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四季織々〜景望綴

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 神の森◆ 5

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 ...
  蜘蛛の糸

夏休みの終わりが近付いていた。祐里と優祐が神の森に出発して、連絡のないまま一月が過ぎていた。書き留めていた電話番号は不通で、手紙を出しても宛先不明で戻ってきた。桜河のお屋敷では、家族が暗い面持ちで毎日を過ごしていた。光祐は、仕事の段取りをつけて夏の休暇を一週間作り、祐雫を連れて神の森に夜行列車で旅立った。
神の森はこの時代と平行して存在しながら、神から選ばれし者でなければ入ることが出来ないのではないかと、光祐は推測していた。それ故に榊原の血筋を受け継ぐ祐雫を伴えば、必ず神の森に行き付くことが出来るように思えた。それに光祐は、祐里とこころがずっと通じている気がしていた。離れていても祐里の存在をいつも感じることができた。
「父上さまは、どうして、そのように平常心なのでございますか。母上さまと優祐が、行方知れずになりまして一月が過ぎましたのに」
 祐雫は、祐里からお屋敷に残って自分の替わりに家族の世話を頼まれたのだが、母の存在の大きさに気付かされた。祐里が家を留守にしたその日から、お屋敷は、薄っすらとした闇に包まれていた。深緑の葉を陽光に輝かせていた守護の桜でさえも潤いをなくしていた。祐雫は、桜が枯れてしまうのではないかと心配して、毎日桜の樹に話しかけた。
「わたしは、祐里を信じているからね。それにわたしには祐雫がいる。必ず、祐里と優祐にまた会えると思っている」
光祐は、淋しくないと自己に問えば嘘になると思いつつ、ここで自分が弱音を吐いては桜河の家族を不安にさせるだけと思っていた。躊躇する祐里を神の森に旅立たせたのは自分だった。それは後悔したくない決断だった。思い返せば、大学生の時に祐里の縁談が持ち上がり、榛文彌と父の意向から必死になって祐里を守った。今回は、あの時とは比べものにならない未知の力を持つ神の森が相手だったが、光祐は、相手が誰であろうと祐里を守り貫こうとこころに誓っていた。
「父上さま、祐雫も信じます」
 祐雫は、唇をぎゅっと噛み締めながら真剣なまなざしで光祐を見つめた。
「祐雫は、母上さまが留守にされても大丈夫だと思っていました。おばあさまや婆やがいらっしゃるし、おじいさまと大好きな父上さまがいらっしゃるのですもの。でも、いらして当たり前だった母上さまがいらっしゃらない毎日が淋しゅうてなりません。それに優祐がいないと身体の半分がなくなったように感じます」
「神の森に祐里が必要な以上に桜河の家には祐里が必要なのだから。必ず祐里と優祐を連れて戻るよ」
 光祐は、優しい微笑を湛えて祐雫を見つめ返した。
 十七時間かけて、緑が原駅に列車が到着した。無人駅は、ひっそりと静まり返り、駅舎の外には青々とした田園が広がっていた。その間を真っ直ぐに神の森に続く道が伸びていた。
「どうやら、あの遠くに見える森のようだね」
 光祐は、祐雫を気遣いながら、炎天下の陽炎が揺れる道を進んでいった。田園の稲の深緑が眩しく光り輝き、陽射しを遮るものが何もないからからに乾いた道が長く続いていた。歩けど歩けど神の森までの距離が一向に縮まる気配は無く、幾筋もの汗が流れた。蒼い空は、どこまでも青く、光祐と祐雫に容赦なく直射日光を照らし続けた。
「どこまで行きなさる」
 突然、背後から声をかけられた。
「こんにちは。神の森へ行くところです」
 光祐は、振り向いて声の主を仰ぎ見た。牛車に乗った村人が怪訝な表情を返してきた。
「あの森が神の森だが、何人も入ることは出来ませんぞ。獣道すらなく、一度入り込んだら出て来られぬ森だ。物見遊山で行くところではないぞ」
「神の社に神の守が住んで居られる筈でございます」
 祐雫は、驚いて口を挟んだ。
「わしは、生まれてからこの緑が原に住んでおるがそんな話は聞いたことがない。確かに森の入り口に小さな社があるにはあるが、人が住めるような社ではない。わしらは、神の森は仰ぎみるだけで近付かないようにしておる」
「それでは、この近くに榊原八千代さまがお住まいではありませんか」
 光祐は、八千代の名を口にした。
「榊原は、この緑が原に住む者の姓だ。わしも榊原だが・・・・・・八千代は聞いたことがない」
 村人は、不思議な顔をして答えた。
「父上さま・・・・・・」
 祐雫は、心細くなって光祐に寄り添った。
「あなたは、どこまで行かれるのですか」
「あの川の土手を通って家に帰るところだ」
 光祐は、村人が指差した遥か前方の川を見つめた。川から森まではまだ距離があるようだった。
「よろしければ、その川まで後ろに乗せていただけないでしょうか」
「乗りなされ。この暑さでは嬢ちゃんが可哀想だ」
 光祐は、牛車の後方に回って祐雫を抱え上げてから荷台に乗りこんだ。荷台には籠いっぱいの夏野菜が積まれていた。
「助かりました。ありがとうございます」
「ありがとうございます」
 光祐と祐雫は、荷台に座って一息つき、タオルで汗を拭った。
「わしらは、神の森に近付くのを恐れているのだ。もっと近くまで乗せてあげたいがあの川までにしてくだされ」
