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四季織々〜景望綴

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 神の森◆ 3

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 ...
  誘惑

祐里が旅立つと同時に海外事業部の業績が伸びて、光祐の仕事はにわかに忙しくなった。父の啓祐からは、海外事業部の経営を一任されていた。祐里のことをこころの奥で心配しながらも、山積された書類とかかってくる電話の応対で時間が過ぎていった。
 明日朝一番に発注する注文書に目を通して署名をすると、光祐は、机上を片付けてふと窓の外を見た。社屋の明かりを受けて桜の樹に張られた大きな蜘蛛の巣が銀色に鈍く光っていた。(夏になると蜘蛛の巣が多くなるな。明日、遠野に駆除を依頼しよう)光祐は、机上のメモに『蜘蛛の巣』と書き記した。
「副社長、お疲れさまでございます。紅茶をお入れしました」
 副社長室の扉を秘書の森美和子が叩いた。
「森くん、まだ、残っていたの」
 光祐は、先程最後まで残ってくれていた執事の遠野を帰して自分一人だと思っていたので、驚きの表情を美和子に向けた。
「毎日、副社長が大変そうですので、退社したのですが何かお手伝いできましたらと戻ってきました」
 美和子は、辺り一面に牡丹の花が咲いたような愛くるしい笑顔を光祐に向けた。
「そうだったの。森くん、ありがとう。今から帰るところだったのだけれど、折角だから紅茶をいただくよ」
 美和子は、お盆から紅茶茶碗を差し出す時に手を滑らせて牡丹色のスカートを濡らした。床に落ちた紅茶茶碗が音を立てて半分に割れた。
「申し訳ありません。私って、そそっかしくて。痛っ」
 美和子は、割れた紅茶茶碗をお盆に集めながら、破片で指を切った。
「大丈夫」
 光祐は、慌ててポケットからハンカチを取り出して、美和子の血が滲んだ指を止血のために押さえた。美和子は、光祐の手に左手を添えた。
「副社長、ありがとうございます」
 美和子は、熱い視線で光祐を捉えた。光祐は、美和子の熱い視線を浴びながら、しばらくの間、そのまま指を押さえていた。
「もう、大丈夫のようだね」
 光祐は、止血した美和子の指を確認した。
「床を片付けます」
 美和子は、洗面室に雑巾を取りに行き、床に零れた紅茶を拭いた。拭きながら白いブラウスから胸の谷間が覗く角度を取り、若さが漲る足をちらつかせた。光祐は、目のやり場に困り、ロッカーから上着を取り出した。
「森くん、そのスカートでは外を歩けないだろうから車で送って行こう」
 光祐は、遅い時間に手伝いのために戻ってきてくれた美和子の気遣いに感謝していた。
「お疲れのところ、副社長に迷惑ばかりかけてすみません」
 美和子は、ぺこりと頭を下げた。
 光祐は、駐車場から車を出し、美和子に後ろの扉を指し示した。美和子は、気づかないふりをして、前の扉を開けて助手席に乗りこんだ。車のライトで照らし出された桜の樹では、今まさに大きな蜘蛛が巣にかかった獲物を捕らえようとしていた。
「森くんの家は、確か雲ヶ谷だったね」
 光祐は、助手席に座った美和子の短いスカートから伸びる美しい足に誘惑されそうな気分になり、慌てて視線を逸らした。
「副社長、家には帰りたくありません。今夜は副社長と一緒にいたいのです」
 美和子は、車を発進させようとした光祐に縋りついて強引にくちづけた。入社したその日から、美和子は、年上の光祐がとても頼もしく光り輝いて見えて一目惚れした。光祐は、突然の美和子の大胆かつ情熱的な行動に驚いて、蜘蛛の巣に掛かった獲物のように一瞬動きが取れなくなった。その時、何処からともなく一陣の風が吹いて桜の葉をざわざわと音をたてて揺らした。光祐は、桜の葉音で我に帰って、優しく美和子を離した。
「森くん・・・・・・わたしは、君の上司で、妻も子もあるのだよ。何か困ったことがあるのならば相談にはのるけれど、森くんのことは社員以上には考えていないよ」
 光祐の心臓は高鳴り、真夏の夜の誘惑に引き擦り込まれそうになっていた。
