桜の樹
それから、六年の歳月が流れた。
祐里は、少女から美しい娘へと成長し、間もなく十六の歳を迎えようとしていた。四月からは、町の女学校に進学する。桜河のお屋敷では、十三年間、旦那さまと奥さまからは、実の娘のように可愛がられ、奉公人達からは、祐里さまと愛しまれていた。
「祐里さん、今し方電報が届いて、光祐さんが春の休暇で、三年ぶりに帰っていらっしゃるの。森尾と一緒に駅までお迎えに行っていただけるかしら」
華やいだ声は、奥さまの薫子さま。貧血気味の奥さまは、透き通るような色白の肌で大切に育てられた薔薇のようなお方。祐里の部屋の扉を叩いて笑顔を向けた。
「光祐さまがお帰りになられるのでございますか。はい、すぐに参ります」
三年ぶりに帰省される光祐さま。お便りは届いていたけれど、どんなにお会いしたかった事か・・・・・・祐里のこころは、春の陽射しに包まれた。
「今夜は、光祐さんの好物を紫乃に揃えてもらいましょうね。駅に行く途中に魚桜で特別なお魚を注文してくださいね。森尾が玄関に車を廻していますからお願いします」
「はい、奥さま」
祐里は、桜色のワンピースに着替えて、若葉色のカーディガンを羽織ると玄関へ急いだ。祐里の長い黒髪と色白の肌に桜色のワンピースが映えて、一足早い桜満開の雰囲気を辺り一面に醸し出した。
「森尾さん、お待たせいたしました」
祐里は、奥さま専属運転士の森尾守の開けた後ろの扉から車に乗りこみ、光祐さまのいなくなったこの六年間を思った。
光祐さまが祐里にくださったお仕事だったから、淋しくても元気に振る舞い、旦那さまと奥さまが淋しくないようにと配慮した。
「祐里さま、ようやく、光祐坊ちゃまがお帰りでございますね」
「はい、嬉しゅうございます。森尾さん、先に魚桜に回ってください」
祐里は、満面の笑顔を森尾に向けた。森尾は、祐里の華やいだ気持ちを受けて、快く車を発進させた。魚桜では、祐里の顔を見るなり、店主が活きのよい真鯛を掲げて見せた。
駅前に車を駐車して、改札口を出ると定刻通りに列車が到着した。光祐さまは、祐里が想像していた以上に長身になり、爽やかな笑顔で列車から降り立った。
「祐里。帰ったよ」
光祐さまは、祐里を見つめ、優しい声で包み込んだ。
「光祐さま。お帰りなさいませ」
祐里は、光祐さまのきらきらと眩しい姿を仰ぎ見て、例えようがないくらい胸がしあわせでいっぱいになった。
「光祐坊ちゃま、お帰りなさいませ。ご立派になられて、爺は、嬉しゅう御座います」
森尾は、涙ながらに光祐さまの鞄を受け取った。
「ただいま。爺も元気そうで安心したよ。ぼくは、祐里と散歩して家に戻るから、爺は先に帰って母上さまに無事に着いたと知らせておくれ」
光祐さまは、森尾に優しいまなざしを向けた。
「畏まりました。どうぞ、光祐坊ちゃま、祐里さま、お気を付けてお帰りくださいませ」
森尾は、光祐さまと祐里に深々とお辞儀をすると一足先にお屋敷へ戻って行った。
「祐里、桜川を散歩しながら帰ろう」
光祐さまが先に歩き出した。
「はい、光祐さま」
祐里は、光祐さまの広い背中を見つめながら、一歩後ろをお供した。
「祐里、綺麗になったね。驚いたよ」
振り向いた光祐さまのまなざしを浴びて、祐里の胸はどきどき、頬が桜色に染まっていく。光祐さまは、三年のうちに少女の殻を脱いで、女性の衣を纏い始めた祐里の変化にしばし見惚れていた。
「光祐さまは、ご立派になられました」
光祐さまは、にっこり笑って頷いて祐里の手を取り、川の土手を降りて行った。