「勿論です。川まで乗せていただくだけでも助かります」
 光祐は、村人に感謝の気持ちを伝えた。
「そういえば、わしが子どもの頃に爺さんが御伽噺をしてくれたことがあった。榊原の血筋の選ばれし者だけが神の森に入ることができ、神の森は地脈を全国に張り巡らせてこの国を守っているのだと。御伽噺だもので忘れておった。お父からは、神隠しに遭うから神の森には近付くなと口をすっぱくして言われたものだ」
 川の丸太橋の前で、村人は光祐と祐雫を降ろした。
「助かりました。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 光祐と祐雫は、村人に頭を下げた。
「この川沿いの道を真っ直ぐに行ったところにわしの家がある。もし、何か困ったことでもあれば訪ねてきてくだされ」
 村人は、現れた時と同じように静かに牛車とともに去っていった。
「さぁ、祐雫、まだ先は長そうだよ。婆やの持たせてくれた麦茶を飲んでから進もう」
 光祐は、背負い鞄から水筒を取り出して、祐雫と一緒にのどを潤した。
「父上さま、ここはとても不思議なところでございますね」
 祐雫は、紺碧の空を見上げながら、夏だというのに身震いした。
「地元の方でさえ、神の社を知らないのだから、手紙が届くはずもない」
 光祐は、小さな溜め息を祐雫に気付かれないようについて、気を取り直して背負い鞄を背負った。
「さぁ、神の森に随分近付いたよ。祐雫、あともう少しの辛抱だからね」
「はい、父上さま」
 祐雫は、汗で濡れた髪の雫を拭って返事をした。
 光祐は、神の森に一歩ずつ近付くに連れて、空気の重さを感じていた。歩みが重く、前方に壁が立ちはだかっているように感じられた。(祐里、迎えにきたよ)光祐は、重い壁を押すように進みながら、祐里のことを想った。
「父上さま、大丈夫でございますか。とても苦しそうでございます」
 祐雫は、光祐の表情を見つめ、何も考えずに前に歩み出た。すると光祐が感じていた空気の重さはすぐに和らいだ。
「祐雫、わたしは神の森から拒絶されているようだ。祐雫が先に歩いておくれ」
 光祐は、大きく息を吸いこんだ。牛車の村人が川を渡らなかった訳が分かるような気がした。もうすでに神の森の領域に足を踏み入れているようだった。不思議なことに祐雫は、暑さも感じずに先ほどよりも元気が沸いてきた。この地の空気がどこか懐かしさを漂わせていた。まるで母の胎内にいた時のような気分を味わっていた。途端に遠くに見えていた神の森が瞬く間に目前に迫ってきた。
「神の森の方から近付いてきたようでございます。あら、父上さま、この樹だけがどこか違うてございます」
 祐雫は、森の入り口の小さな新芽の樹を指差した。黄緑色の儚げな若葉が風に揺れていた。
「これは、桜の樹だよ。珍しいな。この地に桜の樹はないはずなのに」
 北の地では、桜は、家を滅ぼす樹として忌み嫌われていると聞いたことがあった。この地で桜の樹を目の当たりにした光祐は、桜に勇気づけられた。
「きっと、優祐が手がかりに植えたのでございます。柾彦先生から桜の苗木を戴いてきておりましたもの」
 祐雫は、優祐の足あとを発見した気分になって歓喜の声をあげた。
「柾彦くんが桜を持たせてくれたのか」
 光祐は、柾彦が桜川の地で一緒に祐里を守ろうとしてくれていると思うとますます勇気が湧いてきた。
「さて、ここからは、祐雫の思うように進んでおくれ。わたしは祐雫に付いていくことにするよ」
「はい。おまかせくださいませ」
 祐雫は、桜の小さな樹を両手で包んで目を閉じて念じた。(桜さん、母上さまと優祐の元へご案内くださいませ)祐雫は、こころの赴くまま歩を進めた。すると、樹木で蔽われていた前方が僅かに径となって開けてきた。
◇◇◇神の森へようこそ、祐雫。後ろの者は、何故入ってこられたのじゃ◇◇◇
◇◇◇ここは神の森じゃ。余所者が来るところではない◇◇◇
「神の森さま、わたしは、父上さまとご一緒に母上さまと優祐を迎えに来たのでございます」
◇◇◇祐里は、神の子じゃ。誰にも渡さぬ◇◇◇
 大風が巻き起こり、光祐は、祐雫を庇って抱きしめた。光祐と祐雫は、大風に巻き込まれ瞬く間に舞い上がった。奥深い森の中に投げ出された光祐は、意識を取り戻すと身体を打ち付けた痛みに耐え、ゆっくりと起き上がって辺りを見回した。奥深い森は、針葉樹の樹木で覆われ、陽の光が遮られて薄暗くひんやりとした空気に包まれていた。
「祐雫」
 光祐は、大きな声で祐雫の名を叫んだ。光祐の声は、奥深い森に掻き消され、どこからも祐雫の声は、返ってこなかった。
◇◇◇余所者は去るのじゃ◇◇◇
代わりに鋭い神の森の声が響き渡った。
「わたしは、祐里と優祐を迎えに来たのです。一人で帰るわけにはいきません。神の森、祐里はわたしの最愛の妻です。わたしに祐里を帰してください」
 光祐は、生茂った森の樹木を見上げて熱心に訴えた。
◇◇◇それは過去の話じゃ。この森において祐里は、神の守じゃ◇◇◇
森全体が震えて、光祐に針葉樹の千の棘の痛みを容赦なく放った。
「いいえ、この森の中でも祐里は、わたしの妻です」
(祐里、すぐ近くまで来ているというのになかなか側に辿り着けないけれど、ぼくは必ず迎えに行くよ) 光祐は、千の棘の痛みに耐えながら、しっかりと顔を上げて神の森を見つめ返した。

