出生
八千代が神事の業に西の祠に篭もってから、一月が過ぎようとしていた。八千代は、神の守の交代の神事を密かに執り行っていた。祐里は、潤ってきた神の森を見て回るうちに、桜河のお屋敷が恋しくなっていた。
ある夜のこと、神の森は、嵐の中で猛り狂っていた。祐里は、風の音で目を覚ましてから寝付けずに(神の森を冬樹叔父さまにお返しして差し上げなければ、いつまでも光祐さまの元へ帰ることができません)と思いながら、窓から外の様子を覗っていた。
人影が森に消えるのが見えた。冬樹だった。(森で何かが起きたのでございましょうか)祐里は、心配になって冬樹の後を追いかけた。雨は容赦なく祐里の身体を叩いた。祐里は、神の森が道を開けるがままに、叩きつける雨の中を暗闇に吸い込まれるように走った。冬樹の姿は一向に見えなかった。それでも、この先に必ず冬樹がいると確信できた。気が付くと、前方に川が見えていた。いや、暗闇の中で見えたのではなく感じたのだった。崖下の川を見下ろす形で、冬樹は、川の岸壁に佇み、雨に打たれていた。
◇◇◇祐里、吾はそなたに試練を与えよう◇◇◇
◇◇◇冬樹を守り人に推すからにはそれなりの証を吾にみせよ◇◇◇
神の森は、激しい雨風をぶつけて、祐里に命じた。
突然に雷鳴が轟き、冬樹の傍らの樹を切り裂いた。
「叔父さま、危のうございます」
祐里は、冬樹の側に走り寄り、倒れてきた巨木から冬樹を押しのけて庇った。巨木は、祐里の腕と背中を容赦なく打った。
「小夜」
冬樹は、驚愕の表情で祐里を見つめた。そして、渾身の力を込めて祐里を抱きしめた。祐里は、遠退く意識のなかで映像を見るように冬樹と小夜の姿を見ていた。
「小夜。帰って来てくれたんだね。あれからずっと、死んだものとばかり思っていたよ」
冬樹の歓喜のこころを映して雨が止み、煌煌とした明るい月が雲を掻き消して輝いた。
「ぼくは、小夜が好きだ。兄上以上に小夜を愛している」
冬樹は、時間を逆行していた。祐里は、冬樹とともに時間の逆流に巻き込まれていた。
・・・・・・・・・春樹と小夜は、神の森と緑が原の境である緑川で、毎日夕刻に待ち合わせをしていた。冬樹は、父が呼んでいると春樹に嘘をついて、先回りして小夜を待ち伏せた。
「私は、冬樹さまを弟のように感じております。私は、春樹さまをお慕いしています」
「嫌だ。小夜は、ぼくのものだ。兄上には渡さない」
冬樹は、無理やり小夜にくちづけを迫り抱きしめた。
「やめてください。もう、春樹さまに顔向けできません」
小夜は、咽び泣き、冬樹が涙に驚いて力を弱めた隙に、険しい岸壁から川に身を投げた。その時、一足遅れで春樹が駆けつけて、小夜を助けようと激流の川に飛びこんだのだった。そして、二人は行方不明になった。春樹と小夜は、川下に流れついて、親切な村人の助けで一命を取り留めて緑が原を出て行き、様々な家の手伝いをして旅するうちに、桜山の山番として定住することになったのだった・・・・・・・・・。
冬樹は、小夜を失ったショックで今の今まで、その時の記憶を自分のこころの中から消し去っていた。春樹は、八千代の反対に遭い、小夜と駆け落ちして消息を絶ったと思い込んでいた。
我に帰った冬樹の腕の中に気を失った祐里がいた。あの時の小夜に生き写しだった。冬樹は、祐里を抱きかかえて小夜を取り戻したかのごとく東の祠に閉じ込めた。邪魔をした春樹は、もう現れないと思うと口元に笑みが浮かんでいた。その左肩には、邪悪な黒い大蜘蛛が張り付いていた。