菜の花の咲く川原は、紋白蝶が飛び交い、春の陽射しに包まれてのどかで暖かだった。光祐さまは、ずっと祐里の手を引いて歩いた。祐里のこころもぽかぽかと温かくなっていた。
「いつも、祐里とこうして散歩したね。いつの間にか日が暮れて、よく母上さまが心配なさって叱られたよね」
光祐さまは、祐里の足元に気を配りながら優しい眼差しを向けた。
「はい、光祐さま。懐かしゅうございますね」
祐里は、真っ直ぐに光祐さまを見つめて返事をした。光祐さまと一緒にいると何時の間にか時間が過ぎてしまい、気が付くといつも暗くなっていたのを思い出していた。暗い道でも、光祐さまが手を引いてくだされば全然怖くはなかった。
突然に光祐さまは、祐里をぎゅっと抱きしめた。お屋敷の光祐さまと孤児の祐里では身分違い。どれほどお慕いしても、叶わぬ恋。旦那さまと奥さまがいくら可愛がってくださっても、光祐さまに愛される資格などあるわけがない。でも、光祐さまの胸の中で溶けてしまいそうなしあわせを感じている祐里がいた。(このまま、時間が止まってしまうとよろしゅうございますのに)と、祐里は、こころの中で念じていた。
「祐里の香りがする。ぼくの大切な祐里。ぼくだけの祐里」
光祐さまは、胸いっぱいに祐里の香りを吸い込んだ。
「光祐さま。もったいないお言葉でございます」
祐里の瞳からは、はらはらと涙が零れて、光祐さまの濃紺の上着を涙の雫で滲ませた。光祐さまの逞しい胸に包まれて、至福の真っ只中にいながら、同時に奈落の不安を感じている祐里だった。お屋敷の光祐さまは、雲上人のように手の届かぬ御方だった。
「ぼくは、祐里を愛している。どのようなことがあろうとも、必ず、祐里と結婚する。それとも祐里は、ぼくのことが嫌いなの」
光祐さまの真剣なまなざしを受けて、祐里は、首を横に振った。
「ずっと、お慕い申し上げております。でも、光祐さまには、孤児の私など分不相応でございます。まして結婚など畏れ多うございます。祐里は、このようにご一緒させていただくだけでしあわせでございます」
祐里は、瞳を涙でいっぱいにして、光祐さまを見上げた。
「父上さまも母上さまも祐里のことを可愛がっておられる。身分など関係ないよ。それにぼくが誰よりも愛しているのだから、祐里は、ぼくを信じてついてきておくれ。さぁ、涙を拭いてあげよう。祐里が泣いていると、母上さまが心配されるからね。祐里は、泣き顔もまた美しいけれど、やはり笑顔が一番似合っているよ」
光祐さまは、ハンカチを取り出して祐里の涙を拭った。そして、もう一度、強く抱きしめて優しく髪を撫でると、手を繋いだまま歩き出した。
(ぼくは、ひとりの人間として、こころの優しい祐里を愛している。ただ、それだけのことなのに、どうしていけないのだろう)と光祐さまは考えていた。
「休暇は、いつまででございますか」
「祐里の誕生日の三日に発つ。入学式までにはまだ日にちがあるのだけれど、父上さまとご挨拶に伺う御邸が多くてね。滞在は十日間だけれど、祐里と一緒に過ごすと、都に帰りたくなくなるよ」
「十日間でも、光祐さまとご一緒に過ごせますのは嬉しゅうございます」
川原の小さな草花が光祐さまと祐里を優しく包み、小鳥たちは可愛い声で囀って二人の仲を祝福していた。光祐さまと祐里は、至福の世界に包まれていた。
川原を過ぎて桜橋を渡った所で、光祐さまは、祐里から手を離し、しきたりを重んじて一歩前を歩いた。
「桜河のお坊ちゃま、お帰りなさいませ。祐里さま、こんにちは」