祐雫は、湖の辺に投げ出されていた。ゆっくりと起き上がった祐雫は、ワンピースの土を掃って、白い霧に包まれた湖を見渡した。
「父上さま」
 祐雫は、静かに瞳を閉じて、光祐の気配を窺った。
◇◇◇祐雫◇◇◇
神の森の呼び声とともに湖が虹色に輝き始めた。祐雫は、惹き込まれるように湖に近寄った。湖の水面には、蜘蛛の糸に絡まれた祐里の姿が映し出された。
「母上さま」
 祐雫は、祐里の姿にこころを痛めて手を差し伸べた。
「あっ」
 突然に虹色の靄が祐雫を包み込んで、湖に取り込んでいった。湖は、生贄として祐雫を封じ込めると、若い美しさを吸収してますます美しい虹色に輝いた。祐雫が吸い込まれた湖面には、薄紅色の桜の花弁が祐雫の足跡を示すように、ひとひら浮かんで波紋を奏でていた。

光祐は、重い空気を押して神の森を進んだ。鬱蒼と茂った樹木に遮られて薄日さえ射し込まない暗い森が何処までも続き、方角を見失った光祐は、ただ前に前に進んでいた。大風に巻き込まれて投げ出された時に腕時計が手元から外れて、神の森に入ってからどれくらいの時間が経過したのかもすでに分からなくなっていた。
 ひんやりとした風に乗って、仄かに甘い香りが光祐を誘った。(祐里の香り・・・・・・)光祐は、香りに導かれるままに重い空気を押しながら走った。森が開けたところに湖が広がっていた。どこからともなく優しい風が吹いて、湖面に浮かんでいた桜の花弁が光祐の目前に舞い上がった。光祐が右手を差し出すと、桜の花弁はゆっくりと手のひらに納まった。
「桜、ぼくに力を貸しておくれ」
 光祐は、しっかりと桜の花弁を握り締めた。ふと、視線の先に湖面に浮かぶ祐雫の白い帽子が垣間見えた。
「祐雫」
 光祐は、躊躇無く湖に飛び込んで祐雫を探した。潜っては水面に顔を出して息継ぎを繰り返しているうちに、光祐は、湖の風景が桜池のように思えてきた。桜池の浅瀬でよく祐里と水遊びをしたことを頭の中で懐かしく想い出していた。息継ぎのために顔を上げる光祐の瞳には、湖の周りを満開の桜の木立が覆っているように映った。冷たい湖水がぽかぽかとした春の陽気に照らされて、暖かくなっていくように感じられた。光祐は、桜に励まされた気分になって、潜っては息継ぎを繰り返して、辛抱強く祐雫を探して泳ぎ回った。
 しばらくして、光祐は、水中で虹色の水泡に包まれて眠っている祐雫を見つけて抱きしめた。光祐は、祐雫と共に大きな水泡に包まれて湖の真底へ渦巻く激流に流されていった。水泡は、真底に打つかって破裂した。水泡から投げ出された光祐は、しばらくの間、祐雫を抱きしめたまま気を失っていた。
「光祐さん ・・・・・・。光祐さん、しっかりなさいませ」
 遠い彼方から懐かしい声が波紋のごとく響いてきた。それは濤子おばあさまに似た優しい声だった。
「おばあさま」
 光祐は、目を開けた。抱きしめていたはずの祐雫が桜色の着物を纏った美しい女性に変わって反対に光祐は、女性に抱かれていた。辺り一面には桜の香りが漂い、光祐は、この摩訶不思議な状況下に身を置きながら、女性に抱かれて安らいだ気分に浸っていた。
「お屋敷の行く末は、光祐さんに懸かっておいででございます。祐里さんを救えるのは光祐さんだけでございましょう。しっかりなさいませ」
 美しい女性は、光祐を勇気づけるかのごとく静かに微笑んだ。
「あなたは・・・・・・」
「わたくしは、桜河麗櫻と申します。何時でも光祐さんを見守ってございます」
 光祐は、遠い記憶を辿った。
『旦那さまは桜池のお祭りで美しい娘に出合いました。娘は旦那さまの奥さまになって、旦那さまと一緒に桜の樹を大切にして暮らしました。桜の樹は喜んで、いつまでもいつまでも、桜河のお屋敷を守ってくださいました。とっぺんはらりのひらひらふるる』
