つらい時をやり過ごすということ
人は「強く生きなければ」と思えば思うほど、かえって弱さを抱え込むものかもしれません。
「認めてもらいたい」という欲求は誰の心にもあるものですが、それが満たされないまま大人になると、無理をしてでも人に合わせようとする。やがて心は疲れ果て、「生きるのがつらい」と口にするようになるそうです。
その姿を、わがままだとか、暗いだとか、周囲は時に冷たく受け止めます。
けれど、心の奥にあるのはただ一つ——「どうか私を認めてほしい」という叫びなのだと思います。
私たちは不思議なもので、「幸せです」と言えないときがあります。なぜなら「幸せ」と言ってしまえば、今までの不満も、心にくすぶる憎しみも行き場を失ってしまうからです。だからこそ、人は「不幸だ」と言い続けることで、自分を支えている面もあるのでしょう。
けれど本当に求めているものは、誰かに「つらかったね」と寄り添ってもらうこと。
励ましでも、解決策でもなく、ただその気持ちを受け止めてもらうこと。人の心は、それだけで少しずつ休まるのかもしれません。
「つらい時をやり過ごす」とは、必ずしも困難を解決することではなく、「このつらさを誰かが理解してくれている」と感じられることなのかも。
そう思うと、人の弱さもまた、優しさを呼び起こすために与えられた一つの力のように感じられます。