荷風の描いた約130年前のシアトル・日本人町がエグい
1月
19日
ロサンゼルスにはかの有名な日本人町・リトルトーキョーがありますが、シアトルの日本人町もかつてはかなりの賑わいだったんですね。永井荷風の『あめりか物語』を読むまで、想像もしていませんでした。
荷風は1903年、24歳の時に渡米し、1907年までアメリカで暮らしました。その後、1908年に出版された『あめりか物語』は”小説”ですが、語り部の人物設定が荷風を思わせるものもあり、脚色はあれど旅行記、体験記のようにも読めるのが面白い所です。
日本人の米移民は1800年代後半から始まります。当時は船での渡航ですからやはり、アメリカやカナダの西海岸ーーシアトルのあるワシントン州などが主に最初の滞在先、または居住地となりました。
荷風が描いた当時(1903年頃かと)のシアトルの日本人町の様子をここに書き出してみましょう。
ーー船で渡米し、シアトルに初上陸した時の描写
”(前略)ちょうど宿引に出ている日本人の旅館(やどや)の番頭だとかいう五十ばかりの男に案内されて、電車に乗込み、日本人街へ曲る角の、汚い木造りの旅館に送り込まれた。”
ーー日本人町は町の「果て」にあった(現在では、むしろシアトルの中心部にあたる)
”なるほど、あの地方では日本人が誤解されるのも無理はない。この界隈は、商店続の繁華な街が、ちょうど人の零落して行くように、次第次第に寂れて行って、もう市が尽きてしまおうかとする極点である。四辺(あたり)の建物は、いずれも運送屋だの、共同の馬屋などばかりで、荷馬車と労働者ばかりが、馬糞だらけの往来を占有している。”
ーー貧民窟のような描写
”案内された旅館の窓から首を出すと、遙かなる市中の建物の背面が見え、正面には近く、浅草のパノラマ館を見るような瓦斯溜所(ガスタンク)が、高く、黒く、大きく立っている。その辺りから往来が俄(にわか)に狭くなって、汚い木造の小家のぼたぼたしている間へ、一筋の横丁が奥深く行き先を没している。(中略)機関車の鐘の音につれて、凄まじい黒煙が絶え間なく湧出で、屋根といわず往来といわず、時々の風向によっては、向(むこう)も見えぬ位に棚引き渡って、あたり一面を煤だらけにしている。この横丁、この汚い木造の人家、これが乃(すなわ)ち、日本人と支那人の巣窟、東洋人のコロニーで、同時にまた、職に有りつかぬ西洋の労働者や、貧と迫害に苦しんでいる黒奴(ニグロ ※原文ママ)が雨露(うろ)を凌ぐところである。”
荷風は裕福なエリート家庭のお坊ちゃんで、潤沢な資金を持ち、この後のアメリカでの暮らしもシルクハットをかぶって外出するほどの上流階級ぶりなので、描写は上から目線です。とはいえもしかするとお坊ちゃまには、この町の様子が本当にカルチャーショックだったのかもしれません。
荷風はそんな町の様子にすっかり辟易し、移動の日までホテルに籠っていようと思ったものの長い船旅の後でやはり陸地が恋しく、散歩に出掛けます。
ーーアメリカの子どもたちが知っていた驚きの日本語
”汚い宿屋の一室に引き籠もっているのが厭さに(中略)、朝から晩まで歩き回ったが、いずこへ行っても子供が、吾々(われわれ)日本人の顔を見ると「スケベイ」と言って囃(はや)す。驚くべきもので、この言語は日本の就業婦(売春婦)の口を経て、或る特別の意味を作り、広く米国の下層社会に行き渡っているのである。”
ーー日本人町の夜の様子
”往来傍(ばた)には、日中その辺をうろうろしていた連中の外に、諸所の波止場や普請所(工事現場)に働いていた人足どもが、その日の仕事をおわって何処からともなく寄集まって来るところから、ただでさえ物の臭気を絶やさぬ四辺(あたり)の空気は、更にアルコールと汗と臭気(におい)を加えたかとも思われる。重い靴の響、罵る声につれて、土塗(つちまみ)れの破れシャツ、破れズボン、破れ帽の行列は、黒い影の如く、次第次第に明るく灯(ひ)の点いている日本人街の横丁へと動いて行く。と、その横丁からは絶え間なく、雑然たる人声に交じって、酒屋や射的場の蓄音機にしかけてあるらしい、曲馬の囃と同様な騒がしい楽隊の響きが聞え、同時にチンテンチンテンと彼方此方(かなたこなた)で、互いに呼応(よびあ)うように響く三味線の音、それに続いて、女の歌う声、男の手をく音...”
アメリカの街角に三味線の音が響いていた時代もあったんですねえ!しかし荷風にとってはこの音色が「不調和」「不愉快」だったようで、「耳について眠らねぬ」とまでなり、遂には夜半、横丁に歩いて行きます。
”日本人町に入込んで見ると、いや、大弓場から、その他の飲食店や、道傍まで、日本人の寄集まっている事は非常なもので、しかし、いずれもどこやら沈着(おちつ)いて、ここ及公(おら)達の縄張中だといわぬばかり、入込む西洋の労働者をば、さも外国人らしく見遣(みや)っている。”
ーーおそらく売春婦の様子
”両側の木造家の窓からは、折々カーテンを片寄せては、外の景気を伺う女の顔がみえ、中には黄(きいろ)い声を出して誰かを呼ぶのもあった。いずれも鼻の低い、目の細い、顔の平たい、西国地方の女で、前髪を切り下げた束髪に、西洋風のガウンを着ているらしく見えたが、私は外から一瞥しただけで、早や十分の...満足といおうか、不気味といおうか、とにかく、それ以上近づいて見るには忍びない、心持ちになった”
シアトルの日本人町は今は中華街などと併せたインターナショナル・ディストリクトとなっていますが、日本人町の名残はそう多くは残っていないようです。ですが今も営業中のパナマ・ホテル(1910年創業)内にある日本人移民が利用していた銭湯橋立湯(今は見学のみ)は一度訪れて実際に見てみたいものです。