光祐さまと祐里は、家並みの続く道で、光祐さまの帰省を祝いに出てきた衆から声をかけられた。衆は、立派になった光祐さまを仰ぎ見た。
「ただいま帰りました。お元気で何よりです」
「こんにちは。ご機嫌いかがでございますか」
その一人一人に光祐さまは、会釈を返し、祐里は、一人一人に丁寧に声をかけた。
光祐さまの帰省の知らせは衆に知れ渡っていた。桜川地方では、桜河のお屋敷に足を向けられないと衆が言う。旦那さまも奥さまも光祐さまも衆から敬われていた。そして、祐里の出生を知っている衆でさえ、今では祐里のことを桜河のお嬢さまとして敬っていた。祐里が道を通るだけで、衆は不思議としあわせな気分になるのだった。
光祐さまは、お屋敷の八脚門をくぐり、庭の長い石畳を抜けて、東側の住まいである有名な建築家が設計した洋館と西側の亡き祖父母の住まいであった荘厳な日本家屋を三年ぶりに懐かしい思いで眺めた。そして、洋館の玄関へ歩を進めた。
「光祐坊ちゃま、お帰りなさいませ」
女中頭の森尾あやめを先頭に女中たちが足音を聞きつけて、玄関の端に一斉に並んで出迎えた。
「ただいま、あやめ。皆も出迎えありがとう」
光祐さまは、あやめに笑顔を向けた。あやめは、立派になった光祐さまの姿に胸がいっぱいで涙ぐんだ。他の女中たちも光祐さまの健やかな成長に見惚れていた。
「お帰りなさいませ、光祐さん。お帰りを待ち侘びてございましたのよ。祐里さん、ご苦労さま。ご一緒にお茶にしましょう」
奥さまが居間から出てきて、成長した光祐さまを誇らしげに見つめた。
「母上さま、ただいま帰りました」
光祐さまは、よく透る澄んだ声で挨拶をした。
「奥さま、ただいま帰りました。遅くなりまして申し訳ございません。お茶を入れて参ります」
祐里は、泣いたあとの顔が気になって、台所に続く廊下の鏡を覗きこんだ。それから急いで洗面室で顔を洗って台所へ向かった。
「ただいま、紫乃さん。魚桜から真鯛は届きましたか」
笹生紫乃は、奥さまが嫁いだ時に実家から連れて来た婆やで、奥さまのよき相談相手だった。お屋敷の台所を取り仕切り、女中頭のあやめと共にお屋敷の奉公人を束ねていた。紫乃は、光祐さまの好物を腕に縒りをかけて沢山準備していた。
祐里は、お屋敷では養女と同等の待遇を受けていたが、進んで台所や掃除の手伝いをしていた。紫乃は、祐里を見込んでお屋敷に代々伝わる数々の料理を教え込んでいた。
「祐里さま、お帰りなさいませ。絶品の鯛が届いてございます。坊ちゃまがお帰りになられて、賑やかにおなりでございますね。おやつは坊ちゃまのお好きなお茶と苺のタルトの準備ができてございます。お茶は紫乃が運びますので、祐里さまはタルトのお盆をお願いいたします」
紫乃の料理は、天下一品。食する人の気持ちに添って料理が食卓に並べられた。紫乃の口癖は『お料理はこころの匙加減で決まります』だった。
「はい。紫乃さん、おいしそうでございますね」
祐里がお盆を抱えると甘酸っぱい苺の香りに包まれた。紫乃の畑で採れた春の香り。
奥さまと光祐さまは、長椅子に並んで腰かけて、にこやかに話をしていた。その様子に(奥さまのしあわせ溢れる笑顔は、本当に久しぶりでございます。光祐さまがいらっしゃるとお屋敷の中が光り輝くようでございます)と祐里は感じ入った。
「坊ちゃま、お帰りなさいませ」
紫乃は、朗らかな笑顔を光祐さまに向け、香り高い紅茶を茶碗に注いだ。
「婆や、ただいま。婆やのご馳走を楽しみに帰ってきたよ」
