告白
十二月に入り、桜山が薄っすらと雪化粧を施す頃となった。
柾彦は、都の学会に出かけ、檜室教授から呼び出しを受けた。笙子との出合いで、柾彦は、すっかり美月のことを忘れていた。美月からも、その後、音沙汰がなかった。柾彦は、重い気持ちで、教授室の扉を叩いた。檜室教授は、扉を開け、柾彦を迎え入れた。
「鶴久君、久しぶりだね。わざわざ、呼びたててすまなかった。とにかくかけなさい」
檜室教授は、柾彦に椅子をすすめて、自分も向かいの椅子に腰を降ろした。
「ご無沙汰いたしております」
柾彦は、檜室教授の表情が穏やかなことを感じていた。
「先日は、娘の美月が迷惑をかけて、誠にすまなかった。父親として詫びをしたいと思ってね。見合いの席をすっぽかして、君を訪ねていたとは、後から聞いて本当に驚いたよ」
檜室教授は、畏まって柾彦に頭を下げた。
「私も突然、美月さんが訪ねて来られた時は驚きました。その後、美月さんは、いかがでございますか」
柾彦は、恐縮して、教授に尋ねた。
「実は、君のところから戻って来た日に、駅で齋藤君に会ったらしくてね。夕食をご馳走になって、重い鞄を持ってもらったら、齋藤君のことが好きになったようで。今では、賑やかな都を離れたくないから、齋藤君と結婚すると言っているのだよ。本当に困った我が侭娘だ」
美月は、桜川からの帰りの列車の中で、目まぐるしかった一日を振り返っていた。父の薦める計略的な見合い結婚に反発して咄嗟に家出をし、父の教え子の中で一番好感が持て、心優しい柾彦を頼ったものの、柾彦が深く祐里を愛していることを真摯に受け止め、自分の入る余地がないことを胸に刻んでいた。今更、すっぽかした見合相手と結婚する気にもなれずに途方に暮れていた。その時、必然的に齋藤真実に出会ったのだった。
柾彦は、話を聞きながら、厳しい檜室教授が顔を綻ばせて喜んでいる様子に、美月のこれからのしあわせを願っていた。
「齋藤でしたら、美月さんとお似合いです。たぶん、美月さんは、お見合いが嫌で、妥当な距離の私のことを思い出したのではないでしょうか」
柾彦は、自分の窺い知らないところで、このような顛末になろうとは思いも寄らず、安堵していた。それとともに笙子の笑顔がこころに広がっていた。
結子は、忙しい日々を過ごしながらも、柾彦の恋をじれったく思っていた。笙子を紹介されてから、既に一月以上経っていた。
「あなた、柾彦さんは、どうされるのでしょうね。あちらさまにご挨拶に伺わなくてもよろしいのでございましょうか」
結子は、夫の鶴久宗(はじめ)に柾彦のことを相談した。
「柾彦ののんびりは、今に始まったことではないだろう。いい大人なのだから、柾彦の結婚のことは柾彦に任せておきなさい」
宗は、ゆったりと構えて、結子の心配を他所に新聞に目を落とした。結子は(柾彦ののんびりな性格は、宗にそっくりだわ)と思って溜め息をついた。
柾彦は、土曜日の診療を終えて、慌てて車を東野の華道会館に走らせた。学会があり、華道展以来、笙子には会っていなかった。柾彦は、会館の車寄せに車を止め、笙子が出て来るのを待った。華道展の時に、毎週土曜日の午前中は、華道会館で稽古があり、片づけが終わるのが一時頃だと、笙子から聞いていた。寒椿文様の艶やかな着物に椿色の被風姿の笙子が花包みを抱えて華道会館の扉から現れた。風花の舞う冷たい空気が一瞬、温かみを帯びたように柾彦には感じられた。
「笙子さん、突然ですがお昼をご一緒しませんか」
柾彦は、車から出て、満面の笑顔を笙子に向けた。
「柾彦さま」
笙子は、柾彦に走り寄った。笙子の胸はしあわせで溢れていた。柾彦に会いたくて、幾度涙したことか・・・・・・ようやく柾彦に会えた喜びが溢れて、大粒の涙が頬を伝っていた。
「どうしたの。なにか哀しい事でもあったの」
柾彦は、笙子の溢れる涙に驚いていた。
「申し訳ございません。柾彦さまにお久しぶりにお会いできて、あまりに嬉しゅうございましたので」
笙子は、熱い眼差しをしっかりと柾彦に向けた。今まで、恥ずかしくて、柾彦の顔をしっかりと見つめる事の出来なかった笙子だったが、恋するこころは笙子を強く導いていた。
「ぼくも笙子さんに会えて嬉しいよ。さぁ、泣くのをやめて」
柾彦は、花包みを受け取ると、ハンカチを取り出して笙子の手に握らせた。笙子は、涙を拭きながら微笑んで、柾彦が開けた車の後部座席に乗り込んだ。
「笙子さんが落ち着くまで、車を走らせようね」
柾彦は、ゆっくりと車を発進した。萌は、その二人の姿を微笑ましく思いながら、会館の事務室の窓から密かに見守っていた。
