我が家で一番古いアルバムの裏表紙に、貼り付けられて大きな写真。
昭和2年(1927)、日米親善を目的として、1万2,739体もの「青い目の人形」が日本の子どもたちに贈られたエピソードがある。
当時32歳で教職に在った祖父が所蔵していたものと考えられる。日本各地の小学校でこのような行事が催された。
その当時の時代背景は、「日本の経済状態は悪化していたので、職業を求めて多くの日本人が渡米したが、日本人移民とアメリカ人の間で、労働をめぐる摩擦が起こった」とある。
■引用文献
大正14年(1925年)の日本移民を締め出す「新移民法」の成立をめぐり、日米間の国民感情が悪化したのを憂えて、子供同士の「人形交流」を契機として、将来の日米の親善友好を育てたいとの、ギューリック等の念願と努力が実ったものです。【山武市教育委員会】
やがて1941年12月の日米開戦に至る訳だが、戦争の世紀を生き続けた先祖の苦労が想像できる。
Japanese friendship dolls or Japanese ambassador dolls and the American blue-eyed dolls were programs of goodwill between Japan and the United States. American Sidney Gulick, a missionary in Japan, initiated an exchange of dolls between children as a way to ease cultural tensions in 1920s. Japanese Viscount Eiichi Shibusawa responded by initiating a program to send 58 dolls to American museums and libraries. Here is a list of the ones located in our jurisdiction. In addition, Miss Tokyo-fu was sent to Richmond, Virginia but the present location is unknown.