祐里は、神の森が荒れている原因が分かりかけていた。冬樹の淋しいねじれた愛が神の森を荒らしているように思えた。冬樹は、それに気づいていない。それでも、祐里には冬樹が芯から悪い人間には思えなかった。(叔父さまは、淋しいお方・・・・・・何かを置き去りにされていらっしゃいます)祐里は、冬樹のこころに自分のこころを重ねて哀しみを噛み締めていた。
「叔父さま、わたしは、祐里でございます。お母さまではございません。どうぞ雪乃叔母さまの優しさにお気付きになられて、現実にお戻りくださいませ」
祐里は、夢の中で冬樹のこころに届けとばかりに囁きかけた。
すると夢の場面が移っていった。
・・・・・・・・・春樹と小夜の笑顔があった。
生まれて間もなくの祐里は、小夜に抱かれて乳を飲んでいた。
「小夜、ほんとうに愛らしい子だね」
笑顔の春樹が側で小夜と祐里を見つめていた。
「春樹さま、こうして乳を飲ませているだけでしあわせな気分になります」
祐里は、小さな体で一生懸命に乳を飲んでいた。小夜は、祐里を抱いているだけで産後の体調が戻っていくように感じられた。
「この子は、強い力を持っているようだ。それにしても、右手を固く閉じているのはどうしてなのだろう」
春樹は、祐里の固く閉じられた右手に触れた。祐里は、生まれてから一度も右手を開かなかった。
「きっと、幸運を握っているのですわ。そのような話を以前に聞いたことがあります」
小夜は、眠った祐里をそっと布団に寝かせた。
「小夜、見てごらん。お腹がいっぱいになったのだね。しあわせそうな顔をして眠っているよ」
春樹は、目を細めて祐里を見つめた。
「春樹さま、名前を考えられましたか」
「名前は、お世話になっているお屋敷の光祐坊ちゃんの祐の字をいただいて、祐里に決めたよ。お屋敷の長子は、祐の字を名前に使われるらしい。旦那さまも啓祐さまだし、その由緒ある祐と里を出てきた私たちがこの桜川で恙無く暮らしていける願いも込めて、祐里と名付けることにしたよ」
春樹は、祐里が女子であったことに内心ほっとしていた。神の守の血筋を引く祐里は、生まれながらにして力を秘めていた。もし男子であれば、必ず神の森が草の根を分けても迎えに来ると確信できた。この桜川に来て以来、春樹は、自分の気配を消していた。不思議と他の力が加わって結界の力を強めて守ってくれていた。
「祐里。大層可愛らしい名前です。お名前をいただいた光祐坊ちゃまにも可愛がっていただけるとよろしいですね」
小夜は、祐里が生まれるまで手伝いにあがっていたお屋敷の二歳になる光祐の乳飲み児だった頃を思い出していた。奥さまは、産後の肥立ちが悪く床に伏していて、婆やの紫乃と交代で光祐の世話をした。光祐は、利発でお屋敷の後継ぎに相応しい気品を持ち合わせていた。
「祐里は、しあわせになる子だよ」
春樹は、こころからそう思えた。小夜は、にっこり笑って頷いた。
月日は巡り、祐里の一歳の誕生日になった。祐里の右手は、相変わらず握られたままで、春樹と小夜の心配を他所に、不自由なく左手だけで日々を過ごしていた。
「小夜さん、こんにちは。坊ちゃまがどうしても祐里ちゃんのお誕生日をお祝いしたいとおっしゃいましたので、一緒に参りました」
三歳を迎えたばかりの光祐は、紫乃と一緒に、初めて祐里に会いに来たのだった。
「紫乃さん、こんにちは。光祐坊ちゃま、いらっしゃいませ。大きくなられましたね」
「さよ、こんにちは。ゆうりのたんじょうびのおもちです。ゆうりとあそんでもいい」
光祐は、誕生祝いの紅白餅の箱を小夜に差し出した。
「光祐坊ちゃま、ありがとうございます。どうぞ、祐里と遊んであげてください」
小夜は、紅白餅の箱を受け取って深々と頭を下げた。
光祐は、靴を脱いで祐里の側に駆け寄った。
「ゆうり、ぼくは、さくらかわこうすけ。いっしょにあそぼうね」