「だって、副社長の奥さまは、実家に帰られて別居中なのでしょう。淋しくはないのですか。それにもうすぐ、離婚されるのでしょう。美和子は副社長が大好きです。美和子が副社長の淋しさを埋めて差し上げたいのです」
 美和子は、恋するまなざしを光祐に向けた。潤んだ大きな瞳は、きらきらと輝いて、美和子の愛くるしさを際立たせていた。(ほんとうに率直な可愛い娘だな)光祐は、思ったことをそのまま口にする美和子に心惹かれて、魅惑の糸に手繰り寄せられそうになりながらも、毅然とした顔で諭した。
「森くんは、誤解をしているようだね。確かに妻は、所用で実家に戻ってはいるが、わたしたち夫婦は離婚などしないよ。わたしは、妻を愛している。このまま、送っていくとわたしが君に何かおかしなことをしたように思われそうだね。とにかく、その洋服だけでもどうにかしなければ・・・・・・森くんには、これから多くの出会いがあるのだから、もっと自分を大切にしたほうがいいね」
 光祐は、美和子の誘惑を断ち切るように車を発進させ、波立つこころを抑えて、深まる闇の中に車を加速した。薫子と紫乃が上手く事を大袈裟にせずに処理してくれるだろうと考えて桜河の家に向かった。美和子は、狭い車中で光祐と二人だけの時間が持てたことに胸がいっぱいで、車を運転する光祐の真剣な横顔を瞬きもせずに見惚れていた。
「素敵なお屋敷ですね」
 玄関の車寄せで車を降りた美和子は、お屋敷の大きさに感心していた。
「母上さま、ただいま帰りました。秘書の森美和子くんです。申し訳ありませんが、森くんに何か着替えをお願いしたいのですが」
 光祐は、玄関に迎えに出た薫子に美和子を紹介した。
「おかえりなさいませ、光祐さん。遅くまでお疲れさまでございました。まぁ、どうなさったの。森さんは、こちらへどうぞ。紫乃に着替えを出させましょうね。すぐに夕食にいたしますので光祐さんも着替えていらっしゃい」
 薫子は、光祐の白いシャツの襟元に付いた口紅と美和子の濡れた洋服に驚きながらも、顔色を変えずに答えた。わざわざ光祐が美和子を連れてきたには理由があるはずだと感じていた。薫子は、自室に美和子を案内して長椅子をすすめると、紫乃に着替えを持ってくるように声をかけた。紫乃は、納戸に行き、祐里のワンピースを取り出した。
「スカートの染みは、紅茶かしら。火傷はなさいませんでしたの」
 薫子は、若さを誇る美和子のはちきれそうな身体を見つめた。
「はい。そそっかしいものですから。奥さま、夜分にお邪魔して申し訳ありません」
 美和子は、悪びれる様子もなく、薫子の問いにはきはきと答えた。
「お家の方が心配されてございましょうから、わたくしから電話をかけましょうね。今夜は、当家にお泊まりなさい。電話室はこちらでございますので、ご一緒にいらしてね」
 薫子は、廊下の電話室で美和子に受話器を渡して、電話交換手に電話番号を伝えるように指図した。美和子は、素直に従った。
 しばらくして、電話の呼び出し音が鳴り響いた。薫子が受話器を取ると、交換手が森家に電話を繋いだ。
「夜分に申し訳ございません。わたくし、桜河電機の桜河薫子と申します。美和子さんに残業していただいて遅くなってしまいましたので、今夜は当家でお預かりさせていただこうとお電話を差し上げた次第でございます。御許しいただけますでしょうか」
「まぁ、奥さまでございますね。いつも美和子がお世話になってございます。それにお泊めいただくなんて申し訳ございません。こちらこそ、ご迷惑ではございませんか」
 美和子の母・美律子は、恐縮して答えた。
「いいえ、大切なお嬢さまに残業していただいたのは、こちらでございますもの。それでは、美和子さんをお預かりいたします。明日の朝には、こちらからお送りさせていただきます。今、美和子さんと代わりますので少々お待ちくださいませ」
 薫子は、美和子に受話器を手渡した。
「美和子、なかなか帰って来ないので、心配しておりましたのよ。社長さまのお宅にご迷惑をおかけするなんて甚だ失礼なことでございます。今夜は遅うございますのでしかたがございませんが、くれぐれも失礼のないように気をつけるのでございますよ。お父さまには、私からよく説明しておきますので。奥さまによろしく伝えてくださいね」
「はい。お母さま。それでは」