光祐さまは、変わらない紫乃の笑顔に生家に帰ってきた安らぎを感じた。
「まぁ、嬉しゅうございます。坊ちゃま、紫乃にお任せくださいませ」
お屋敷は、光祐さまの帰省で、陽だまりの暖かさに包まれていた。
春の朧月夜。祐里は、光祐さまへ紅茶を届けに部屋の扉を叩いた。
「光祐さま、お茶をお持ちいたしました」
「祐里、来てごらん。月が綺麗だよ」
バルコニーから光祐さまの声。光祐さまの部屋のすぐ横には、蕾を膨らませた樹齢三百年を超える優美な桜の樹が枝を広げている。その枝の間に朧な月がかかっていた。月の薄明かりの中で木立が織り成す陰影が静かな湖のように青く広がっていた。時折明るさを増す月光が池の水面に輝く星空を展開していた。
「光祐さまとご一緒に拝見させていただくお庭は、御伽の世界のようでございますね。天空のようでもございますし、深い海の底のようにも見えてございます」
祐里は、光祐さまと並んでバルコニーに佇み、幻想的な庭園の風情に感動していた。光祐さまの横にいるだけで満ち足りたしあわせに包まれていた。
「月の光を浴びて、祐里は、この桜の精みたいだよ」
光祐さまは、庭に感動している祐里の横顔をみつめて、優しく肩を抱き寄せた。祐里は、静かに光祐さまに寄り添い温もりを感じていた。時間が止まったようにゆるやかに流れていた。
祐里は、お屋敷に世話になった日の事を思い出していた。
・・・・・・・・・黒い喪服を着た人たちが行き来し、祐里は、ひとり、部屋の隅に座っていた。いつの間にか隣に光祐さまが座って「ゆうり」と優しく微笑んで手を握ってくださった。福祉施設に行く予定だったのに、光祐さまは、その手をお離しにならなかった。その姿をご覧になられた桜河の旦那さまと奥さまが光祐さまの遊び相手にと、祐里を引き取ってくださった。奥さまは、光祐さまの出産後に体調を崩され、子どもの産めないお体になられたらしく、お二人は、祐里を実の子と同じように育ててくださった・・・・・・・・・。
祐里は、ご厚意に感謝しながらも遠慮して甘えられないでいたが、事情を知らない人が見ると、桜河のお嬢さまと思われても等しいほどに気品と優雅な雰囲気を持ち合わせて育っていた。
「おばあさまは、ご病気になられてからは、お側に寄せてはくださらなかったのでございますが、亡くなる少し前に私をお呼びになられて『この桜の樹は、桜河のお守りの樹だから、祐里がわたくしの代わりに大切にしておくれ』とおっしゃいました。それから毎日、桜の樹にお話に行くことにいたしましたの」
祐里の胸の中には、優しいおばあさまの笑顔が蘇っていた。
「おばあさまは、とても桜の樹を大切にされていたし、桜と同じくらい祐里のことを可愛がっておられた。おばあさまは、ぼくと祐里の味方だったものね」
光祐さまは、いつも背筋を伸ばしてお屋敷の采配をしていた祖母が、光祐さまと祐里には相好を崩し、厳しい顔を見せたことがなかったのを思い出していた。
「祐里、少し冷え込んで来たから部屋に入ろう」
光祐さまは、祐里の手を引いて部屋の中へ入り、格子の硝子扉を閉じた。
「お茶が冷めてしまいました。温かいお茶をお持ちいたします」
祐里は、冷めてしまった紅茶を気にかけた。
「お茶はいいよ。それよりもしばらくの間、祐里とこうしていたい」
二人は、長椅子に座り静かに寄り添った。何も話さなくてもこころが満たされ、しあわせな時間が緩やかに流れていった。
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