せめても私は悲みを傍ら近くに呼ぼう。悲みこそは愛の絆である。友人から悲しみのメールが来た・・・・
4月
23日

1910年、学習院高等科卒業の頃に文芸雑誌『白樺』の創刊に参加。宗教哲学や西洋近代美術などに深い関心を持っていた柳は、1913年に東京帝国大学哲学科を卒業する。
その後、朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳は、朝鮮の人々に敬愛の心を寄せる一方、無名の職人が作る民衆の日常品の美に眼を開かれた。
そして、日本各地の手仕事を調査・蒐集する中で、1925年に民衆的工芸品の美を称揚するために「民藝」の新語を作り、民藝運動を本格的に始動させていく。(日本民芸館サイトより引用)
■友人のメール(一部引用・要約)
先日、父の一周忌で、笑いあり涙ありの暖かい時間を、親戚皆で過ごし、父の供養が出来ました。
生前、父が話してくれた、柳宗悦さんの話を思い出しました。
もう、10年近く前に聞いた死生観で、当時は聞いても、右から左に抜けていった話でしたが・・・
もう、10年近く前に聞いた死生観で、当時は聞いても、右から左に抜けていった話でしたが・・・
色々な受け止め方があると思いますし、うまく伝えられないので、物知りのあなた様は御存じかもしれませんが、「柳宗悦、妹の死」などで検索すると判ります。
悲しみと絆など、むごくもあり、暖かくもあり・・・・・
悲しみと絆など、むごくもあり、暖かくもあり・・・・・
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