桜の姫 祐里は、この年最後の鶴久病院での見舞いを終え、結子とお茶の時間を過ごしていた。 「祐里さん、ようやく、柾彦も結婚に辿り着きそうでございます」 結子は、祐里に温かい紅茶を差し出しながら満足げに笑った。 「本当によろしゅうございました。柾彦さまには、しあわせになっていただきとうございます」 祐里は、温かい紅茶の香りの中で、柾彦のしあわせを願っていた。柾彦が笙子と交際していることは萌から聞いていた。 「これも、祐里さんのお陰でございますわ」 結子は、感謝の気持ちを込めて、祐里を見つめた。 「私は、何もいたしておりません。萌さまのご紹介でございましょう」 祐里は、謙虚に応えた。 「ずっと祐里さんのことを好いていた柾彦さんが道を踏み外さないように、祐里さんが気を遣ってくださったからでございます。祐里さんと祐里さんを疑うことなく寄越してくださった光祐さんに、本当に感謝してございますのよ」 結子は、高校生の柾彦が、初めて祐里に恋をしてからのことを思い出していた。一途に祐里を大切に想っていた柾彦が、想い余って祐里を抱きしめていた場面に遭遇した時は驚いたが、それも祐里が上手く切り抜けてくれ、それ以後も祐里は、変わらぬ態度で柾彦と接してくれていた。 「おばさま、私は、女学生の頃からいつも柾彦さまに守っていただきましたし、勇気づけていただきました。私こそ、柾彦さまには感謝してございます。それに桜河も、柾彦さまを信頼してございますもの」 祐里は、柾彦がいつでも優しく守ってくれたことを思い出しながら、結子の手を取った。 「祐里さんは、本当に神さまのように慈悲深くて謙虚でございますわね。桜河のご家族は、嘸かしおしあわせでございましょう。初めて祐里さんにお会いした時から、私は、あなたを柾彦さんのお嫁さんにと思っておりました。適わぬ夢でございましたけれど」 結子は、祐里を強く抱きしめた。 「ありがとうございます。私は、おばさまが大好きでございます。おばさまがよろしゅうございましたら、今まで通りのお付き合いをさせていただきとう存じます」 祐里は、結子がますます好きになった。 「勿論でございますとも。祐里さんは、志子さんと同じく私の娘ですもの。笙子さんとも仲良くして差し上げてくださいませね」 結子は、祐里のことを桜河家に嫁がせた自分の娘のように感じていた。 「はい。桐生屋さんでお着物を誂えるときは、笙子さまにお見立てをお願いしてございましたの。大人しい方ではございますが、しっかりとした方でございます。柾彦さまは、頼もしいお方でございますから、きっと、笙子さまを導かれることでございましょう」 結子と祐里が話をしているところに、柾彦と笙子が顔を出した。 「姫。こちらだったのですね。笙子さんを紹介しようと思って探していたのですよ」 柾彦は、笙子の肩を優しく引き寄せた。 「柾彦さま、笙子さまの前で姫とお呼びになるのはよろしゅうございませんわ。これからは、お辞めくださいませ」 祐里は、困った顔をして柾彦を窘めた。 「でも、姫は、姫だもの。姫に会ってから、今まで、姫としか呼んだことがないから、今更、他の名では呼べないよ。桜河の若奥さまって、呼べばいいのかな」 柾彦は、おどけながらも、照れて困っていた。 「祐里さま、私は構いません。柾彦さまが、祐里さまをずっとそのようにお呼びして来られたのでございますから、今更、変えずともよろしゅうございます。それに祐里さまには、姫という愛称がとてもよくお似合いでございますもの」 笙子は、祐里をずっと想っていた柾彦に、現在愛されているだけで嬉しかった。 「まぁ、笙子さま。本当に私は、姫ではございませんのよ」 祐里は、困惑しながら慌てて打ち消した。 「私もこれからは、柾彦さまと同様に、姫さまとお呼びいたします。姫さま、どうぞ、よろしくお願い申し上げます」 笙子は、柾彦に寄り添って、丁寧に祐里にお辞儀した。 「これで決まりだね。姫は、今まで通り姫だからね」 柾彦は、笙子の肩を抱きながら、しあわせに溢れる笑顔を見せた。 「笙子さま、こちらこそ、どうぞよろしくお願い申し上げます」 祐里は、諦めて笙子にお辞儀を返した。 柾彦は、ようやく、祐里への恋慕から卒業できそうな気がしていた。そして、笙子をこれから最愛の女性として愛していこうと決心した。祐里は、仲睦まじい柾彦と笙子をこころから祝福しながら、この時を待ち焦がれていた結子とともに安堵していた。 柾彦は、まことにしあわせいっぱいだった。 祐里をひたすら守り通して、恋い慕い、その友情を壊すことなく、今、笙子というかけがえのない女性に巡り合い、溢れる愛情を注いでいた。 柾彦の恋は、祐里から笙子への愛に羽ばたいたのだった。 鶴久病院の冬枯れの桜は、寒風の中で、着々と芽吹く準備を始めていた。来春の柾彦と笙子の婚礼の日の華やかな開花を夢見て静かに枝を揺らしていた。柾彦と笙子に「永久に幸あれ」と微笑みかけているようであった。 祐里は、お屋敷に戻ると、桜の樹の下に向かった。 「桜さん、祐里は、光祐さまのお側で恙無く過ごすことができまして、しあわせでございます。桜さんのお陰でございます。ありがとうございます」 祐里は、溢れんばかりのしあわせな笑顔で、桜の樹に感謝の気持ちを伝えた。 桜の樹は、幹に当たる陽射しを反射させて、祐里のまわりに光を投げかけていた。 〈 桜物語 柾彦の恋の章 完 〉 *** しあわせに包まれたお屋敷に過去からの風が吹いてきます。 宿命に対峙する光祐と祐里の桜物語は、追章「神の森」で 祐里の出生秘話へと展開していきます。***
投稿日 2008-10-10 14:33
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投稿日 2008-10-10 16:14
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投稿日 2008-10-10 19:26
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投稿日 2008-10-11 18:08
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