「突然来てしまったので、家の方が心配されるだろうから、一度、家まで送りましょう」
柾彦は、桐生屋の方角に車を進めていた。
「はい。でも・・・・・・」
笙子は、家を気にしながらもこのまま柾彦と過ごしたいと思っていた。一度、家に戻ると父に反対されるような気がしていた。
「でも、どうしたの」
柾彦は、先程自分に熱い想いをぶつけて来た笙子の普段の大人しさに再び触れた。
「先日、お店に出ている時に柾彦さまのことを考えておりましたら、父から『こころ、ここにあらず』と叱られましたので・・・・・・」
笙子は、再び哀しい顔をして俯いた。柾彦は、笙子を冬山に返り咲いた菫の花のように感じていた。いじらしく可愛らしい笙子を小さな菫に例えて、寒風から両手で包み込むように守りたいと思い、後部座席でしおらしく座っている笙子に声をかけた。
「それならば、父上さまにきちんとご挨拶をするよ。その前に笙子さんの気持ちを聞くべきだよね」
柾彦は、車を路肩に停めて後ろを振り向くと、真剣な表情で笙子を見つめた。
「笙子さん、ぼくとお付き合いをしてください」
「はい、柾彦さま。よろしくお願い申し上げます」
笙子は、胸の中でしあわせの花が一斉に開花するのを感じながら返答した。柾彦は、にっこり笑って、前に向き直ると車を発進させた。昼過ぎには売り切れる桜屋の桜餅を結子から頼まれて、偶然にも助手席に積んでいたことを幸運に思った。
柾彦は、店先の邪魔にならない場所に車を停めると、後部座席の扉を開けて笙子を車から降ろした。笙子は、紫紺の暖簾を開けて、柾彦を店に招じ入れた。
「いらっしゃいませ。笙子、お帰り」
「いらっしゃいませ。お嬢さま、お帰りなさいませ」
颯一朗と店の奉公人が一斉に柾彦と笙子を迎えた。
「ただいま帰りました。お兄さま、こちらは、鶴久柾彦さまでございます。父上さまはどちらでございますか」
笙子は、まっすぐに颯一朗をみつめて、柾彦を紹介した。
「はじめまして、鶴久柾彦です」
柾彦は、颯一朗に挨拶をして、ゆっくりと店内を見渡した。
「いらっしゃいませ。笙子の兄の颯一朗でございます。笙子、父上と母上は、奥でお昼だよ。お客さまを座敷にご案内しなさい」
颯一朗は、大人しい笙子のこのところの変わり様に驚きを隠せなかった。店の奉公人でさえ、恥ずかしそうに話をする笙子が男性を連れて来たことが信じられなかった。
「柾彦さま、こちらへどうぞ。ご案内申し上げます」
笙子は、柾彦を座敷へと案内した。
「少々お待ちくださいませ。父母を呼んで参ります」
笙子は、柾彦を上座に案内すると、熱い決意を胸に抱いて奥座敷に向かった。柾彦は、姿勢を正すと、こころを落ち着かせようと庭の枯山水を眺めた。
「父上さま、母上さま、ただいま帰りました。会っていただきたいお客さまをお連れいたしました」
笙子は、奥座敷に入ると正座をして、しっかりと弦右衛門と紗和の瞳をみつめて話をした。
「笙子、お帰り。もしや、鶴久病院の先生をお連れしたのかね」
弦右衛門は、突然のことで驚きを隠せなかった。大人しい娘のどこに結婚相手を自分で決める大胆さが隠れていたのだろうと思っていた。
「まぁ、それは大変でございます。どういたしましょう」
滅多な事では驚かない紗和も、左右をみまわしてあたふたとしていた。
「私は、お茶をお持ちしますので、父上さま、母上さま、お先にお越しくださいませ」
笙子は、立ち上がって台所に向かった。弦右衛門と紗和は、顔を見合わせると、手を取り合って座敷に向かった。
「失礼いたします」
弦右衛門と紗和は、硬い表情で柾彦の前に座った。
「突然に伺いまして申し訳ありません。鶴久柾彦と申します。どうぞよろしくお願いします。先日、久世萌さんより笙子さんをご紹介いただきまして、本日は、お付き合いのお許しをいただきに参りました。どうぞこちらをお納めください」
柾彦は、はきはきと元気よく挨拶をして、風呂敷から桜屋の菓子箱を差し出した。
「ご丁寧にありがとうございます。先日、娘から、鶴久先生をお慕いしている旨を聞きまして、御門違いと思っておりました。世間知らずの娘で、とてもご立派な鶴久病院の先生とお付き合いをさせていただけるとは思ってもおりませんでした。こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」
子どもの頃からずっと接客をしてきた弦右衛門は、一目で柾彦の誠実さと明るさを感じ取っていた。
「失礼いたします」