 濤子おばあさまの昔話が頭の中に広がると同時に、桜河家先祖代々の墓に桜河麗櫻の名が記されていたことを思い出していた。
「麗櫻おばあさま、必ず祐里を連れ帰ります。ぼくに力をお貸しください」
 光祐は、麗櫻の胸の中でこころに誓った。
一瞬木立の間から眩しい光が射して、我に帰った光祐の腕には祐雫が抱かれていた。
「祐雫、大丈夫かね」
光祐は、祐雫を気遣いながら、ゆっくりと揺り起した。
「父上さま、祐雫は、大丈夫でございます。それよりも母上さまを早くお助けくださいませ。大きな蜘蛛の巣にかかっておいででございます」
 祐雫は、光祐の大きな胸の中で安堵しながら、祐里の痛々しい姿を思い返していた。
光祐は、祐雫の無事を確認して、辺りを見回した。湖は跡形もなく消え失せ、木立に囲まれた祠が目前に現れた。しかも、祐雫共々湖の水に濡れている筈の身体が不思議なことに乾いていた。懐かしい桜の香りに誘われてふと見上げると、祠の扉が音もなく開いて白い狩衣姿の祐里が正座しているのが見えた。静かに目を閉じ、見えない糸で雁字搦めに硬直して、光祐には痛々しく思えた。
「祐里」
 光祐は、こころから労わりの声で祐里の名を呼んだ。祐里は、光祐の声を耳にして静かに目を開けた。愛しい光祐の心配気な顔が瞳に飛び込んできた。(光祐さま、どれほど、お会いしたかったことでございましょう)その瞬間、祐里の胸が鼓動を始めた。
 光祐は、走った。鋼のように固い空気の結界を祐里への愛の力で打ち破るかのごとく突き進んだ。自身が傷つこうとも祐里をこの手に抱きたい想いが先行した。
「祐里、ぼくの大切な祐里。迎えに来たよ」
 光祐は、森中から放たれる千の棘の痛みに堪えて祐里を抱きしめた。
「光祐さま」
 祐里は、消え入るような声で光祐の名を呟き、その胸の中で気を失った。
◇◇◇何故じゃ。この結界を余所者が打ち破るとは・・・・・・おまえは何者◇◇◇
 神の森は、容赦なく光祐に千の棘の痛みを放ち続けた。
「わたしは、祐里の夫です」
 光祐は、やつれた祐里の姿に涙を流した。神の森から受ける痛みなど祐里をこのような目に合わせた後悔の心痛からすればたいしたことではなかった。光祐は、祐里だけをみつめ、その軟らかな唇にくちづけた。全ての愛を込めて祐里に魂を吹き込むように唇を吸った。そのうちに祐里の冷たい頬に赤みが差してきた。
祐雫は、光祐の側に寄り添って、夢中で祐里の左手を握り締めていた。(父上さまは、いつも優しく見守るお方だと思っておりました。これほど激しい感情を顕わにされる父上さまをはじめて拝見いたしました)祐雫は、光祐の力強い愛に驚きながら、感動して身震いしていた。
「光祐さま」
 祐里は、光祐の愛情に抱かれて意識を取り戻した。
「夢ではございませんのね」
 祐里は、右手を伸ばして、頷く光祐の頬に伝う涙を細い指で掬った。光祐の涙は、祐里の手の中の桜を潤わせた。祐里は、その瑞々しい桜の花を光祐の胸ポケットに挿し入れた。同時に光祐の千の棘の痛みは消滅していった。
「祐里、迎えに来たよ。祐雫も一緒だ」
「母上さま、お労しゅうございます。優祐はどちらでございますか」
 祐雫は、祐里の左手を両手で握り締めた。
「祐雫さん、ありがとうございます。私は大丈夫でございます。優祐さんは、この先の社でございます」
 祐里は、一月ぶりに身体の芯から元気が漲ってくるように感じていた。自己の力を封じなくて済む神の森ではあったが、日が経つに連れて光祐が側に居ないことの空虚さがこころに広がって、見えない蜘蛛の巣に絡まれているような気になっていた。光祐の胸に抱かれて安堵したことで、祐里の腕から背中にかけての痛みは癒えていた。
