて、信じられない」と驚きの声を上げます。「兄は若くして亡くなった、とても悲しかった」。涙で声を詰まらせました。
そして私に、兄が優しい人だったということを、幼少期のエピソードとともに、たくさん話してくれました。兄との思い出を鮮明に語るベリルさんの様子に、息子のケビンさんは驚いていました。戦争から何年たっても、亡くなった家族とのつながりを、遺族は求め続けている。私はそれを身をもって感じました。
かつての敵が、今は
忘れられないベリルさんの言葉があります。
飛行機の破片を送ってくれたのがドイツの市民グループだと知ったとき放った言葉です。
「ドイツが返してくれたの?敵だったドイツが?」
オーストラリアと日本も、第2次世界大戦では敵どうしでした
オーストラリアと日本も、第2次世界大戦では敵どうしでした
破片を返還したドイツの市民グループも、陽子さんに日章旗を返したアメリカ人兵士の家族も、「正当な持ち主のもとに返したい」という思いで、みずから返還に動きました。
戦争当時は敵だった相手に対して、です。
戦争当時は敵だった相手に対して、です。
戦争から何十年もたった今、“かつての敵”ではなく“人”として悲しみに寄り添う気持ちがあったからこそ実現した返還でした。
今の世界に目を向けると各地で戦闘が続き、きょうもどこかで大切な家族を失う人がいます。今、戦闘を続ける勢力どうしが敵ではなくなり、亡くなった人の遺留品を遺族に返す日は訪れるのでしょうか。先行きの見えない世界に、やるせなさを感じます。
家族を失う悲しみを経験する人がこれ以上増えてほしくないと強く思います。
家族を失う悲しみを経験する人がこれ以上増えてほしくないと強く思います。
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