笙子が、障子を開けて静かに座敷に入って来た。座卓にお茶を出しながら、父母の穏やかな表情を見て、柾彦が父母に受け入れられたことを感じ取った。柾彦は、爽やかな笑顔で、堂々と頼もしかった。
「笙子さんは、大切に育てられたお嬢さまです。私も大切にお付き合いをさせていただきます。それに笙子さんは、鶴久病院ではなく私と付き合う訳ですから」
柾彦は、笙子の瞳を見つめて話した。笙子も熱い瞳で柾彦を見つめ返した。
「そのように思っていただきまして、笙子はしあわせものでございます。ありがとうございます」
紗和は、ようやくいつもの落ち着きを取り戻した。
「失礼いたします。父上、藤原さまがいらっしゃいました」
障子を開けて、颯一朗が事の成り行きを心配して顔を出した。
「颯一朗、鶴久柾彦先生だ。笙子とお付き合いをしてくださることになったからね。鶴久先生、笙子の兄の颯一朗でございます。嫁の繭子は、臨月で里帰りをしております。それでは、私は、失礼させていただいて店に戻ります」
弦右衛門は、柾彦に颯一朗を紹介して、座敷を後にした。
「どうぞ、笙子をよろしくお願い申し上げます」
颯一朗は、廊下で丁寧にお辞儀をして、弦右衛門の後に続いた。
「本日は、お店の忙しい中、突然伺いまして申し訳ありませんでした。今から、笙子さんをお誘いしたいのですがよろしいでしょうか。夕方には、送って参ります」
柾彦は、紗和に申し出た。
「こちらこそ、ご丁寧にありがとうございました。何もおもてなしできませんで申し訳ございません。どうぞ、笙子をお連れくださいませ。」
紗和は、柾彦の中に清々しい青空を感じ、古い老舗の呉服屋に爽やかな風が吹き込んだように感じていた。
柾彦は、笙子の紹介も兼ねて銀杏亭に車を走らせた。
杏子の熱い好奇な視線を浴びながら、柾彦は、笙子と向かい合わせで、遅い昼食を食べた。柾彦は、祐里と過ごす掴み処のなかったしあわせとは異なる、今まで感じたことのない満ち足りたしあわせを感じていた。
「杏子の言う通り、柾彦先生を好いてくださる方に巡り合ったでしょ。それにこんなに若くて可愛らしい方なのですもの。本当によかったですわね」
杏子は、明るい声で、恥ずかし気な俯き加減の笙子に笑いかけた。
「ありがとう、杏子。これでまた杏子には頭が上がらないよ」
柾彦は、背中を押してくれた杏子に感謝していた。
「笙子さま、柾彦先生がじれったい時は、杏子におっしゃってくださいませ。厨房の火をお貸ししますからね」
「ぼくは、食材ではないのだから」
「杏子さま、ご指導をよろしくお願い申し上げます」
柾彦と杏子の笑い話に、笙子もすっかり打ち解けて一緒になって声をたてて笑っていた。
柾彦は、駆け足で沈む師走の夕日が輝く中、笙子を送って車を走らせていた。
「笙子さんと一緒にいると時間が一瞬のようだね。このままぼくの家に連れて帰りたいくらいだ。明日は、迎えに行って、ぼくの父と母に紹介するよ」
柾彦は、笙子と離れることが寂しく感じられ、一刻も早く結婚したいと思った。
「はい、柾彦さま。父上さまと母上さまに気に入っていただけると嬉しゅうございます」
「笙子さんなら、一目で気に入るよ」
笙子は、後部座席から運転席の柾彦に熱い想いで応え、柾彦は、鏡越しに頷き返した。
「奇麗な夕日だね」
柾彦は、路肩に車を停めて笙子を降ろし、ちょうど山に沈んでいく緋色の夕日を笙子と寄り添って眺めた。
「笙子さん、桜の頃にぼくと結婚してください。今すぐにでも結婚したいくらいだけれど、いろいろと準備があって、そういうわけにもいかないだろうからね。ぼくは、この夕日のように熱く笙子さんを愛しているよ」
「はい、柾彦さま。喜んでお受けいたします。どうぞ笙子をよろしくお願い申し上げます」
柾彦は、真剣なまなざしで笙子を見つめ、肩を抱き寄せた。笙子は、柾彦の情熱的な愛情を感じながら、柾彦にぴったりと寄り添い、寒さも忘れてしあわせいっぱいに輝いていた。
- ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
ログイン
- まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
新規ユーザー登録へ
投稿日 2008-10-09 16:31
ワオ!と言っているユーザー
投稿日 2008-10-10 05:31
ワオ!と言っているユーザー
投稿日 2008-10-09 22:32
ワオ!と言っているユーザー
投稿日 2008-10-10 18:21
ワオ!と言っているユーザー