「神の森さま、私は、桜河のお屋敷に戻ります」
 祐里は、きっぱりと断言した。
◇◇◇何故じゃ◇◇◇
 神の声は、森中に響き渡った。
 光祐は、祐里を抱きかかえると祠を後にして社に向かった。
「光祐さま、祐里は光祐さまのお側を離れては生きては行けぬことがよく分かりました」
 祐里は、光祐の首に手を回し、胸に顔を埋めて幼子のように涙を流した。祐雫は、祐里の涙をはじめて見た気がした。祐里は、何時でも悲しげな表情を見せるだけで耐え忍んで涙を見せない母であった。(母上さまは、ほんに父上さまを愛して頼っておいででございますのね)祐雫は、深い愛情で結ばれている父母を改めて誇りに思った。
「祐里、辛い思いをさせてすまなかった。これからは、絶対に祐里を離さないからね。一緒に桜河へ帰ろう」
「はい、光祐さま。嬉しゅうございます」
 祐里は、光祐の深い愛に包まれて蜘蛛の糸が身体から解けていくように感じた。光祐は、祐里を抱きかかえているお蔭で、神の森を楽に移動できた。光祐が進むと上空は青く晴れ渡り、森の樹木が優しい色調に変化していった。いつしか、真夏だというのに光祐の周りには、桜の花弁が舞っていた。この神の森にあっても光祐は、桜の君であった。
優祐は、社で見えない蜘蛛の糸に捕らえられていた。昨夜から祐里が行方知れずになっていたので、探しに出ようと扉に手をかけた瞬間、見えない蜘蛛の糸に絡まれて動けなくなってしまった。もがけばもがくほどに蜘蛛の糸は、優祐を捕らえて離さなかった。仕方なく優祐は、社で祐里の無事を祈っていた。祈りながら、懐かしい気配が近付いてくるのを感じていた。
「祐雫、ぼくはここだよ。父上さまもご一緒なのですね。父上さま、母上さまをお守りください」
 優祐は、こころの中で懸命に祈りながら声援を送った。
社の前では、余所者の気配を感じ、冬樹が両手を広げて立ち塞がっていた。
「何故じゃ」
森中を渡った神の声が冬樹の声と重なった。
「祐里と優祐を連れて帰ります」
 光祐は、祐里をしっかりと抱きかかえて冬樹と対峙した。冬樹は、春樹以外の人間が小夜を抱きかかえている現実を目の当たりにして動揺した。
「小夜は、幻だったのか。そうだった、祐里は、小夜の娘だったな」
 冬樹は、白昼夢から醒めたように頭の中がすっきりして自問自答していた。(わたしは、四半世紀もの間、一体何の為に生きてきたのだろう)冬樹は、自身に問いかけた。その自己への探求とともに森の御霊が冬樹の周りに集まってきた。
 光祐と祐里は、静かに冬樹の変化を見守っていた。
 祐雫は、優祐の気配を感じ、夢中で社に駆け寄り重い扉を外側から力いっぱい引いた。優祐は、内側から祐雫とこころを合わせるように意識を祐雫の腕に集中した。兄妹の絆は呪縛を打破し、再会の喜びで祐雫は優祐を抱きしめた。祐雫が優祐に触れた瞬間、優祐の身体に絡まった蜘蛛の糸が解けた。
「祐雫、ありがとう。すっきりしたよ」
 優祐は、大きく安堵の溜め息をついた。
「優祐、大丈夫でございますか」
 祐雫は、蜘蛛の糸を掃うように優しく優祐の背中を擦った。
 西の方角から霊香と共に爽やかな風が東の方角へ吹き渡った。
「父上の神事が終わった」
冬樹は、東の祠を仰ぎ見た。
 光祐は、しっかりと祐里を抱きしめ、優祐と祐雫は、光祐の元に走って寄り添った。四人の周りには、守護するように桜の花弁が舞っていた。
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keimi
keimiさんからコメント
投稿日 2008-10-15 11:01