 美和子は、受話器を置いて、薫子について部屋に戻った。
「紫乃、着替えをお願いします。それから、こちらの紅茶の染みは取れるかしら」
 薫子は、美和子のスカートの染みを指した。
「紫乃にお任せくださいませ。お嬢さま、こちらにお着替えくださいませ。ブラウスとスカートは明日までに綺麗にいたします」
 紫乃は、優しく微笑み、衝立の後ろに美和子を案内した。 
「ありがとうございます」
 美和子は、衝立の後ろで渡されたワンピースに着替えた。微かに甘い香りがした。香りを嗅ぐと美和子は、少し自分の率直な行動が恥ずかしくなっていた。
「祐里さんのワンピースがよくお似合いでございますわね。美和子さん、着替えたお洋服は紫乃に渡してくださいね。それから、紫乃、お食事をお願いします」
「はい、奥さま」
 美和子は、紫乃に頭を下げてブラウスとスカートを渡した。いつも、どちらかというと濃い色の洋服を着る美和子は、祐里の薄い若葉色のワンピースに違和感を抱いていた。何故だか攻撃的で才女を気取る自分が優しい気分になっているのに驚いていた。(洋服は、持ち主の雰囲気に纏った者を染めるのかしら)美和子は、創業記念パーティで二度ほどみかけた祐里の慎ましやかな美しさを思い出していた。控えめでありながら薫子の優雅さに劣らず、自ずと祐里の周りには人が集まっていた。
「美和子さんは、光祐さんの秘書になられて、どれくらいなの」
「四月からですので、四ヶ月くらいです。それまでの二年間は執事室でした」
「遠野の眼鏡に適ったのでございますね。それではとてもお仕事がおできになるのでしょう。さぁ、お腹がおすきでしょう。食堂にご案内しましょうね」
 薫子は、執事の遠野が認めた才媛の美和子と接して、雰囲気が違うと思いながらも祐里が帰って来たような感じを抱いて食堂に案内した。薫子は、祐里のいない毎日が淋しくてしかたがなかった。
 光祐は、祐里が旅立って以来、洋館の自室に戻って来ていた。薫子の視線を思い出しながら、部屋に入り洋服箪笥を開けて鏡を見て驚いた。白いシャツの襟元にしっかりと美和子の口紅が付き、唇も薄っすらと紅色に染まっていた。慌てて洋服箪笥から、シャツを出して着替えると洗面室で顔を洗った。(最近の若い女性は早急だな。あの時、風が吹かなかったら、誘惑に負けていたかもしれない。祐里、このようなことになってしまって申し訳ない)光祐は、祐里と離れて暮らすうちに、淋しさからかこころに隙を作ってしまった自己を洗面室の鏡に写し出して反省していた。
 光祐は、格子の扉を開けてバルコニーに出た。桜の樹は、深緑の葉を青々と繁らせて光祐に涼しい風を送った。
「桜、今宵は、祐里が恋しいよ。祐里をこの手で抱きしめたい」
 光祐は、桜の樹に胸の想いをぶつけた。愛するのは祐里だけだと想いながら、身体が若い美和子に反応していたことが悲しかった。桜の樹は、静かに葉を揺らして光祐の話を聞いていた。月夜の庭を眺めながら桜の樹に話しかけるうちに、光祐のこころの漣は、次第に鎮まっていった。
「光祐さま、祐里は光祐さまを信じてございます。離れていましても、こころは光祐さまに添うてございます」
 風に乗って祐里の声が聞こえたように光祐には思えた。
「祐里、ぼくを信じておくれ。ぼくは祐里だけを愛しているよ」
 光祐は、上空の明るい月を見上げて、祐里に届けとばかりに囁いた。
 光祐が食堂に入ると、美和子が席に着いたところだった。祐雫も勉強を終えて、光祐の車の音を聞きつけて食堂に来ていた。
「父上さま、お帰りなさいませ。お疲れさまでございます」
 桜色の浴衣を着た祐雫は、祐里の面影を見せていた。光祐は、祐雫の笑顔に寛いだものを感じた。
「ただいま、祐雫。秘書をしてくれている森美和子くんだよ」
 美和子は、理知的な光祐の表情が、柔和で家庭的な表情に変化しているのに気付いた。
「こんばんは。祐雫でございます。父上さまがお世話をおかけしてございます」
 祐雫は、祐里のワンピースを着ている美和子に懐かしい想いを抱きながら丁寧にお辞儀した。
「こんばんは。祐雫さん。とても浴衣がお似合いですね」
「ありがとうございます。今夜は、お泊まりになられるのでございましょう。祐雫のお部屋でご一緒いたしましょう」
