もううん十年も前のことになってしまったが、
学生の時 毎年夏休みに某高原湖畔のホテルでアルバイトをしていた。
朝夕は食事の支度、昼は湖畔に停めたキッチンカーのような車でイカ焼きを売っていた。
8月も15日を過ぎると観光客が減り、
その日を境に急に秋の気配が漂い始める。
客も途絶えたイカ焼き車内でパラパラとこの詩集を眺めていた。それまでも読んではいたが、何だか日本語としてこなれていない硬質な詩語が全く理解できなかった。
しかし突然、中の「夏の終り」に自分が体ごとさらわれていくような感覚に襲われた。
そしてその瞬間以来 彼の詩が体の中に入っていった。
絶唱の「わが人にあたふる哀歌」は当然として、
言葉としては平易な 「有明海の思ひ出」、「水中花」、「夕映え」 その他多くの詩にどれだけ慰められた、いや違う、それは自分の体に何か清冽な芯が通って行くような感覚だった。
あれからうん十年、心弱き時、或いは自分の感情がばらけて
訳がわからなくなった時、伊東静雄の詩を読む。
きっとこういう気持ち、いや違う「意志の姿勢」で生るべきだろうと。
自分が死んだ時にはこの詩集と一緒に焼いてほしいと言う思いは50年間変わった事が無い。冗談だと思われるかもしれないが。