光祐は、祐里の右手を取って笑顔を向けた。光祐から手を取られた祐里は、固く握っていた右手をゆっくり開いて、桜の花を光祐に差し出した。
それを側でみていた小夜と紫乃は、驚きで言葉が出なかった。
「ゆうり、ありがとう。きれいだね。ばあや、ゆうりがおはなをくれたよ」
光祐は、祐里から差し出された桜の花を受け取り、嬉しくて紫乃に掲げて見せた。小夜と紫乃は、二人で顔を見合わせた。紫乃は、小夜から祐里の右手が握られたままで心配していると聞いていた。その右手が一年経ってようやく開いたのだった。それも不思議なことに満開の桜の花を握っていたらしい。
「ほんとうに綺麗な桜のお花でございますね」
紫乃は、光祐に笑顔で相槌を打ち、桜の花を光祐の上着の胸ポケットに差し入れた。小夜は、祐里の側に走り寄り、開かれた右手に触れて、涙ながらに祐里をぎゅっと抱きしめて喜んだ。祐里は、何事もなかったかのように右手で積み木を積んで、光祐と機嫌よく遊んでいた。
その夜、仕事から戻った春樹に小夜は吉報を伝えた。
「春樹さま、祐里は右手に桜の花を握っていました。光祐坊ちゃまが遊びに来られた時に開いて桜の花を差し出したのですよ。この辺りの桜は、まだ蕾でしょう。不思議でなりません。それからは、ご覧のように右手を使いますの」
「ほんとうだ、右手を使っている。それにしても、桜の花を・・・・・・不思議なこともあるものだ。これは、祐里が桜の樹に守られているということだろうね。祐里は、しあわせになる子だよ」
「はい。なんだか安心いたしました。私のために神の森を出ることになった春樹さまの御子が、この桜川の地で受け入れられたのですもの」
春樹は、右手を使っている祐里を抱きかかえて頬擦りした・・・・・・・・・。
冬樹は、祐里に頬擦りすると明け始めた朝の神事のために仕方なく社に戻って行った。冬樹が閂を下ろして立ち去った祠には、白い霧がたちこめて祐里を愛撫するように包み込んで掻き消えていった。
祐里は、薄暗い祠の中で、意識を取り戻した。冬樹を助けた時に打った腕を擦って背中から腕に走る痛みに耐えた。祐里の癒しの力は、祐里自身には効かなかった。ただ、不思議なことに光祐が側に居るときは、自身を癒すことが出来るのだった。(光祐さま)祐里は、こころの中で呟いて、ふらふらと立ち上がり祠の戸を押した。外から閂がかかっているようで開かなかった。(優祐さんは、大丈夫でございましょうか)祐里は、社にいる優祐の身を案じた。雨に濡れた狩衣は、祐里の身体に蜘蛛の糸のように冷たく纏わりついていた。
「光祐さま」
祐里は、心細さでいっぱいになり声に出して光祐の名を呼んだ。光祐の笑顔が蘇った。握り締めた右手を開くと不思議なことに今まで見ていた夢と同じ満開の桜の花が現れた。(桜さん、光祐さまにお会いしとうございます)祐里は、桜の花を両手で包み目を閉じると、光祐との楽しい日々を思い出しながらこころの炎で濡れた身体を温めた。
「神の森さま、叔父さまのこころに森の御霊をお与えくださいませ。叔父さまにお力をお授けくださいませ。お爺さまの息子であられる叔父さまこそが神の守に相応しゅうございます。私は、榊原姓ではなく、桜河祐里でございます。それに光祐さまの妻でございます。神の守には相応しゅうございません」
祐里は、正座をして薄れていく意識を振り絞ると神の森に訴えかけた。神の森は、祐里の言葉に無言のまま、霧を漂わせながら朝日を浴びて明けていった。
祐里は、外界から遮断された薄暗い祠の中で、痛みと寒さに襲われて正座をした姿勢のまま、蜘蛛の糸にかかった獲物のように気を失った。
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