 美和子は、お屋敷の優しい雰囲気に包まれて不思議な気分を味わっていた。入社して以来、光祐に憧れて恋い焦がれていた自分の熱い想いが穏やかなものに変わっていった。
 風呂上りに祐里の浴衣を纏った美和子は、祐雫の部屋に案内された。
「とても、よい香りのお部屋ですね」
 なんともいいがたい気持ちを落ち着かせる仄かな甘い香りが香っていた。
「母上さまの香りでございます。このお部屋は、子どもの頃から母上さまがお使いでございましたので、今でも母上さまの香りがしてございますの」
 祐雫は、この部屋にいるといつも祐里と一緒に居る気分になった。
「えっ、子どもの頃からですか」
 美和子は、不思議に思って問い返した。
「はい、母上さまは、子どもの頃に父母を亡くされて、それから父上さまと兄妹のようにお屋敷でお世話になってございましたの。父上さまと母上さまは、初恋を実らせられたのでございます。御伽噺のようでございましょう。母上さまは、シンデレラガールなのでございます」
 祐雫は、布団を並べて敷きながら美和子に微笑みかけた。美和子は、机の上の家族写真に目を止めた。光祐の横で幸せに包まれている祐里を見つめた。永久の愛が感じられて美和子は、自分の行いが恥ずかしくなって目を伏せた。
「運命的な巡り合わせ・・・・・・母上さまは、とても素敵なお方ですのね」
 美和子は、祐里の優しさにすっぽりと包まれたような気分になっていた。
「はい。祐雫は、よく母上さまにやきもちを妬いてしまうのでございますが、お屋敷の皆は母上さまが大好きでございますの。母上さまが里に帰られてからは、お屋敷はとても淋しゅうなりました」
「そのようでございますね。副社長も淋しげでしたもの」
だからその淋しさに入り込もうと美和子は思っていた。しかし、この写真の祐里は、写真の中にいても家族のこころをしっかりと掴んでいた。美和子は、甘い香りに包まれて、すっかり光祐を誘惑する気が失せていた。
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ファルコン
ファルコンさんからコメント
投稿日 2008-10-13 10:54

大きな節目が現れましたね。

若い美和子魅力、危ない道にのめり込まない光祐がいいのか、どうか・・・。

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keimi
keimiさんからコメント
投稿日 2008-10-13 23:31

友人たちからは「相変わらず、どろどろとした世界に入り込まずにあっさりと決着したのね」と感想をいただきました。

普通なら、若い女性にのめり込んでしまいますよね(笑)

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MR職人
MR職人さんからコメント
投稿日 2008-10-13 20:00

面目ないが私は<据え膳食わぬは男が廃る>で育っていますので<純愛物語?>は苦手です。  

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keimi
keimiさんからコメント
投稿日 2008-10-14 19:06

男性だとそうなのでしょうね。

豪奢な御膳を召し上がったのでしょう。

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Toshiaki Nomura
Toshiaki Nomuraさんからコメント
投稿日 2008-10-13 22:26

もう一歩のところで引いたんですね・・・。


keimiさんはいい人なんだろうな・・・。

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keimi
keimiさんからコメント
投稿日 2008-10-14 19:08

・・・何処からともなく一陣の風が吹いて桜の葉をざわざわと音をたてて揺らした。・・・

いつも桜の樹が守護しているのです。

わたしは、闇で糸を引くタイプです(笑)

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