そしてまた目を前に向ければ、山影の向こうにまだ見ぬ景色が静かに息づいているように思えるのです。 人生は思い出を棚に並べながら、その裏でそっと新しい章を書き続けているのだろう——そんな気がします。 私はその物語の続きを、ここからもう少しだけ読み進めてみたい。 山の風の音に耳を澄ませながら、そう静かに思うのです。
今回のアコーディオンも、そんな葛藤から生まれた別れだった。 誰かの手で再び音を奏でるなら、それはきっと幸せな旅立ちだろう。 手元から去ったけれど、思い出は消えない。 人生とは、手放すことと残すことを繰り返す作業なのかもしれない。 正解はない。 ただ、そのときどきの心の声に耳を澄ませて選んでいけばいいのだろう。
極限まで物を減らした「ステキ空間」。 歴史あるガラクタたちがそこかしこに佇む「ステキ空間」。 どちらにも魅力がある。 けれど、人が選ぶのは結局、自分の心が落ち着くところなのだろう。 私は、まだものに執着している。 手放してしまうと、思い出まで消えてしまう気がするからだ。 ただ置いてあるだけで価値がある── そう思う瞬間が確かにある。 でも、そうではないのかもしれない。 この“ゆらぎ”の中で、自分の生活を少しずつ形づくっている。
若い世代を中心に、必要最小限で暮らすミニマリストの生活が広がっているという。 「余計な物は持たない」 「必要なものだけに囲まれる」 合理的で、身軽で、見た目にも美しい生活だ。 しかしその一方で、 「味気ない」「殺風景」「さみしい」「落ち着かない」 と感じる人もいるだろう。 ものがない空間にも“美”はあるが、ものがある暮らしにも温度がある。 どちらが正しいというわけではない。 ただ、自分はどちらに心が動くのか──そこが悩ましい。
気がつけば、自分もいつどうなるか分からない年齢になった。 狭い家の中で、時間が降り積もったものをひとつずつ整理していく季節に入った。 だが、捨てるという行為は想像以上に胸が痛む。 流行の断捨離は「不要な物を断ち切り、執着をなくすこと」と言う。 身軽で快適な暮らしを手に入れるために──それは理屈としてはよく分かる。 だが、私にとって物はただの物ではない。 記憶装置であり、孤独をそっと癒してくれる“相棒”のような存在だ。
静かな午後、長いあいだ家に眠っていた父のアコーディオンを手放した。 HOHNER VIENNA 2915─父の趣味だったクラシックな佇まいの楽器。 26万円で買ったものが1万円になったとしても、不思議と惜しくはない。 「誰かが大切に使ってくれればいい」 その気持ちのほうが強かった。 しかし同時に、胸の奥に小さな穴が空いたような、そんな寂しさもある。 ものに刻まれた時間や思い出は、値段ではなく心の重さで残るのだと改めて感じた。