今週火、水、木曜日は詩の掲示板へ投稿された作品に評を出す担当だ。数年前まで、ひとの詩を読むくらいなら、自分が詩を書く時間にあてたい、と思っていた。なんとも成長を伴わない思考をしていたようである。そして、このような機会を与えて頂くと自分の読解力がないことに気づき慌て、なんとか想像力を膨らませて対応している。すぐに雰囲気をつかめる作品、難解な作品等、読み込んでいくと今まで見えなかった世界を堪能することができる。そして、作者のもとから離れた作品は読者の数だけ世界が広がる。今まで二度ほど評を出してみて、作者から「そういう捉え方も……」というご意見を頂いた。詩はこのセレンディピティ要素が濃い芸術ではなかろうかと感じる。そこが面白い。ただ、的を外した評を書いている言い訳のように聞こえてしまうだろうが…… 評を書く時はとても集中する。詩を書く時とはまったく違う脳の部位を使うのだろうか、文章が纏まった時の達成感に充実をこれでもかと得るのである。幸せなことだ。ありがたいこととだ、感謝。ということで評を書くこと、私は好きみたいだ。できの良し悪しは置いといて……、もっと勉強するぞ! 作品をお待ちしております!
我が身のグレーは 取り憑かれた層を重ね塊となり 転がり亀裂だらけで終着に何を望む 誰が空を信じようか 誰が海を信じようか 誰が誰を信じようか 我が身のグレーは 取り憑かれた層を重ね塊となり 転がり亀裂だらけで終着に何を望む 誰が流されるものか 誰が心地よくなるものか 誰が信じる処へ行くものか
気持ちの明暗を 電車に揺られ確認している 大丈夫、大丈夫でない 大丈夫、大丈夫でない と いけそうか、いけないか 今度は身体に確認している 痺れはどうだ、痛みはどうだ と 怖いことは先が見えない 現状が見えない 今週の検査で先が見える 結果に慄き また先を見ようとする 自分であるに違いないが……
玄関を開け 疎らに落ちる冬の雨を 感じて行くよ 明日を忘れようとして 明日は浮かんでくるけれど 変えられそうもない色を 上塗りする納得を探し 答えは拾えそうで拾えない 答えは拾えないようで拾えそう 公園の雨やどり 屋根のあるベンチ 左手はぶら下がったまま iPadは膝の上 右手は軽やかなリズム 詩を書く最小最大の存在 落ちるほど上塗りされる明日
頚椎にある脊柱管の神経がまた潰れているようだ。四年前にインプラントで対応したが、左手でiPadが一分持っていられない痛み、痺れ。思っていたより早い草臥れ方だ。詩でやりたいことが崩れてゆく。もし、両手が使えなくなっても詩は書いてゆく、そう決めたのだから。足でも書ける。明日、受診しよう。
僕は未だ言葉を 土に埋め続けています 最初は言いたいことを 埋め込んでいました だけど 自分の言葉にも酔えなくなって 寂しいだの虚しいだの 辛い時期もありましたが 言葉を土には埋め続けました 花咲かせ空を見ようと 頑張った時期もありましたが 気が付いたのです 僕はもう咲くことに 興味がなくなっていました 僕は未だ言葉を 土に埋め続けています 手は泥だらけになって それが可笑しくて 楽しくて止めれないのです
生きている限り 負けてはいない人生 生きていることは それだけで すでに負けていない そして 勝ちのない人生を 当たり前のように生きる 苦しいと叫ぶのは 恥ずかしいことではないし 負けているわけでもないし 迷惑をかけているなんて 思わなくてもいい まずは生きていることだ 生きていれば負けていない それがとても自然な生き方で 負けない人生だ
新年早々 腕に痛み痺れが走る 今年は闘う一年になるだろう 四年前と同じ症状 違うのは右手が左手になった また頸の神経が潰れている 去年は駆け抜けた 誰かが手を抜いたと言っても 俺のベストは尽くしたんだ もう結果ではない世界で生きよう 捨てなくてはいけない 日常があっても怯まずに 進まなくていけない生活がある 這いつくばっても進んで行こう 誰しも同じこと 諦めれば終わるだけの話だ 涙など流す時間などない 腕をさすりながらでも 今年は闘って行くと決めた元日