蜘蛛といえば、初版本を必ず購入する宮本輝氏の「約束の冬」を連想します。

〜十年前、留美子は見知らぬ少年から手紙を渡される。「十年後、地図の場所でお待ちしています。ぼくはその時、あなたに結婚を申し込むつもりです」。いったいなぜこんな身勝手なことを?東京、軽井沢、総社、北海道…。さまざまな出会いと別れ、運命の転変の中で、はたして約束は果たされるのか。〜

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ファルコン
ファルコンさんからコメント
投稿日 2008-10-15 19:11

宮本輝さんは、神戸市生まれなんですよ。今は富山県でしたか?


我慢仕切れずについに光祐と祐雫がお出迎え。
ハラハラして読み切りました。
これで、冬樹が立ち直るのでしょうか。

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keimi
keimiさんからコメント
投稿日 2008-10-16 05:06

宮本輝氏は神戸で地震も体験されましたよね。地震を描いた作品もあります。

青春のバイブル「青が散る」からの愛読者です。

「桜物語」は、明日で最終話「静謐」になります。
最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございます。

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MR職人
MR職人さんからコメント
投稿日 2008-10-15 21:26

<桜>にまつわる思い出が多く老兵も引き込まれて愛読しています。

60年前7歳で急死した弟の葬儀で<送る言葉>を読まれた<同級生の三木櫻子さん>を、懐かしく思い浮かべました。
最後まで楽しみにしています。

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keimi
keimiさんからコメント
投稿日 2008-10-16 20:19

60年前の<送る言葉>を読まれた方の名前を覚えていらっしゃるなんて感動しました。弟さんの死は、時間が経ってもこころに重いものなのでしょう。

4年前に弟が突然逝きました。今でも信じられない気がします。

最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございます。

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Toshiaki Nomura
Toshiaki Nomuraさんからコメント
投稿日 2008-10-15 22:17

あまりの激しさに思わず引き込まれてしまいお風呂に入るのを忘れてしまいました・・・。


一気に読ませていただきました。
家族が一つに戻れてよかった・・・。
いよいよ最終回ですか・・・。

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keimi
keimiさんからコメント
投稿日 2008-10-16 20:22

お風呂に入るのも忘れて読んでくださいまして、ありがとうございます。


最終話は「蜘蛛の糸」だったのですが、終りの部分を「静謐」に分けました。
27日間、お付き合いくださいましてありがとうございます。

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